1-4.
【幻獣】
魔法世界に生息する、強大な魔法生物。
弱い個体でも人間の数倍の潜在魔力を持つ。
本来であれば現世界に顕現することは無い。
低い、怖気のする唸り声が聞こえてきた。それは昔、蓮治に連れて行って貰った動物園で耳にした、ライオンの唸り声に似ていた。
遥は自分の背後に、何かの気配を感じ取った。
そう遠くない距離に、何かが居る。
背中を貫く気配に、ぴたりと当てはまる言葉があった。
――殺気。
「一体、何が……!」
振り返った遥は、その異常を目の当たりにした。
それは獣だった。
四つ足で立つ、ライオンに似た獣。
だがそのたてがみは、水晶にも似た結晶で出来ていた。
いや、違う。あれは氷だと、遥は直感した。
その体躯も、常識外だった。
我彼の距離は、およそ十メートル。にもかかわらず、その巨躯は圧倒的な威圧感を放っていた。
四つ足で伏せた状態でなお、遥の身の丈を越える大きさ。全長は果たして、何メートルになるのか。
開かれた口腔には、鋭く尖った銀の牙。
見開かれた眼は、蒼い光を放って遥を捉えている。
氷の獣は、涎を垂らしながら遥に向かって唸り声を上げている。
遥は、頭が真っ白になりながらも感じ取っていた。
(食べる気だ、私を)
殺気の正体は、食欲。
生態系の食物連鎖。
そして一流の狩人である獣が殺気を放つのは――確実に仕留められる距離に他ならない。
「あ、あああああ!」
恐怖に叫び声を上げる遥。
それを合図に、氷の獣が飛び掛かって来た。
十メートルの距離を、一足に詰めてその牙を遥に突き立てんとする。
自分に向かってくる死を見つめながら、遥は過去を振り返っていた。
再会した尊人、ずっと傍にいた氷雨。二人とは、また昔みたいに笑い合えると思った。
いつも面倒を見てくれた蓮治。家にいることは少なかったが、優しく頭を撫でてくれた父。
迷惑ばかり掛けていたかもしれないけど、いつだって見守ってくれていた二人だ。
そして、母。
誰よりも大好きだった、母。
強く、優しく、日向のような笑顔でいっぱいに抱きしめてくれた、母。
どこよりも温かかった、母の腕の中。
何より心を落ち着かせてくれた、花のような香り。
いつか私が大きくなったら、その時は。
それはもう叶うことのない約束。
遠い昔に、忘れていた約束。
もういない、母の。
私が、殺した母。
その瞬間、遥の内で何かが弾けた。
断片的に見えるのは、走馬燈ではない。
炎だ。
抜けるような青空と、深い海の狭間で。
荒れ果てた大地を、歩いていく獣が。
その身を太陽とした、己の。
纏う紅蓮の炎だった。
翳した右手から、火炎の塊が放たれる。
それは氷の獣が大きく開けた口に、直撃した。
「――――!!?」
声にならない啼き声を上げて、氷の獣は爆発の余波と共に数メートル吹き飛ばされた。
コンクリートを捲り上げながら、地面に爪を引きずった痕が刻まれる。
「なに……? 今のは、私……が?」
自分の右手に目を落としながら、遥は戸惑っていた。
自分は、生きている。
それはあまりにも強烈な、身を焦がすほどの感動だった。
それはあまりにも鮮明な、焼けるような生の実感だった。
「グオオ……!」
遥は再び、氷の獣に目を向ける。
手負いの獣は先ほどよりも濃密な殺気を放ち、遥を睨み付けていた。
遥に焼かれたその口腔は、醜く焼け爛れ、砕けた牙が音を立てて落ちる。
肉の焼ける臭いが、遥の鼻にまで届いていた。
「まだ……やるの……?」
遥の戸惑いを、氷の獣は唸り声と共に射殺した。
またも距離を一足に詰める、猛烈な突進。
颶風を伴いながら迫るその巨躯は、当たれば無事では済まない弾丸と化している。
しかし遥の足は、自然に動いていた。
飛び込むように突進をかわし、前転して獣の左側面に回り込む。
「もう……やめてっ!」
自然と伸びた右手から、またも豪炎が噴き出した。
至近距離で横っ腹に爆撃を与えられた氷の獣は、身を曲げて宙を舞った。
地鳴りと共に、獣は地に倒れ伏す。
「一体、何なのこれ……分からない、分からないけど……」
分からないけど、決していい気分ではない。
満身創痍という様子で、しかし氷の獣はまだ遥への敵意を消そうとしない。
「やめよう、こんなの……これ以上やったら、私は」
その先の言葉を、遥は飲み込んだ。
『何をしている』
その時、遥の頭の中に声が響いた。
「え……だ、誰っ……!?」
『殺せば良いではないか。あれは、我とお前を狙っているのだぞ』
遥の質問を黙殺し、頭の声はその言葉の端に殺意を滲ませた。
頭の声は、殺せという。
でなければ、己が死ぬぞと。
それは当たり前の話だった。
相手は、生態系の食物連鎖で遥を喰らおうとしているのだ。
そこには情けも慈悲も介在する余地は無い。
やらねば、やられる。
そして、遥の手にはやるだけの力が宿っていた。
これはもう、そんな極めてシンプルな話だ。
やるか、やられるか。
「で、でも……」
『でも、もあるか。大人しく喰われてやる気か?』
頭の声は、遥に決断を促す。
残酷なまでのリアルだった。
「だって……あれも、生きて……」
『だって、もあるか。生きているのは我彼も同じだろう』
遥が攻めあぐねている内に、氷の獣は体勢を整えていた。
また、あの突進が来る。
私が、殺す?
