11話 神さま蜻蛉(トンボ)
雅苗の部屋に立ちながら、私は個人の部屋に無断で入る居心地の悪さを感じた。
10畳位だろうか?
個人の部屋としては広い気がするが、パソコンが置いてある少し広めの机と、
壁に埋め込まれた本棚で、あまり広くは感じられない。
「まあ、座ってください。」
長山が私を二人掛けのソファに誘う。
「はい。」
私は、少し緊張しながらソファにすわる。
長山は私の向かい側の一人用のソファに静かに座って私を見つめた。
しばしの沈黙が息苦しい。
よく分からない好意が漂ってきて、余計不安を感じる。
長山は膝を並べてきれいに座り、そこに両手を組んで置くと私を見つめる。
「池上センセイ……、まだ、私の事、そろそろ思い出してくれましたか?」
長山は馴れ馴れしく私に問いかける。
え?
私は、その親しげな様子に混乱する。
私は、物覚えがよくない。
正確に言うなら、人物を覚えるのは得意ではない。
ゲンゴロウは個体を見分けられる自信があるのだが、どういうわけか、人間はそう上手くはいかない。
がっ、それにしても、さすがに全く思いつかないなんて。
先生なんて、私を言うのだから、前の仕事か、虫仲間の関係の人間なのだろうが……。
私が混乱しているのをしばらく観察して、長山が自己紹介を始めた。
「混乱させたみたいですいません。
私が先生とお会いしたのは、もう、20年近く前の話になるのですからね。」
長山は昔話を楽しむように、リラックスした笑顔になる。
20年前…。
1999年…あれは、本当に大変な時だった。
ノストラダムスの予言は外れたけれど、
世紀をまたぐという、それも千年に一度のイベントに誰もがざわついていた。
不思議とこの年の死傷者は減ったのだそうだ。
そして、恋人達も頑張った。
世紀末には結婚式も増え、私の財政も滅亡寸前だったし、
仕事場も20世紀問題とかで、社内のコンピュータのアップグレートとかで大変だった。
いけない、そんな事を考えている場合ではない。
私は焦りながら長山を見つめた。
長山はそんな私を懐かしい…好きな人物を見つめるような視線を向けて話をする。
「昔、この辺りで夏休みの子供向けのイベントに参加しませんでしたか?」
長山の質問に、私の記憶が開いて行く。
20年前…私も、まだ腹に無駄な肉もなく、趣味が登山だった頃、
山仲間に頼まれて地元のイベントの手伝いをしていた。
あの頃は、地方も活気がまだあって、虫好きの子供達が沢山いた。
ので、地方イベントとして『虫の観察』や『オオカブトをとろう』みたいなものがあった。
で、虫と山の仲間の仲には、そんなイベントに関わる人が少なからずいて、まだ若かった私は、よく駆り出されていた。
虫のイベントという事もあり、会社も有給を取らせてくれた事もある。
で、イベントが終わるとキャンプやら山登り、虫取など、それなりに楽しいこともあったので、私も、フットワーク軽く全国をまわったものだ。
なるほど、貯金が少ないわけだ。
私は、若い頃の考えなしの自分を振り返り呆れながら、この土地のイベントについて思い返す。
「すいません。あの頃、沢山のイベントの手伝いをしていて…それに、長山さん、小学生だったのではありませんか?」
私が恐縮しながら言うと、長山は少し残念そうに、そして、ラストチャンスを願うようにこう言った。
「そうでしょうね。当時、私は小5だったし。覚えてませんよね?
『神様トンボ』の話で助けられたのですが。」
「神様トンボ?クロトンボの事かな?」
私は、ひときわ美しい黒い小さなトンボを思い出した。
それは、生息域が広いトンボではあるが、清らかな水を好むため、最近ではなかなか見つけられない、漆黒の宝石細工のようなトンボである。
特に、雄は緑色の貝を埋め込まれたようなきれいな体色をしてして、蝶のようにヒラヒラと優雅に飛び回るのだ。
私は、この土地で、田んぼに舞うクロトンボを想像し、一人の泣き虫の少年を思い出した。
なぜか、クロトンボに愛されて、頭に止まる様を見た友人達が、黒揚羽の伝説を持ち出して、『呪われた』だの、『死ぬ』だのと意地悪を言われていたのだ。
そこで私は、クロトンボは縁起の良い神の虫だと話したのだった。
日本において、田の害虫の駆除をしてくれるトンボは、蛙と並んで益虫として愛されている。
が、この繊細で、不自然なほど黒く際立つ羽を持つこのトンボは、始めてみる人には畏怖の念を呼び起こしてしまうのだろう。
「もしかして、トンボの呪いと言われた子?」
私は、仕事を忘れてつい、気さくな話し方になる。
「そうです。先生に『世界一のラッキーボーイ』にして貰った長山です。」
長山は嬉しそうに笑った。
長山は、私が昔の自分を思い出した事を本当に嬉しそうにしていた。
そして、立ち上がると書斎の机の引き出しからA4サイズのファイルを取り出して、私のもとへと戻ってきた。
「あの時のイベントに雅苗さんがボランティアをしていたのです。」
長山は、ファイルを開いて、はじめのページの当時の集合写真を見せてくれた。
