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7/12

その七 たしかにそうだけど

 次の日、昼休み、なんどかトイレに足を運ぼうとした。でも、角田さんたちの視線を感じるたび、つい反対側を向いてしまった。

 面白がるように角田さんのまなざしは自由自在にさまよい、私を追いかけていた。

「清坂さん、おトイレ?」

 いやみな女だ。

 つぶやきながらも私はわざとにっこりと答えた。

「ううん、他の組に行くのよ」

「ふうん、今日、清坂さん、一度もトイレ行ってないんじゃないの」

 男子のいる前でわざとらしく、声をかける角田さんがいた。

 朝からずっとだった。もっとも誰も、私と角田さんとの間に流れている不穏な空気に、気付いていないようす。それが救いだった。前の日、スカートめくりの茶巾絞りをした女子五人は、何も言わずにただ、じとっとした表情で私を監視しているようだった。代山さんがどういう顔をして見ていたのか、そこまではわからない。

 私は自分のことだけで精一杯だった。

 

 四時間目までは先生の声も聞いていられた。

 だが、給食開始五分前あたりから、ぽわぽわ頭の中が騒ぎ出し、足の指先がじんと痺れ始めた。学校に来てから一度もトイレに立てなかった。手を挙げて行かせてもらおうかと、迷うたび、昨日交わした角田さんとの会話を思い出し、ぐっとがまんする。それの繰り返しだった。

 こんなに苦しいのは初めてだった。

 給食の時も、ぐっと足を締め付け、何も考えないようひたすら食べることに専念しようとした。でも、口に入れられなかった。おなかがすいているのに、スプーンですくう手が震えてしまう。

 背中から詩子ちゃんがいぶかしげに尋ねてきた。

「美里、顔色悪いよ、どうしたの。保健室に行く?」

 答えるのも少しずつ。二言三言。

「平気、なんでもないってば」

 ちらりと代山さんと角田さんたちの方を見た。給食時間が終わりになると、みな仲のいい女子同士固まって、いろいろとおしゃべりしたり、小物の交換会を開いたりするのがいつものことだった。この日は、私の方をじろじろ見つめて、こそこそ話をしている様子。でも、似たような状況は続いていたから、詩子ちゃんもさほど気にしなかったのだろう。

「また何か言われたのね。角田さんたちに。無視しちゃいなよ」

「わかってる」

 詩子ちゃんはにらみ返した後、髪の毛をまとめながらつぶやいた。

「今日の帰り、公園に寄ってっていい?」

「どうしたの、いきなり」

「秘密、あるんだ」

 もしかして、木村に告白されたんだろうか。 

 聞いてみたかった。でもまだ男子がうろうろしている教室で、話してくれるわけないだろう。

「うん、あとで教えて」

 結局、パンは全部持ち帰り、おかずはほとんど食べず、牛乳だけやけ気味に飲み干し、私は給食ナフキンをたたんだ。

 唇をかみ締め、もう一度角田さんたちのいる方を向いた。

 わざと笑って見せた。

 あっちだって笑っているだもの。負けるもんか。


 勢いで、『ちょっとした失敗』をしてやろうと言い返してしまった自分、帰り道、学校に来る間、そして授業中、何度も悔やんだ。

 だって、私は代山さんと違って、自分のことは自分で始末できるもの。

 代山さんはただ、がまんできなくて、自分で何もできなくて、しちゃっただけだもの。私は違う。きちんと取り替えるものだって用意してきた。スカートだってあるもの。ぞうきんと新聞紙がどこにあるかもちゃんと知っている。 

 してしまったら、確かめた後でゆっくり立ち上がるんだ。先生にちゃんと言うんだ。『失禁』してしまいました。自分で片付けます」って。あとは一人で片付ける。トイレで着替えて、もういちど戻ってきて、ちゃんと帰りの会に出て、帰る。

 私だったら、かばってもらえないってわかっている。角田さんたちのような友達、私はいるようでいないもの。

 私は自分でしたことを責任取ること、こわいと思わない。

 絶対に、代山さんみたいに、泣いたりなんてしない。


 休み時間は、意味もなく廊下をうろうろしているうちに過ぎた。五時間目は図工だった。先週行われた写生遠足の下書きに、色を塗る作業だった。筆洗いに瑞をたっぷり組み、足を何度か組みなおしながら絵の具を溶いた。

 限界はちくちくと迫っている。

 今ならまだ、間に合うな。

 ひざとひざをぴっちり付け、身体ごと堅くした。足、太ももがじいんと熱くなった。足首が気持悪いくらいくりくりと回った。

 隣で貴史が、山の連なりをべとべとに緑色に塗りたくっていた。画用紙の上なのに、どこか油絵っぽいタッチだった。以前、図工の授業で美術館に油絵を見に行った時、貴史は猛烈に油絵を書きたがっていた。私から見たらそれは手抜きとしか思えない描き方だった。直接筆に絵の具をこんもり盛って、画用紙にたたきつけている。 

