1-1.
【アンティークショップ『岬亭』】
岬蓮治の経営するアンティークショップ。
基本的には胡散臭い美術品などが並び、とてもではないがこの店で生計を立てられているとは思えない(遥 談)。
窓から差し込む陽光が、朝の訪れを告げていた。真っ白い壁紙に、淡い緑のカーテン。
カーテンの隙間から零れる春めいた朝日が、揺らめきながら部屋を明るくしている。
一つの学習机に、一つのベッド。衣装タンスの上には写真立ての他、女子中高生の間で今流行りのキャラクターである“極道クマさん”のぬいぐるみなどが置かれている。
衣装掛けには、まだクリーニング袋の取り去られていない、真新しい制服が掛かっていた。
緑のラインが入った紺のブレザーに、赤いチェックのスカート。ハンガーの首には、青いリボンタイが巻き付けられている。
窓際に設置されたベッドの上、パステル調の青い布団には、まだ目覚めぬ部屋の主・圓堂遥が丸まり、春眠を貪っていた。
遥は頭まで布団を被らなければ眠れない。そのせいで目覚ましの音が聞こえにくいことは、彼女の尽きぬ小さな悩みの一つでもあった。
枕元では充電コードに繋がれた白い携帯端末が、スヌーズのアラーム音を虚しく鳴らしている。時刻は午前八時。もう何度目のスヌーズかも分からない。
遥はそんなアラームにも一向に動こうとせず、布団の中で寝息を立てていた。
昨晩は今日から始まる高校生活に胸を躍らせるあまり、深夜放送のアクション映画を最後まで見てしまったのだ。
そんな深い眠りの中、遥は夢を見ていた。それは、彼女がずっと繰り返し見ては、目覚める頃には忘れてしまう悪夢だった。
◆ ◆ ◆
セピア色の記憶は、想い出と呼ぶにはあまりに残酷で、悪い夢と呼ぶにはあまりに重すぎる。
だがそれは紛れもなく、圓堂遥の原点だった。
「遥ちゃんは、嘘がとっても上手なのね」
それは遥にとって、誰にも知られたくない部分だった。心の奥底の、最も柔らかい部分である。
叔母を名乗るその女は、そこに容赦もなく爪を突き立てた。
「だって、遥ちゃんは聞き分けの良い子だものね」
昔から、悲しいことを悲しいと言えなかった。
そうすることで、遥は自分自身に価値を見出そうとしたのかもしれない。
良い子だと褒められたかった。
嘘もつかない、正直で、素直な――聞き分けの良い子。
そうすることで、自分だけではなく母も褒められた。父も褒められた。
良い子でいれば、みんなが幸せになれる。
今にして思えば、物心ついたばかりのような幼い子供が、そんなところに己の価値を求めてはいけなかったのだ。
「だったら、たまにはワガママを言ってみたらどう?」
それは、悪魔の囁きだった。
「きっと姉さんも、分かってくれるわ」
それがどれだけ耳に心地よく、甘い響きであったとしても。
「だから私と、いきましょう?」
その手を取っては、いけなかったのだ。
遥の記憶は、この後の光景だけを鮮明に残している。
焦げた匂いが鼻をついていた。
降り出した雨の中でなお、残火の灯る丘の上。
泣き叫ぶ声が聞こえる中、見上げた先には母の笑みがあった。
「お母さん」
ほっとして、母を呼んだ。
だが、その胸にはぽっかりと、文字通りの穴が開いていて。
「遥ちゃんは、悪い子ね」
その穴から、裂けた笑みを見せるあの女が見えた。
「嘘だ……」
ぎゅっと、力強く抱きしめられていた腕から、ゆっくりと温もりが消えていく。
「違う、遥……よく聞いて?」
最後に母が、何を言いたかったのか。
「遥……あのね」
その言葉を聞く前に、遥は母を喪った。
◆ ◆ ◆
おぼろげに、遥は自分を呼ぶ声を聞いた気がした。
その声に引き上げられるように、意識が覚醒していく。
「遥!」
目覚めた時、遥の枕元には幼なじみである岬蓮治の姿があった。
蓮治は隣家でアンティークショップ『岬亭』を経営する、遥にとっては兄代わりともいえる存在だった。
昔から家族ぐるみの付き合いで、歳も離れていたことからよく遊びに連れて行って貰ったものだ。
その蓮治は、相変わらず白いドレスシャツをへその辺りまではだけさせるという、ともすれば露出狂とも取られかねない目に毒な恰好をしている。
「……蓮兄?」
寝ぼけ眼で、ぼんやりと蓮治の姿を眺める遥。蓮治はそのモデルじみた顔をしかめ、呆れ混じりに溜息をつくと、伸ばしたブロンドの髪をかき上げた。
「いつまで経っても起き出す様子が見えないから、起こしに来たんだ」
そういうと、蓮治は遥に携帯端末の画面を見せる。デジタル時計は、八時過ぎの時刻を示していた。
「え……八時……八時!?」
叩き起こされたように、遥は包まっていた布団から飛び出した。
「入学式! 八時半に集合なのに! 嘘!?」
言語能力を失ったかのように、途切れ途切れに喚きながら遥は準備を始める。
「まったく、親父さんがいないとこれか。前途多難だな」
蓮治はそんな遥の様子を眺めながら、厭味ったらしく両手を広げた。いちいち芝居がかった所作の男である。
遥の父親である圓堂正文は、二日前から海外出張に出て一か月ほど家を空ける予定になっている。
その間、一人暮らしになる遥の面倒を任された蓮治だったが、基本的には年頃の娘ということもあって、あれこれと世話を焼くつもりは無かった。
しかしながら、高校の入学式という門出の日に、遥を遅刻させるのも忍びなかった。
「ちょっと、蓮兄」
「なんだ? 急げばまだ間に合うだろう?」
蓮治の親心を知ってか知らずか、遥は不機嫌そうに蓮治を睨んでいる。
「着替えるんですけど」
「早く着替えないと遅刻するぞ?」
次の瞬間、遥は顔を真っ赤にして叫んだ。
「出てって!」
極道クマさんのぬいぐるみを投げつけられ、部屋を追い出される蓮治。
少しばかりデリカシーに欠けたかもしれない。蓮治はやれやれといった風に、頭を振った。
【極道クマさん】
女子中高生の間を中心に流行しているキャラクター。
厳つい表情に可愛らしいクマという対比が“コワかわいい”とされている。