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第2話 へんなムシがいたので、よくよく言い聞かせておきました

 ハンコ屋の一人息子である武田(たけだ)虎之輔(とらのすけ)くんには、怪異が見える。


「トラ、庭に池があるぞっ。ちょっと泳いできていいかっ」


「だめだよ、鶴来(つるぎ)さん。水着もってきてないでしょ」


「そうだなっ。あとで、一緒に買いにいくぞっ」


「あー、きみたち、本当に治療のプロ?」


 汗ばんだポロシャツを胸元でばたつかせながら、桑原氏は二人に確認する。


「赤坂院長は、そう紹介したんですか。まあ、症状と原因によっては、お役に立てます」


 見たことのない学ラン姿なので、このあたりの生徒ではないようだ。


 中肉中背、気だるげな表情。しかしもっと気になったのは、右腕がないことだ。


 ただの事故ではない、と桑原氏は察した。高校生にして、なんだかよくわからない修羅場をくぐりぬけた痕跡が、その傷口からシロウト目にも漏れ出ているのが分かったのである。


「あのヤブ医者には、あとでたっぷり奢らせるから、結果にかかわらずお代は結構だっ」


 長い黒髪の少女は、たしかに顔は整っていたものの、あきらかに残念美人だった。まるで野獣のような瞳をして、つねに鼻息が粗く、むしろこっちが野生のトラを思わせた。


「で、こちらですか」


 三人は、門からそのまま縁側にまわっていた。


 猛暑日なので、まずは水でもという誘いを少年は断り、先に現場の説明を求めたのだ。


「あのガラス引き戸の奥は、居間になっている。夏場は、庭がよく見えるこの部屋で、妻は寝起きしてたんだ。奇妙な熱を出してからは、クーラーのある寝室にいるんだけれどね」


 居間は、母屋で唯一、縁側のある部屋だという。洗濯物を干すためではなく、庭に出るための出入り口にも使っているらしく、縁台の下には、樹脂製のサンダルがしまわれていた。


「奇妙ですね、この造り」


「と言うと?」


「ほら、この縁側、くもりガラスでしょう」


 縁台と寝所を隔てるアルミサッシのガラス戸は、たしかに不透明で、グラデーションが下側にいくほど濃くなっていた。


「ああ、居間に寝ている妻の姿を、見られなくてすむ。庭の向こうは、わりと人通りが多いんだ」


「うむ、わたしたちが来たときも、植え込みごしに、くもってない部分が丸見えだったぞっ」


「鶴来さんは、ちょっと視力がおかしいから」


 昭和のはじめから続く農家だっただけに、敷地はムダに広い。庭にする前は、刈った稲を脱穀する広場だったり、トラクター用の屋根付きの車庫があったそうだ。


「奇妙なのは、このガラスが外側から加工してあるんですよ」


 桑原氏が手に触れると、確かにざらざらしていた。


「こんな施工、プロじゃないですよ。普通はツルツル側を外にします。このタイプは……砂を吹き付けてる昔ながらのスリガラス。ザラザラしてるから、すぐ砂ぼこりや汚れが詰まって、掃除しにくいです。それに」