 水性絵の具の量はもともと少ないもの。とっくに切れていた。気付くやいなや、私の絵の具箱に手を伸ばし、緑と黄緑を大量に搾り出した。

「あとで、金銀の絵の具やるから、気にするなよ」

 私は答えられなかった。

「なにむくれてるんだよ」

 茶色の瑞が筆箱の中にたまっていた。貴史は自分の筆をその中にじゃぼんと入れた。ほとんど黒に近い焦げ茶に染まった。細かな水はねが私の画用紙にばらばら落ちた。青空の部分だから目立ちそうだ。

「わりいわりい」

 両手を合わせて拝み倒そうとする貴史。

 私は何も言うことができなかった。

 お化けがかごめかごめをして自分を囲んでいるようだった。

 おなかの力を抜いて、温かいものが流れたとたん、私は何を失うのか。

 いくら後片付けをきちんと済ませたとしても、みなあきれるだろう。

 詩子ちゃんも、そして貴史も。

 とんでもない条件を飲んだ私を馬鹿にするだろう。

 これから私を「五年生なのにトイレに行きたいと言えなかった」ばかな女子だというだろう。 

 ちゃんと準備していると言っても誰も聞いてくれないだろう。

 私は、代山さんとは違うもの。自分のことは自分でできる。

 聞こえないように唱え、美里は目をつぶった。息を止め、少しずつ吐き出していった。うっかり大きく息を吸うと、おなかがゆるんで、止めようがなくなる。絵の具を持ったまま、手をひざにおき、ぎゅっと握り締めた。

 

 私は貴史のささいな言葉で、何を考えているか読み取ることができた。

 互いのちょっとした態度の変化で、すぐにわかってしまう。なぜかはわからない。他の女子とはそういうことがないのに、どうしてか貴史だけにはそれが通じる。

 誰が嫌いで誰が好きかも、口に出さなくてもすぐにわかる。詩子ちゃんには隠し通せたことも、貴史にはあっさり見抜かれた。

 その証拠に、私の耳に聞こえてきたのは、直球そのものの声だった。

「さっさとトイレ行ってこいよ」

 そうできたらとっくの昔に駆け込んでいる。そう答えたかった。言えるわけがなかった。

 相手は貴史なのに、口が利けないよ。

 私はか細い声で、強い口調で答えた。

「あんたの知ったことじゃないでしょ」

「ここでちびられたら、始末するの俺だぞ」

「あんたには世話かけないわよ」

「なわけないだろ。全く、早く行って来いって」

「大丈夫、あんたには迷惑かけないから。向こうに行っててよ」

 あごのあたりがふるふるしてきた。

 貴史に気付かれたのが、なぜ今、こんなに恥ずかしいのかわからなかった。

 今までならば平気で、「トイレに行きたい」といえたのに、今はその素直な言葉すら発せられない。どうすればいいのかわからなくなっていた。

 

 貴史に、おもらししたところ見られたくないよ。

 代山さんは自分のおしっこを貴史に拭いてもらったけれど、私、そんなの絶対嫌だ。

 貴史の前で、ちびってしまうなんて。

 身体がばらばらになってしまいそうだ。いや。そんなの絶対嫌だ。

 代山さんもあの時こんな風に考えなかったのだろうか。私は横目でかすかに首を動かし、代山さんを見た。何も考えずに色を塗っているように見えた。

 がまんできなくなったとき、こんな姿を見られたくないと思わなかったんだろうか。

 木村のことが好きなのに、近くの席にいるのに、好きな人の前でしてしまうくらいだったら、死んでしまったほうがましだとか思わなかったんだろうか。

 私なんて、貴史ですら、絶対いやだと思ってるんだから。好きな相手だったらなおさら、そうじゃない。

 私は貴史が好きなわけじゃない。でも仲良しだとは思ってる。

 本当の仲良しにはまじりっけのない気持で付き合ってほしいし、軽蔑なんてされたくないよ。

 角田さんたちのようなかばい方もされたくない。

 けど、きっとみんなそうなんだろうな。

 

