1-3.
【一年三組】
遥の所属するクラス。
大まかに分けて運動部系のグループと、文化部系のグループと、そのどちらにも属さないグループの三つに分かれるようだ。
遥と氷雨が所属する一年三組の教室は、校舎二階の東側の廊下にある。
立風高校は一学年につき八つのクラスがあり、一クラスあたりの人数はおよそ四十人で、基本的にどのクラスでも女子が過半数だ。
教室の席でも、氷雨と遥の席は名前順であった。男女混合の五十音順で、黒板側の入り口から一人ずつ席が割り振られている。
席についてまず驚かされたのは、先ほど目が合った男子生徒が左隣の席だったことだ。
またも目が合うが、遥は何故か気恥ずかしい気がして俯いてしまった。
「なぁ、もしかして……遥じゃないか?」
探るように、男子生徒が遥に声を掛ける。遥は驚きに、思わず背筋が伸びた。
ぎしぎしと音がしそうな程、固い動きで遥は声の方向へ顔を向ける。
改めて男子生徒の顔を見ると、見覚えがあった。
「……尊人君?」
先に気付いたのは、遥の前の席に座る氷雨だった。
桐八尊人。遥が思い出しかけていた、もう一人の幼なじみだった。
氷雨と同じ時期に友達になったが、二年ほどで親の転勤に伴い転校してしまったせいで、以降は疎遠になっていたのだ。
「そっちは……氷雨、氷雨か! 何だ、氷雨も同じクラスなのか!」
尊人は嬉しそうに声を上げた。人懐っこい笑顔だ。
「尊人って、あの尊人……?」
「おい、忘れてるのかよ! 昔よく遊んだだろ?」
次々と蘇る記憶の中には、確かに尊人の姿があった。
「あの尊人だ! うちのお母さんのお風呂覗いて叩かれて大泣きしてた尊わぷっ!」
「ばっ……何口走ってるんだ!」
慌てて尊人は、遥の口を手で塞いだ。まさか高校生活初日で、昔の恥ずかしいエピソードを暴露される羽目になるとは思っていなかったのだろう。
しかし遥の能天気な声は、教室によく通ったらしい。周りでひそひそと、尊人を遠巻きに見るような声が上がっていた。
「ご愁傷様」
憐れむような氷雨の言葉は、尊人にとって何の慰めにもならなかった。
「それにしても懐かしいな。七年ぶりくらいか?」
話題をすり替えるように、尊人が口を開く。
「そうね。でも、どうして尊人君がここに?」
氷雨は不思議そうに首を傾げた。確か、飛行機を使うほど遠くに引っ越した筈だったのだ。
「そうそう、またこっちに越して来たの?」
尊人の手を退けながら、遥も疑問を口にする。
「親父とお袋が海外に行くことになってさ、俺はこっちの祖父ちゃんの家に居候することになったんだ」
尊人は照れ臭そうに頭を掻くと「俺、英語からっきしだし」と付け加えた。
「へえ、そうなんだ。じゃあお祖父さんの道場にもまた?」
「どうだろうな。まだ決めてないけど、部活次第かな」
尊人の祖父は、小さいながらも空手の道場を開いているのだ。遥も昔、見学に行った記憶があった。
積もる話が弾んだところで、教室の扉が開かれる。
「はい、みんな静かにしてね」
入ってきたのは、遥たちの担任教師である眞壁静稀先生だった。
さっぱりとショートボブにした栗色の髪に、パンツルックのスーツという、いかにも快活そうな印象の若い女教師である。
「細かい自己紹介は先日のガイダンスで済ませたから、省きますね」
静稀先生はそう前置くと、今後の選択授業や部活動の申し込み等について説明を始めた。
ひそひそと聞こえるのは、男子生徒の興奮した気色だ。確かに、遥から見ても静稀先生は美人というか、健康的な色気のあるように感じられた。
ボーイッシュないで立ちに、極めて女性的な体つきをしているというのも作用しているようだ。
(ちょっと、お母さんに似ているかも)
そんな感想を浮かべる遥に対し、隣の尊人は話が始まって早々に舟を漕いでいる。氷雨の呆れたような溜息が、遥の耳にも聞こえた。