 少女がリュックから水筒を取り出すと、少年がその中身をガラスに垂らす。とたん、くもりガラスが室内を映し出した。


「雨で濡れたら、透明じゃなくなるんです」


「たしかに、これでは無意味だ。でも、今まで気付かなかったな……」


「これは浴室に使ったら、とんでもないなっ」


「鶴来さん、興奮しない。で、まだサッシにも砂がついてるから、最近の加工ですね。病気がちの奥さんが、布団のまま庭を楽しむには、これは邪魔だったはずです」


「つまり、妻が誰かに目を付けられて、イヤガラセを受けていたと?」


「くもりガラスのイタズラと、原因不明の高熱。タイミング的にこれらは無関係とは思えないですね」


「もともと病弱なのが、猛暑で体調を崩したと思っていたが……警察案件かもしれないなあ」


「トラっ、ハッキリしないときは当人に聞いてみるのが一番だぞっ」


「そうだね。桑原さん、奥さんは今日お話でそうですか?」


                ◆  ◆  ◆


 今日は夫人の体調が良いとのことで、居間に来てもらった。


 自宅療養中だというのに、わざわざ着替えと化粧まですませた夫人は、茶菓子も出せない不備を詫びる。


「そうね。前はスリガラスじゃなかった気がするのよ。おふとんに伏せったまま庭を眺めていたんだし」

 ガラスがくもりだしたのは、高熱を出す数日前ではないかと。


「ちょうど灯籠祭りの日にね。あ、これってお地蔵さんに水を掛けて、涼んでもらうお祭りなんだけど、わたしは人混みで体調を崩しそうで、今年も行けなかったの」


 それで、せめて池のあたりで涼をとろうとしたところ、一匹のカメを見たのだという。


「うちでは飼ってないな。近所の子どもが放したのか。どんなカメだった?」


「どんなと言われても」


「ミドリガメとか、ゼニガメとか、イシガメとか」


 夫の方の桑原氏が、カメを羅列する。


「ごめんなさいね、主人は魚や水の生き物が好きすぎるので」


 庭に池を作るくらいだし、沢や川がまわりに豊富であるから、少年時代にさぞや遊び親しんだのだろう。


「そうですねぇ、甲羅があったけど、お口が細かったので、スッポンだったのかもしれないわ」


「それは危ない。かみつかれなかったか」


「ええ、なんだか干からびかけてたので、願掛けしながら池のお水をかけてあげたら、そのうち池に戻っていきました」


「願掛け?」


「えっと……はやく涼しくなりますように、って」


 夫人が寝起きしていた居間のクーラーが壊れ、昼間はたいそう暑くなっていた。家電店も繁忙期で、修理は何週間もあとになるらしく、せめてカーテンでも付けようかと話をしていたところだった。


