その九 しかえし
ことの発端に何がおこったのか、と言えば、
「先生、トイレに行っていいですか」
角田留美子を始めとする、女子の一部が連鎖反応で、5時間目の道徳の時間に中座したという、ただそれだけの話だった。
せっぱつまっていたらしい。顔を赤らめてスカートを握り締め、ろう下を全速力で走っていった。
よくあることだった。多少、敏感になっていたきらいはあるにしても、美里もたいして気にはしなかった。
図工の時間以来、美里と留美子とは一切口を利いていなかった。結局、美里はその場でしてしまったけれども、先生には報告しなかったので、百パーセント勝負に勝ったとは言い切れなかった。かといって留美子も、スカート茶巾絞りして美里をリンチしようとしたことを知られたくはなかったらしい。
それゆえ、二人が取った方法は、かかわりあわないようにすることだった。
詩子も不思議そうに尋ねたものだった。
「美里、角田さんになにかしたの? あれ以来、ぜんぜんつっかかってこないね」
まさか、美里も本当のことを言えず、笑ってごまかすのみだった。
「わかんない、私もどうでもいいもん」
つっとんげんな態度で貴史に答えた日以来、そっけない態度を取りつづけている。隣の席にいるし、鉛筆とか消しゴムを忘れたりすることも多いので、しかたなく「貴史、消しゴムかして」程度の会話はする。でも、貴史は黙って差し出すだけだ。
「羽飛とも最近、冷たいみたいね」
「さあ、単なる隣同士だから」
複雑な思いで美里は答えた。
でも、貴史の態度にはどことなく、甘い隙間が見え隠れしていた。たぶん、一緒にいた時間が長いからわかることなのかもしれない。たまに美里の方を見つめ、ぽそっと
「馬鹿野郎だよな」
とつぶやくのを聞く。
「誰のことよ」
と言い返すと、
「関係ねえだろ」
とそっぽを向く。
その際に空く、一秒の間、貴史の表情が何かを言いたそうになる。思わず、首をかしげてしまう。
「でも、なんだか最近の羽飛、美里のことをじっと見ているね。まあ、美里が関心ないんだったらいいけどな。男子のことばっかり考えてる女子じゃないから。美里って」
詩子との会話はそれで終わった。たぶん貴史は自分のことを嫌っていないだろう、とは思うけれども、どことなく不気味に感じるのも確かだった。
「詩子ちゃんはあんまり男子のこと好きじゃないよね」
「面白くないものね。ぜんぜん、話していて、単純だから」
「誰とはいえないけど、詩子ちゃん、もててるんだよ。知らないかもしれないけど」
木村の想いがあまりにも詩子一筋なので、たまにこうやって探ってみたりもするけれど、
「いいの、私は美里がいればいいんだ」
詩子ちゃん、私のことをたぶん親友だと思ってるよね。
美里はそう考えるたび、つい首を傾げてしまった。
親友だったら、どうして私、角田さんにリンチされそうになったこと、言わなかったんだろう。
やっぱり、話したくなかったからだよね。
私の思う親友って、そういうことを平気で話せる人だよね。
誰なんだろう。
授業が終わり、しばらく間があった。先生が来るのが遅かったせいだった。帰りの会を日直が開こうとして、教壇の前に立ったとたん、沢口先生が険しい顔で押しとどめ、席に戻るよう促した。
「これから、四組の特別授業を行う。全員、残れ」
なんでだろう、やだなあ。早く終わればいいのに。美里も何がなんだかわからなかった。貴史も詩子も、めんどくさそうにランドセルを椅子に掛けなおしただけだった。
「まず、全員目をつぶれ。思い当たる節のある者は手を挙げなさい」
まぶたは閉じたが、美里は薄めを開いた。伏せ目にしておけばたぶん気付かれないだろう。国をかしげて貴史の様子をうかがおうとした。
奴は真っ正直に目を閉じている。
「第一の質問だ」
やましいことをしていない美里は心安らかに聞いていた。
「この組のある女子が、クラスメートの男子にいじめられていると、5時間目が終わった後、先生のところに報告があった。先生はそれが誰だか聞いている。だが、先生としてはそんなことをした人がいないと信じたい。もしいたとしてもすでに反省していると思いたい。思い当たる人は、怒らないから正直に手を挙げてほしい」
五秒数えた。身動きなし。空気の動きすらない。
「このまま言わないで入ると、こちらから言うことになるぞ」
沢口先生の声は険しい。誰一人、手を挙げる気配なし。
「本当に、いないのか」
他の組が解放され、はしゃいでいる声が響き始めた。しかし、四組の中は静かだった。さらに五秒数えた。
「この、大うそつきめ。羽飛、貴様だ!」
ぱっと目を開けた。胸倉をつかまれて貴史が拳固で殴り飛ばされていた。椅子にぶつかり、後ろの席にいた子の机がひっくり返った。息が止まりそうだった。美里の隣で貴史は左の頬を抑え、歯を食いしばり、寄りかかっている。
沢口先生の気迫に飲まれ、誰も声を立てない。
貴史の表情はこれまで一度も見たことのないくらいきつくするどかった。
「ここまでお前が根性まがりだとは、先生も思っていなかったぞ。羽飛、女子トイレの前に『清掃中』の札をかけてまわったのはお前だそうだな。それも学校中をおさえて、朝から今まで」
え?
そんなこと、してたっけ?
あいつすけべなこと考えていたんじゃないの?