「出席番号九番、桐八尊人! 大事な話をしているんだから寝ない!」
ぴしゃりと静稀先生の叱咤が飛ぶ。予想外に鋭い語気に、何人かの生徒が息を呑んだ。
「ふぁいっ!? あ……すみません」
寝入りそうになっていたところを叩き起こされた尊人は、椅子からずり落ちかけながら謝る。静稀先生の一睨みは、率直に言って怖いものだった。
「少なくとも今後三年間に関わる話をしているのだから、きちんと聞きなさいね」
ぱんと手を叩くと、静稀先生はまた話を再開した。
クラスメートの笑いを誘った尊人は、恥ずかしそうにしている。
遥は呆れ、氷雨は自業自得だと言わんばかりに冷たい眼を向けていた。
三十分ほどで最初のホームルームは終わり、生徒たちは思い思いに教室を出て行く。
家族と合流して帰る者もいれば、気の合う友人を見つけて話し込む者もいた。
「よう、これからどうするんだ?」
氷雨と帰り支度をしていた遥に、尊人が鞄を肩に担いで声を掛けた。
「遥は私と帰る」
妙に刺々しく、氷雨が尊人を制するように言う。
「尊人もお祖父さんの家だったら、確か方向は一緒だよね」
氷雨の態度もどこ吹く風で、遥は「一緒に帰る?」と聞いた。
「そうだな。久しぶりにおばさんにも挨拶したいし」
尊人の言葉に、氷雨は鋭い視線を飛ばした。
だが、無理もない。尊人がこの町を出てから、七年の歳月が経っているのだ。
「それに、あの人もいるんだろ? 蓮兄ちゃん。よく遊んで貰ったよな」
「うん……そうだね。蓮兄も喜ぶと思うよ」
遥は母の話題には触れず、寂しさの滲む笑みを浮かべた。
「どうかしたか?」
そんな遥の機微を感じ取ったのか、尊人は心配そうな声を出した。
その言葉に驚かされたのは、遥より氷雨だった。遥は、自分のマイナスの感情を隠そうとするところがある。
それを察することが出来るのは、氷雨を含む一部の限られた人間しかいなかったのだ。
「ん……何でもないよ。じゃあ、帰ろっか」
「お、おい」
引き留めようとする尊人を、氷雨が抑えた。氷雨は尊人に向かって、首を横に振る。
「後で分かる」
尊人はその言葉に腑に落ちない表情を浮かべたが、氷雨の言う通り後になってその真意を知ることとなった。
◆ ◆ ◆
登校時と違い、遥はゆっくりとしたペースで自転車のペダルを漕いでいた。
氷雨と尊人と三人で帰る予定が、遥は一人だった。
尊人はその体格から、登校時より運動部に目を付けられていたらしく、激しい勧誘の嵐に飲み込まれてしまった。
氷雨はというと、家庭のことで話があると職員室に呼び出された。長くなりそうだからと、氷雨は申し訳なさそうに遥に謝っていた。
そんな訳で、遥は一人寂しく帰路に着いていたのである。
(さて、このまま帰ってもいいし……ちょっと寄り道してもいいかな)
気ままに風を切って大通りを下りながら、遥は思案していた。
――その時、世界が変わった。
まず異変を感じたのは、音だ。
無音。
そう表現してもいい程に、音が消えた。
次いで肌に触れる空気。
春なのに、異様なほど肌が粟立つ寒気――いや、寒気というよりは冷気だった。
そして鼻をつくのは、臭気だった。
獣臭といえばいいのか、纏わりつくような臭いが辺りに漂い始めた。
気付けば、大通りだというのに人の姿が消えている。
遥は、まるで別世界に迷い込んだかのような錯覚に陥った。
「なに……これ……?」
自転車から降りて、辺りを見回す。先ほどまで走っていた筈の車も、忽然と消えていた。
目に映る建物の中にも、人の気配が無い。
見渡す限り無人の街は、酷く不気味だった。
世界に自分一人だけになったような、言い様の無い不安感に襲われる。
とにかく、分かることは異常な事態であるということだけだった。
【桐八空手道場】
朱里手・泊手の流れを汲む古流空手……を教えながらも、いわゆる寸止め空手に区分される競技空手の指導も行っている。