 いきなりおなかからうねりがきた。

 私は両膝を押さえ、椅子に座ったまま前かがみになった。

 急に波のようなものが押し寄せてきたからだった。自分の力では押さえられなさそうだった。息のかすれる音が口から漏れた。

「もうだめ」

 知らず知らずのうちにつぶやいていた言葉。誰にも聞こえていない、そう信じたかった。

 もう立てない。もう動けない。もうがまんできない。どうしよう。これ以上動いたら、本当にその場で破裂してしまいそう。

 絶対、そんなことしたくないのに。今から行っても、もう間に合わない。どうしよう。

 角田さんと賭けた土下座のことなんて、どうでもよかった。

 ただ、貴史に始末されるのだけは絶対に、嫌だった。

「美里、動くなよ」

 貴史の声が耳元でした。え、なに?と尋ね返そうとしたとたん、ひざにひんやりした感触が残った。と同時にこげ茶色が広げてあった画用紙一杯に広がり、ぽたぽたと机の上をぬらしていた。べとんとした画用紙。広がる黒い水。そして、スカートの前いっぱいに、しみが広がった。黄色いスカートだったので、絵の具の色はさらに目立っていた。

「貴史、あんた」

 私はひざに置いていた手を離した。瞬間、暖かい波がくるくる私のそばでうねり、そして流れていった。

 

 何秒くらいたっていたのかわからない。私は座ったまま凍りついていた。机の下を見ることができなかった。どれだけ水たまりがひろがっているのかわからなかった。立ったら、びしょぬれのスカートが目立ちそうで動けない。

 貴史がひざにかけた水入れの絵の具水が広がっているので、自分がしたおしっこの色は見えなかった。

 まだ、誰も気付いていないようだった。

 スカートがすうっと冷えていった。波が来た最初はあたたかくて、夢の中にいるようだった。でもじゅくじゅく足に伝わっていく感触に気付いたとたん、身体が硬直した。頭の中の電球がぷつんと切れた。

 ひとりで、後始末なんて、できない。

 腰があがらない。こんなはずじゃなかった。顔をすっくと挙げて立ち上がり、水溜りを拭いてしまうはずなのに。

 代山さんと同じになっちゃう。

 さんざん馬鹿にしていた代山さんみたいになるなんて、いや。でも顔があがらないんだもの。立てないんだもの。早く、先生に言いにいかなくちゃいけないのに。早く着替えてこなくちゃ。みんなまだ気付いてないんだから。角田さんたちに気付かれて、「清坂さんがおしっこたれてまーす」と大声立てられないうちに。

 

 冷たい水が降った。

 水滴が目の前をぽつんぽつんと落ちてくる。息が止まった。

 その音で、ざわめきがようやくなり響いた。

「貴史、あんた、美里に何したのよ!」

 詩子が食ってかかっていた。髪の毛、机、椅子、描き掛けの絵、ブラウス、そしてスカートがみなずぶぬれだった。

「だってさあ、美里俺の水入れをこぼしやがってさ、自分の絵だけならともかく、俺の芸術作品まで全部台無しにしちまうんだぜ。さっきだって、俺がもしバケツの水ぶっかける根性あったら、俺の絵をもっと『格調』高く仕上げてやるとかぬかすんだもの。だったら、やるしかないよな。まあ、俺の油絵チックな芸術にはかなわないかもしらねえけど」

「何馬鹿なこと言ってるのよ。美里、風邪ひいちゃうよ」

 沢口先生も事態にようやく気付いたのか、怒鳴り声で貴史を呼びつけた。

「羽飛、ちょっとこい、馬鹿やろう!」

 貴史はちらっと私と目を合わせた。何も言わなかった。ただ何かを確認した後、しおしおとおとなしく、往復びんたを受けに行った。沢口先生は、気に入らない男子については体罰を平気でする教師だった。

 ばしりと、二回聞こえた。

 私はそれを見て聞いた。とたん、身体の芯がしゃきっと通った。

 

 目が醒めた。夢から覚めた。片付けられる。

 雑巾を持ってきてくれた詩子に「ありがとうね」とお礼を言い、私は立ち上がった。代山さん、そして角田さんの方をじっと見つめ、わざとスカートの後ろが見えるように背を向けた。

 見る人が見れば、上からかぶせられた水だけで、スカートの後ろがびしょぬれになるなんてことはないとわかるはずだった。

 角田さんには通じたらしい。一声飛んだ。

「あれ、清坂さん、なんでスカートの後ろ濡れてるの。へんなの、おもらししたみたい」

 詩子ちゃんが何か言い返そうとするのを、片手で制し、私は無理やりにっこりして言い返した。

「そうよ、私、おもらししちゃったの」

 詩子ちゃんが手伝おうとするのを断固として拒否し、私は床、机の上、椅子の上、ついでに貴史の椅子まで全部雑巾で拭いた。

 絞りにいくため廊下に出た際、こっそりその雑巾を外に捨てた。

 

 貴史と私の、相変わらずの悪ふざけで、私がとばっちりを受けた、ただそれだけのこととして処理された。

 私は角田さんとの賭けに、勝ったはずだった。

 自分で片付けたし、涙ひとつ、こぼさなかったから。

 ただ、ひとつだけ変わったことといえば、

 もう代山さんを、「五年生の癖に」といえなくなった、ただそれだけだった。

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