そこには、私の山仲間と、区長さん、婦人会の人たちに混ざって高校生の姿があった。
その中の一人に長山は指を指した。
「この人が雅苗さんです。」
長山の指差した少女は、耳の辺りで髪をゆるく切り揃え、ふわりとした膝上丈のワンピースを来た可愛らしい少女だった。
「随分と…若かったんだね。」
私は、一緒に写るおっさん風味の自分と比べても、まだ、あからさまに歳の違う雅苗の姿に驚いた。
溶生さんは、私よりまだ年上なのだ。
そう考えると、なんだか、世の中の不公平が胸に刺さる。
「ええ。17歳でしたから。私と6歳違うんですからね。芸能人とはいえ…溶生さん、犯罪ですよね。」
長山の台詞にもネガティブな雰囲気が漂う。
「まあ…成人してからの事だから。」
私は、無難に答えた。
「そうですね、雅苗さんが決めた事ですから、文句を言っても仕方がないんですけど。
ああ、話が変わりますが、あのイベントで、池上センセイに出会って、私、大学で生物学を学びましたよ。」
長山は笑顔で嬉しいことを言ってくれる。
「でも…君はテレビの仕事を選んだわけだ。」
私は笑った。
「仕事はテレビ…だけではありませんけど、でも、珍しい動物を撮影したり……、海外にも撮影に行ったりもしましたよ。」
長山は少し自慢げにそう言って、それから、話が脱線したことを思い出してこう言った。
「ああ、すいません。
話したいのは、そんな事ではなく、雅苗さんの事なのです。」
長山は眉を寄せて真面目な顔になる。
「雅苗さんの事?それが、私の特別な仕事と言うわけですか?」
私は出会ってから長山が含みを持たせていた仕事内容が明かされる予感に緊張する。
「そうです。」
長山は少し緊張したように唇を引き、少し間を置いてから先を続けた。
「雅苗さんの失踪については、前に少し話しましたよね?
これについて、親族の方々も心配していらっしゃいます。
これまでも、様々な人に協力をしてもらって探したようなのですが、見つからないのです。」
「私は、探偵ではありませんよ?」
私は心配になってきた。
人探しなんてやったことは無い。
そんな私を長山は見て、『心配するな』と言うように笑顔を作る。
「大丈夫ですよ。センセイは、優秀な名探偵ですから。」
長山は笑顔でファイルに挟まれた黒歴史を掘り起こす。
長山の開いたページには、区長さんが貸してくれたダンディな帽子と、昭和のインテリジェンス満載の分厚い黒ぶちの眼鏡をした『虫探偵』を扮する私の写真だった。
「………。」
私は地方イベントに力を貸す、微笑ましくもイタイ自分と再開して言葉をなくした。
「虫探偵シンゲン。懐かしいですよね。」
長山が本気で昔を懐かしむので、私はいたたまれない気持ちになる。
なんで、日雇い派遣でこんな恥辱を味わわねばならないのか。
私が恥ずかしがってることなど知らない風に長山は嬉しそうに目を細めて当時の思い出を私の心に荒塩マッサージをするように嬉々として私の黒歴史を語ってくれた。
「と、言うわけで、私は、池上センセイを尊敬しています。
そして、秋吉くんからセンセイの名前を聞いたとき、これは運命だと確信したのです。」
長山が、私を誉めたのか、バカにしているのか、良くわからないまま、私は、自分に課せられる仕事について思案する。
「たとえ…私が虫探偵をしていたとしても、」
声にすると、思った以上に恥ずかしい。が、ふりきるように話す。
「そうだとしても、人探しのスキルはないよ。 」
「探してほしいのは、人ではありません。虫ですよ。
黄金虫。いや、センセイにやる気を出して貰うには、ファーブルのスカラベ・サクレと言った方がいいかな?」
長山の台詞を、私は少し不機嫌に聞いていた。
「『黄金虫』エドガー・ポーの小説かい?
オイオイ、まさか、新種の黄金虫探しなんて言わないだろ?」
私は、エドガー・ポーの有名な冒険小説を引っ張りだして嫌みを言った。
確か、ポーの『黄金虫』と言う話は、新種の黄金虫が、海賊キッドの宝を見つける鍵になる話だ。
が、海賊の話が無くとも、美しい姿の黄金虫の新種なら、それなりの価値と…
私の場合は、名声、そして、世界で一番に観察、研究できると言う特典がつく夢物語だ。
「そうです。その黄金虫です。」
長山は話が通じたと、嬉しそうに頷き、
私は、更なる混乱でこんな皮肉を口にした。
「それが本当なら、矛盾が生じるね。
だって、ファーブルの観察したスカラベ・サクレは、後にヒジリタマオシコガネだとわかったのだからね。」
こんな事は、全くの言いがかりに近い苦情なのだが、『ファーブル昆虫記』に登場する黄金虫スカラベ・サクレは、別の種類なのだ。
子供の頃、その違いを知った私は複雑な気持ちになったものだが、
長山は想定内の余裕の笑みを返した。
「雅苗さんは、2010年代に甲虫について研究をしていて……
当時、開発が進んで減少を始めていた南仏の…ファーブルのフィールドの黄金虫について調べていらしたらしいのです。」