美里の背中越しに、知らない連中の発する疑問が飛び交っていた。でも答えはどこにあるのか見えている。角田留美子、そして代山陽子たちのいる場所。さっきもじもじ手をさすりながら教室から走り出していった女子たちの顔を見たら、みなわかる。
沢口先生はさらに続けた。
「こんな陰険なことを考えている奴がいるとは思っても見なかった。先生は情けないぞ。ここにいるものの中で、今日一度もトイレに行かなかった奴はいるか? いないだろう? 中には身体の調子が悪い人もいただろう。そういう人が、必死の思いで行ったのに、うその立て札を出されていたら、どんなにつらい思いするか、想像つかないほど、羽飛、お前は馬鹿なのか」
「どうせ途中で行っただろ」
頬から手を離して、貴史はつぶやいた。美里ははれあがった頬の赤みをしっかと見つめた。
痛みをこらえるように、片側の頬を引きつらせた。
「黙れ! そこまで腐っているのか、お前は!」
貴史の頭を出席簿でしたたか殴りつけた。貴史は反論しなかった。されるままで先生の説教を聴いていた。
「冗談でしたことかもしれないが、女子にとってはどんなに残酷なことなのか、考えてみろ!」
「冗談でリンチしてるくせに」
美里ははっと息を飲み込んだ。
何をしようとしたのか、一発でわかった。
リンチと言ったら、そして留美子も絡んでいるとしたら。
一年生用のトイレでの茶巾絞り事件、あれしかない。
「何がリンチだ。お前がしていることだそれは」
「違う」
すっと貴史は倒した机を元に戻した。
美里の方を見もしなかった。沢口先生なんかも視界には入っていないにちがいない。
そばで美里はじっと見つめ続けた。何が起こるのかまったく見当もつかない。でも、自分のためにしてくれていることだけは感じ取れた。
怒りを押さえきれず握りこぶしを震わせている沢口先生。
貴史は片手を机に置いて、もたれながら言った。
「リンチがあったことを、聞こうともしないで、俺ばかり責めるのは違うんじゃないか」
「どうせろくでもないことだろう。このクラスに、お前以外で、誰がそんなことするっていうんだ」
「うちのクラスのある女子が、一年生の女子トイレでリンチされたってこと、知らないでよく言うもんだなあ」
「ある女子って誰だ……羽飛、清坂か」
沢口先生の唇にふふと、かすかな笑いが浮かんだ。美里は見逃さなかった。瞬間、飛びかかって手元にあるコンパスの先をぐりぐりと突き刺してやりたかった。
視線が集中している。美里に突き刺さっている。
嘘じゃない。嘘じゃないけどどうして私にすぐに結び付けてしまうの。
貴史が私のことをかばってくれている、今度は沢口先生、それで私をたたこうとしているわけ?
あいかわらず、貴史は美里の方を見なかった。
「今の話は本当か?清坂。立て。お前が、羽飛に女子トイレの立て看板をするように頼んだのか。その「リンチ」とやらで」
「誰もこいつのこととは言ってないだろ」
貴史が割り込むが、沢口先生は無視して美里を指差した。
「もちろん、羽飛が言うようなことが実際、あったとするならば、それは反省しなくてはならない。しかし、そうされるまでに、清坂、お前も自分に原因があると思ったりはしなかったのか」
「俺が言いたいのは、角田たちのことであって関係ねえよ」
「黙れ」
角田留美子の方にうなづいて、立つよう促した。留美子も立ち上がると両手の指先を机の上でつけたりはなしたりして、手あそびをしていた。答えは、どうみてもイエスとしか見えない。言い訳をしなかった。
「今のことが本当ならば、先生は悲しい。理由を言いなさい」
留美子は無言だった。
「清坂、お前はどうなんだ。そういうことが、あったのか」
美里も立ち上がった。貴史と並んだ。
どう答えればいいのか、わからなかった。ぎゅっと力いっぱい沢口先生の目をにらみつけ、その勢いが抜けたまなざしで貴史をおずおずと見つめた。
貴史も見返した。はっきり言ってしまえ、そう伝えようとしているのだろうか。でもそんなことをしたら、美里は誰にも気付かれずにすんだ、図工の時間の水たまりのことも話さなくてはならない。
いざ追い詰められてみると、口が動かない。
でも、貴史を裏切れない。
「なかったんだな、そういうことは」
角田の表情は立ち上がると見えなかった。覚悟はしているのだろうか。それとも言い訳を考えているのだろうか。貴史はどうしたらいいと思っているのだろうか。唇と喉が熱くなり、あの時のように首の周りに暖かい空気が流れた。わからなくなった。耳ががんがん鳴り、周りのささやき声が分厚く聞こえた。
「清坂さんと角田さんが……」
「リンチっていったい……」
「美里の方がやり返すよ,絶対」
美里は思わず手をまぶたにあてて冷やそうとした。とたん、指の冷たさで何かが溶けた。目の中の氷が何年分も溶けて涙の洪水になり流れていった。必死に顔を上げたまま、沢口先生の顔をにらみつづけるのがやっとだった。しゃくり声だけでも止めたかったのに、かえって大きくなる。必死に背を伸ばした。歯を食いしばったまま、流れる涙を拭かず、ただ凝視しつづけていた。
「もうよし、座れ」
沢口先生は賢明にも特別授業を切り上げてくれた。これ以上、何も問われず、何事もなく、貴史と並んで席についた。
「清坂さんが泣くなんてさ」
「ぜってえ泣かない女だと思っていたのにな」
帰りの掃除はしないことになったという。美里は座ったまま、机にうつぶしていた。どのくらいの時間がたったのか、みんなが帰ったのかもわからなかった。美里がその時考えていたのは、貴史がどうして自分を守ろうとしてくれているか、その理由だった。最後まで貴史は美里の名前を出さなかった。