「仕事が忙しく、なかなか日曜大工ができなくてな。カーテンレールすらつける余裕がなかった」


 いまは窓をあけて、涼しい風が吹き込んでいたが、夜はじわじわと熱が籠もるのだという。


「その夜から、ガラスがどんどん濁っていき、お庭が見えなくなってきたんです」


「なるほど」


 少年は手慣れた片手操作で、スマートフォンに画像を表示した。


「奥さん、こんなの見たことありません?」


 それは、カメというよりは、ムシであった。


 タガメのような体格に、長い両手、そして後ろ脚は四本。


 背中に甲羅があり、口が尖っている。


「あら、この子だわ、池にいたのは」


 少年が見せたのは、江戸時代に記された博物学の奇書「和漢三才図会」の挿絵である。


「これは野生動物というか……(よく)というムシの一種です」


「ヨク?」


虫偏(むしへん)(ある)と書いて、「ヨク」または「イサゴムシ」とも呼びます」


「イサゴムシっていうのは、川にいるトビケラの幼虫じゃないか」


 トビケラの幼虫は水中に棲み、砂粒で作ったミノのような家で身を守るという。


「それとは別の生き物なのか、長く生きてると変化するのか、とにかく習性が全然違います」


「ああ、トビケラというより、これはマツモムシに似ているかな」


「しかし、人の顔があります。ムシや動物に、人面があるのは、神か妖怪の類いですね」


「あら、一緒にしてしまうの?」


「もとより、神と妖怪に境界なんてありませんからね。決めるのは人です」


「ずいぶん難しいことを言うね。で、そのムシだか妖怪が、妻に何をどうしてくれたのかな」


                ◆  ◆  ◆


「調度品の家紋から察するに、桑原さんの出自は近畿ですか?」


「ああ、殿様と一緒に江戸に入って、改易後も戻らなかったらしい。明治の御一新の頃に、奥多摩に引っ越してきたと聞いている」


「あちらは桑姓が多いですね。桑ってのは中国が原産で、カイコのエサとして一緒に渡来したんだと思うんです」


「家系が渡来人だったと? まあ、日本人だったら、あってもおかしくない話だけど」


「ぼくは先祖帰りと呼んでるんですが、本人は意識することなく、祖先の業を繰り返すってことが、往々にしてあるんですよ。桑原さんと(よく)には、よくよく縁がある」


   蜮山(わくざん)なるものあり。


   蜮民(わくみん)の国あり。


   桑姓(そうせい)にして、(きび)を食い、射蜮(しゃわく)これを食らう。


   (わく)短狐(たんこ)なり。


   (すっぽん)に似たり。


   (すな)を含みて人を射、これにあつれば則ち病死す。


   (山海経・大荒南経)


 ワクと飛ばれるスッポンに似た動物がいて、桑という姓の人が弓で狩っては食べていた。


 ワクは砂を吹き、これにあたれば人は病で死んでしまう。


「ぼくの知る(よく)は、わりと義理堅いムシでして。奥さんが水をかけてくれたことに恩義を感じて、日陰を作ろうとしたんじゃないですかね」


 少年はガラス戸を見やる。


「あれは十中八九、この(よく)のシワザでしょう。ガラス戸をくもりガラスにして、太陽の入りを弱めようとしたんですよ」


 しかしある夜、夫人が砂を叩きつける音に目が覚め、灯りをつけたところ、影がガラス戸の外に映り込んでしまった。


 そこに砂があたってしまったのだ。おそらく。


「『含沙(がんしゃか)、影を射る』の言葉にもあるように、影に砂を吐かれた人間も高熱を発して、病気になります。それはガラス越しであっても逃れられません」


「どうすれば治せるんだい?」


「重傷のときは、ミズスマシを食べさせます」


「近くの川になら、いるはずだけど……」


「量販店に行けば、粉にしたやつが売ってますよ。ゲンゴロウやタガメと間違えないように。アメンボも違います」


 昆虫食ブームなのだ。


「まあ、いまはだいぶ回復しているようですし、そこまでする必要はなさそうです」


「安心した」


「安心しました。さすがにムシは……」


 さて、と、少年は立ち上がる。


「前漢の劉歆(りゅうきん)によれば、(よく)は猛暑で発生するとあります。桑姓の縁と、猛暑が重なって、今回の奇蹟的な出会いがあったようですが、今後はそうそう見ることはないでしょうし、見かけても放っておいてください。間違っても、ご先祖みたいに弓で狩ったらダメですよ」


                ◆  ◆  ◆


 帰り道は、二人でのんびり駅まで歩くことにして、見送りは遠慮した。


「まあ、自然な着地点だったかな」


「さすがトラだなっ。ご褒美に、水着を買ってやろうっ。わたしとおそろいのワンピースだっ」


「それ、鶴来さんだけのご褒美でしょ。自重しなさい。あ、それから、お前も」


 少年は垣根から顔を覗かせている妖怪に言って聞かせる。


「あんな感じで説明しておいたから、もう見つかるんじゃないぞ。人も鳥も天敵なんだから」


 ムシはこくこくと何度もうなずく。


「トラは最初は乗り気じゃなかったが、途中からずいぶん親切になったな」


「だって、あのオッサンが浮気でもしてると思って、首を突っ込むのがヤだったんだよ」


「ああ、(よく)が淫気あるところに生まれるという俗説だなっ」


   男女、川を同じくして浴し、淫女、主と為す。


   乱気の生ずる所なり。


   (「捜神記」巻十二)


「本当に俗説かどうか確認する必要があるなっ。よしっ、駅前の百貨店で水着を買いそろえようっ。川で遊ぶぞっ」


「これ以上、(よく)を増やしてどうするの!」


 ずんずん歩いていく少女に、ないはずの右腕をひかれるように彼もまた早足で進んでいくのであった。

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