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その八 いつかくるときがくる

「羽飛って、とんでもない奴ね。美里と仲いいのは知ってるけど、あれでも」

 詩子ちゃんと約束していた関係もあり、私は帰りの会が終わるやいなや、すぐ玄関に走った。着替える余裕もなかった。なんとなく臭うのが気になる。だいぶ乾いてきたのが救いだった。

 遠回りの道を通って帰りたがっている様子だったので、すなおに従った。

 本当はひとりで物思いにふけりたかったけれど、詩子ちゃんが切なげに私を見つめるので、しかたない。

「美里、前から思っていたんだけど、羽飛のこと好きなんじゃないの。ただの幼馴染にしては仲良すぎるもの。バケツで水かぶせられても平気でいるなんて、変よ」

「そんなんじゃないわよ。私、好きな奴なんていないわ」

 詩子ちゃんとは違った意味で、好きという言葉に抵抗があった。

 たとえば、代山さんをはじめとする女子の一部は、木村を好きで好きでならなくて追い掛け回している。

 好きでいるということが、そういうことだったら私には全く関係ないことだった。

 また木村の方は詩子ちゃんに思い焦がれているらしいが、向こうから直接声を掛けてきたり、つきあいをかけたりなどとはしていない。『好き』だったら、もっと自分と同じような感じで詩子ちゃんに話し掛ければいいのに。

 私にとっての貴史とは、もうひとりの私だった。

 好きとか嫌いとかを越えた、離れることが信じられない相手だった。ただそれだけだった。

「詩子ちゃんは誰か好きな人いるの」

「いるわけないじゃない。男子ってみんながきくさいもの」

 いつものように詩子ちゃんはとがった言い方で答えた。どうして男子をここまで嫌うのか、私にはわからない。

 詩子ちゃんは妙にそわそわしていた。長い髪の毛を両手で背中に払うと、人気のない児童公園のベンチまで歩いていった。コンクリートの、堅い灰色のベンチだった。

 詩子ちゃん、思いつめてるな。

 私の方がどきどきし始めた。詩子ちゃんは何かを言いたそうだった。

 もしかして詩子ちゃん、もしかして。

 詩子ちゃんは指でひし形をつくって見せた。

 女子の間では、『あれ』と呼ばれる暗号だった。

「もしかして、詩子ちゃん」

「あ、れ、が。はじまっちゃった。まだ美里にだけしか言ってないんだ」

 これだけ一息で言った。

 見かけの大人っぽさと口調の不安定な様子が、しっくりこない。頬を抑え、詩子ちゃんはうつむいた。

「いつ? 今日?」

「うん、昼休み、保健室に行って、初めてわかったの。五時間目、絵を描いているときもずっと変で」

「どんな感じだったの」

 その問いに詩子ちゃんは答えなかった。風と一緒にすり抜けてゆきそうな、とりとめのない言葉を口にした。

「……みんなああいう風になってるのかなあって、女子の顔ひとりひとり見ちゃった」

 くらくら、力なく詩子ちゃんはつぶやきつづけた。

 詩子ちゃんはきっといやなのだろう。自分の身体がある一線を越えて大人の世界に取り込まれたことが。私のように貴史を意識しないで、じゃれていられる、そんな時間が消えていくのが惜しいかもしれない。

 私はそっと詩子ちゃんの顔を覗き込んだ。髪が揺れていた。

「だれにも知られたくないよね」

「そう、なの?」

「言いたくないよ。あんな汚いこと、どうして言わなくちゃいけないの。親に報告しなさいって、保健の先生言うのよ。絶対嫌よ。わかるでしょ、美里」 

 わからなかった。うなづく代わりに目をそらした。

 詩子ちゃんからなまぐさい匂いはしなかった。

 けど、この間も詩子ちゃんは血を流している。

 手を切って傷から血が出たら、そのままほおっておかず、ばんそうこうを貼る。そのままにしておくことはまずない。詩子ちゃんはトイレに行けば、いつでも流れっぱなしの血を見ることになるのだろう。どんな感じなのかは想像つかなかったけれど、きっと気持悪いものにちがいないだろう。

 あんな汚いこと、と詩子ちゃんは言った。

 べっとりついた血を見なくてはならないのが大人だとしたら、私は大人になんてなりたくない。

 しばらく私は詩子に付き合った。スーパーにより、お菓子と一緒にナプキンを買った。レジのおばさんがそれだけを紙袋に包んでくれた。いかにもわかっているよといいたげな顔でにっこり笑った。詩子ちゃんは頬をあからめてかごの中のものにじっと視線を落とした。