あの生き物を、殺す?
「うっ……おえっ……」
猛烈な忌避感と共に、吐き気が込み上げてくる。
『来るぞっ!』
頭の声が、遥に檄を飛ばす。
口を抑えながら、遥は転がるように氷の獣の突進をかわした。
「うぶっ……げぇえっ!」
受け身も取れず地面に体を打ち付けた遥は、たまらず嘔吐した。
ばしゃりと地面に、胃の内容物がぶちまけられる。
「グオオッ!」
それを好機と、氷の獣はその爪で遥を引き裂かんとした。
水晶のような爪が、遥に襲い掛かる。
『この、半端者が……!』
怒りに満ちた、頭の声。
それと同時に、遥の体から急に現実感が失われた。
四肢の先端から、感覚が消えていく。
代わりに、例えるなら根の張るような歪な熱が、体の中心から広がっていくようだった。
「「ふん、言葉も解さぬ下等生物め」」
遥の口が、自分の意思とは関係ない言葉を吐く。
それは先ほどまで頭に響いていた声の主が発する言葉だった。
遥の体が起き上がり、同時に火柱が立ち上った。
渦巻く火炎は、氷の獣の爪を溶かし弾く。
「「慣らしには丁度いいだろう」」
しかとその両足で、遥は立っていた。
だが、それは遥であって遥でなかった。
肩にかかるまでの髪は、眩しい橙色に染め上げられ。
開かれた両眼は、燃える朱に輝きを増し。
頬に浮かぶは紅蓮の紋様。
性別を超えた聖性を纏った顔は、不敵な笑みを浮かべていた。
「「さて、見せてやろう」」
その背から、炎の翼が噴出する。
その威風は、炎の天使か。それとも炎の悪魔か。
「「この身こそが、業火の化身だ」」
氷の獣に、言うなれば恐怖という感情が見えた。
獣の内から、冷気が発生していく。少しでも目の前の炎に対抗しようという策だろうか。
氷晶のたてがみはその大きさを増し、巨大な氷柱となって遥だった存在に向けられた。
「「面白い。やってみせろ」」
挑発するように、遥だった存在は手招きしてみせた。
「ウォオオオオオオオオ!」
咆哮一閃。
氷の獣がその頭を振ると同時に、氷柱が発射される。
一撃必殺の、まさしく氷のミサイルだ。
「「手緩い」」
遥だった存在は、超高速で己に迫る氷のミサイルに向かって、まるで問題でもないという風に手の平を向けた。
それは制御された炎が放つ、熱線だった。
氷のミサイルを包み込んでなお余りある、極太のレーザー。
それは氷のミサイルを跡形もなく消し去り、勢いそのままに氷の獣を飲み込んだ。
「――――」
断末魔すら、最早聞こえることは無かった。
レーザーはその破壊力の痕跡を刻みながら過ぎ去り。
氷の獣は、その巨躯がまるで最初から存在していなかったかのように。
この世から、姿を消していた。
「「ここまで……か」」
呟きと共に、遥の感覚が蘇ってくる。
遥は、音の無い世界で一人立ち尽くしていた。
「……た……」
焦点の合わない目で、震える己が身を抱きしめる。
「私がっ……殺し……た……!」
またも吐き気が込み上げる。もう吐くものもなく、遥は胃液をぶち撒けた。
体の震えが止まらなかった。
自分の手で、他の命を奪った。
その事実は遥にとって余りに重かった。
何よりそれは、その事実は、遥の心的外傷を深く抉るものだった。
気付けば遥は、立っていられなくなっていた。その場にしゃがみ込み、ひたすらに嗚咽を漏らす。
遥は失禁すらしていた。生暖かい広がりが、地面に染み込んでいく。
涙がとめどなく零れ、息が苦しくなった。いや、もう満足に呼吸も出来なくなっていた。
絶え絶えに、息ともいえない呼気を上げて、とうとう遥は倒れ込んだ。
力が入らない。
息が出来ない。
その意識が暗闇に落ちる寸前、遥が霞み見たものは、自分のよく知る人物だった。
【遥の心的外傷】
繰り返し見るも起きる頃には忘れてしまっていた悪夢は、無意識に“ある記憶”を封じ込めていた。