144話飛竜
部屋から一階の階段へと到着すると、月明かりと共にスマホの電波が、便りをつれて戻ってきた。
北城だ。
北城が、なんどかメールをくれていた。
私は、私の事など忘れたように先に進む溶生を見つめながら一度止まり、北城にメールを返す。
とりあえず、元気だと、そして、尊行さんの手帳について送信する。
扉の前で、一度、溶生は振り向いて私を見た。
私は、それに反応するように歩き始めた。
すると、溶生は扉を開けて外へと一歩踏み出した。
私は裏口付近に置いたリュックを背負った。
そして、羊水のように濃密で暖かい初夏の空気の中に身を沈めた。
ゆっくりと、楽しむように歩く溶生の存在を確かめていると、スマホが鳴った。
北城だった。
「池上……。大丈夫か?」
北城は、不安そうに私に聞く。
「さあ…。でも、そんな事はどうでもいい気がするよ。」
私は、初夏の甘い腐臭を吸い込んで、不思議な浮遊感に酔った。
「どうでも良いなら、そこを動くな。私が、対処方法を作り出すまで。」
北城に言われて、一瞬、頭に何かが光った気がした。
胸ポケットに手を置いて確信した。
この手帳は北城にこそ、ふさわしいと。
「北城、部屋の窓を開けろよ。」
「は?入ってくるなら、ドアから来い。」
北城の皮肉げな言葉が、懐かしく、心地よかった。
「いいから、早く開けろ、ヒントを投げてやるから。」
そこでスマホをポケットにねじ込んでリュックを下ろすと上着を脱いだ。
2階の窓が開き、私は、上着とリュックを持ってその下へと向かった。
「池の平だ。多分、それがヒントだよ。受けとれよ。」
私は、尊行さんの手帳を入れた上着を丸めて2階へと投げた。
1度は、軽くて失敗した。そこで、リュックから、ボトルの忌避剤を上着で包んで再び投げた。
次はうまくいった。
私は、嬉しくてバカ笑いをし、込み上げる切なさに胸を膨らませながらリュックを担いだ。
「なんだ、これはっ。」
不機嫌そうな北城の声がした。
「わからん。あはは…でも、それがヒントだ。
お前は生きろ。 」
私は、後ろ歩きをしながら北城の逆光の顔を名残惜しく見る。
遠くから、ロンドが聴こえてきた。
それは、80年代…私の学生時代に聞いたそれだった。
行かなければ!そう感じた。
そして、次の瞬間、尊行さんのあの言葉の意味を理解した。
私は、意味もなく万歳をして、酒にでも酔ったように大声で叫んだ。
「竜を見たんだ!尊行さんが見た竜の意味がわかったよ。
英語だ、英語なんだよ。」
「なんだ、英語って?」
「ふふふっ…あばよ!」
私は、舞われ右をして、次の瞬間には、北城の事など忘れてしまった。
辺りには、むせるような熟成肉の香りがした。
それをよく嗅ぐためにマスクを外し、眼鏡を取る。
溶生の歌が私を誘う。
いかなくては。
早く行かないと、良いところを見逃してしまうに違いない。
トンボ…蜻蛉は、英語では、飛竜
尊行さんは、なにか、珍しいトンボを見つけたのだろう。
西洋では、騎士の守護聖人ゲオルギウスの伝説から、蜻蛉に彼の倒した竜を見た。
そこで、この虫をドラゴンフライと呼んだのだそうだ。
尊行さんは…どんなトンボを見たのだろうか?
それを思うとワクワクする。
遠い意識から雅苗の言葉がこだまする。
ハリガネムシに操られたカマキリのように…池にのまれてしまいます。
今なら、空気中を漂う線虫が見える気がした。
月明かりが胸をつく。
自然とひとつになる…
そんな人生の終わり方もいい気がした。
勿論、新種のトンボは画像におさめてから、だが。