 詩子ちゃんと別れ、やっと一人になれた。

 さっきから気になってしかたなかったスカートをはきかえたかった。大急ぎで公園に戻り、公衆便所に入り、濃紺のスカートから緑色のキュロットに着替えた。

 一応、着替えまで用意してきていた。

 もう二度とこのスカートを見たくなかった。

 どんなに洗濯しても、落ちない匂いが残っていそうだから。


 事情を知らない詩子ちゃんが憤るのもわからないわけではない。いきなり冷や水ぶっかけられた私が、口も聞けないほど驚いていたと詩子ちゃんは思っていたのだろう。

 だけど、私は貴史のしたことについて、一言も弁護することができなかった。貴史はいい奴だよ、と言い返すこともできなかった。何で、と問い返されたら、理由を言わなくてはならなくなるから。まだ口にはできないことだった。

 貴史が機転を利かせてくれたから、私は恥をかかないですんだ。貴史が水を浴びせてくれなかったら、水たまりの中で、離れ小島のように小さくなっていただろう。様子がおかしいと誰かが言い出す。床、椅子顔を順繰りに眺め、それでも表向きは『かわいそう』と言ってくれるだろう。

 角田さんたちは、

「口では大きいこと言ったくせに、やはり自分がやってしまうと、手も足もでないのね。赤ちゃんよね」

と指を差して笑ったことだろう。

 言い返せなくなってしまった。

 自分のことをずっと信じてきたのに、今あっさりとくつがえされてしまった。

 お片づけがちゃんとできる「清坂さん」ではなくなっていた。

 代山さんの立場が、なんとなくわかったような気がする。

 貴史がいきなり筆荒いの水をひざにこぼしてきた時、力が抜けて、はちきれてしまった時。

 あの時、ずっとがまんできると思っていたのに、できなかった。

 頭がわんわん言って、身体が熱くほてって、何もみえなくなっちゃった。

 ずっと、覚悟は決めていたのに。

 耳ですごい音が響いているのに、誰も気付いていなくて、それがもっと怖かった。

 自分が自分でなくなったみたいだった。

 あと、五秒、遅かったら。

 私、泣いていたかも知れない。


「美里、美里」

 タイミングが悪すぎた。すっかり着替えた後に貴史が来るなんて。

隠そうとしてまにあわなかった。

「なんだよ、その顔さ」

「いいじゃない、なんだって」

「そんなこと俺に言っていいのかよ」

 真正面に立ったまま、私の髪の毛をぐいと掴んだ。

「しょんべんたれたくせに」

「別にあんたに、かばってほしいって言ったわけじゃないもの」

 涙が出そうで出ず、中途半端な気持がじゃまして、きつい言葉しか出てこなかった。

「あれ、誰も気付いてないと思ってるんだろ」

「ああ水浸しになったんだから」

 冷たく言い返した。

「どうせ、わかることよ。におったでしょ」

「お前、角田たちになにかされたのか。しょんべん行くなって言われたのか」

「それなら、授業中に行ったもん、行きたくなかったから、行かなかったのよ」

「がまんくらべかよ、ばっかみてえ」

「それなら帰りまで絶対しなかったもん」

「美里、まじめに答えろよ」

 貴史は靴の先で穴を掘りながら尋ねてきた。

「お前、どうしてあんなこと、しなくちゃなんなかったんだ。ふだんの美里なら、平気で抜け出してたくせに」

「どうして角田さんたちが怪しいと思うの」

「お前が教室出た後で、俺に文句つけてきたからな。『あんた、清坂さんがおしっこもらしてたの知ってたでしょ』とかなんとか。俺はとぼけといたから安心しろ」

「私も……やるって、言ったから」

「何考えてるんだ、ばか」

 いつもらしくない貴史の口調が、ふと怖くなった。

 やさしすぎる響きだった。

「それでわざとちびらされたって、わけか。なら話は通じるぜ」

「もうわかってるんだったら、思い出させないでよ」


 本当は電話で、みんな話すつもりでいた。

 私の意地っ張りな性格が災いして、その場でやるしかなかったこと。

 自分で堂々と始末できると信じていたこと。

 でもうまくできなかったこと。

 そして、貴史にごめんと一言。

 反対のことしか言えなかった。


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