その五 男子だから、いいのよね
私の周りでは三年生くらいまで、同じようなことが起こった。
教室の中で、がほとんどだった。五人くらいいただろうか。
当時の記憶は鮮やかに残っていて、今でもたまに、仲間うちでささやかれるものだった。
「あの子、音楽の時間におしっこたれたんだよ。みんなで合唱している時に、ビニール袋を足の間に入れて、その中にしようとしたんだよ」
表だっては言わなかったけど、泣かせる話だと思う。
貴史に話したら、
「悪あがきだってわかってるけど、その気持ち、すげえわかるな」
しみじみ、実感を込めてつぶやいていた。
もらすところまではいかなくとも、もうだめっと言いたくなる時はある。そうしちゃおうかと血迷ってしまいそうになる。でも、どんなに言い出しにくくても、手を挙げてトイレに駆け込むのは、しちゃったら最後、決して時効にならないことだとわかっていたからだ。
「美里、まだめげてるのかよ」
月曜日、朝の会最中、隣の席の貴史に話し掛けられた。
「ただ、めげてるんじゃないってば」
一時間目は国語だった。薄い教科書を口元に当てた。日直が『今日の目標・ろう下を走らない』を黒板に書いているところだった。貴史にしか聞こえないよう、小さな声でこっそり聞いた。
「ねえ貴史、あんたおもらししたことあったっけ」
「まさか、ねしょんべんならあるけど」
それは小さい頃から知っている。
「いつまで続いた? あんたのおねしょ」
「お前、俺にそんなこと言わせたいのかよ」
貴史は指で数字の四を書いて見せた。
「四歳?」
「去年まで」
四年生までひきずってたの?
もっと声を小さくして聞けばよかった。
さすがに貴史も目をそらしてきまり悪そうに私の教科書をつついた。私も口をとがらせて黙った。
しまいに貴史はふくれっつらで答えた。
「……美里、ばかにしてるだろ」
「そんなんじゃないけど。でさ、自分でおふとんとか、片付けるの?」
「あたりまえだろ。親にみつかったらどつかれる。姉ちゃんのドライヤーくすねて乾かしたり、やった」
「そうよね。それが普通よね」
私はため息をついた。
「自分でしでかしたことは、自分で始末しなくちゃね」
「でも、家ならそれでもいいけどな。親戚の家とかでやっちまったら、どうしようもないだろ。夜中に気付いたときも、冷たいのをがまんして寝て、朝にごめんなさいってあやまりに行き」
「へたに小細工するとまずいのね」
「まあ、黙ってみつけてくれるのを待つほうがいいってこと」
「なんでなんで?」
ぐんぐん引き込まれていった。私の相槌につられ、貴史は熱を入れてしゃべりつづける。
少々、他人の目を忘れていたかもしれない。
もちろん低い声で話しているつもりでいた。でも日直二人の顔が怖かった。たぶん、学級日誌の『うるさい人』記入欄に書かれているだろう。
「慣れているって顔すると、へたしたらそこの家では泊めてくれなくなるんだ。それよりも、初めて来たので緊張しました。ついふとんに地図を書いてしまいました、ってしおらしくしていると、おばさんたちも笑顔のまま、片付けてくれるんだ。あまり作った態度をするのは好きじゃない。でも、まあ、しょうがないって」
そういうものなんだろうか。きっと、そうなんだろう。
急に貴史は話の矛先を私に向けた。
「けどな、ちびった場合も同じだぜ」
「なにが同じなのよ」
自分への風向きに私はどきまきした。
「自分じゃあ、片付けられねえよ。じゃあ、美里。もしこの場所でお前がジャージャーたれたとするぜ。たぶん、一番最初に気付くのは、俺だよな。ここの席は教壇からも良く見えるから、先生もこっちをみる。さてと、お前は言いにいけるか?ちびりました。どうすればいいでしょうかって」
「覚悟があれば、別じゃないの? がまんできなくなったら、トイレに行きますって言いにいけばいいんだから。それしないで最悪の場合も考えないで、おろおろするなんて、馬鹿みたいじゃない。最悪の場合どうするかも考えておかなくちゃ」
「できるわけねえだろ。それよか、さっきの話に戻るけど、一番まともな方法はな、俺が先生の所に行って、紙かなんかで渡す。清坂さんがしょんべんたれてますとかなんとか書いて。その間美里は黙って座っている。動くなよ。そしたら先生は俺たちを理由つけて教室から出すか、なんかすると思うんだ。お前は一人のこって、言われる通りにしてたらいい。それで終わり。唯一の目撃者である俺が何も言わなければ、卒業までばれないだろ」
「貴史、あんたが黙っているかどうかが、鍵になるわけね」
少しとげのある言い方を、私はした。
「清坂さん、静かにしてください」
とうとう黒板内の『うるさい人』欄に書かれてしまった。
沢口先生もじろりとにらんでいた。
勝手にすればいいわ。
私は貴史のノートの空いているところに、
『修学旅行前に直ってよかったね』
と書いてやった。
案の定、貴史の返事は。
『修学旅行であれがこなければいいねえ』
ふふんと鼻で笑って、とぼけてやった。
『あれって何、正式名称で言ってみな』
『お前ほんとに女かよ』
本当に相談しなくてはならないことが、もうひとつあった。貴史をもういちどつついた。
「なんだよ、今度は俺が『うるさい人』になっちまうだろ」
「あのさ、昨日、木村から電話が来たんだけど。志村の転校が決まったからお別れ会しようって」
「なんで俺に連絡よこさねえんだよ。あいつ、美里に気があるのかよ」
「まさかまさか、木村の好きな子は、あんたもよおく、ご存知でしょうが」
あれだけ派手にけんかしておいて、二日たったらけろっとして電話を掛けてくる木村。もっとも私としゃべることの多い男子は、けんかしてもさらっと水に流せるタイプの奴がほとんどだった。だから男子との付き合いは面白い。
少なくとも三日続けて、無視なんてしないのだから。
「で、美里はなんて答えたんだ?」
「もちろん賛成に決まってるでしょうが。まあ、できれば一部の女子を抜いてほしいな、と願望は伝えておいたよ」
「すげえわがままな女」
四年の時に同じクラスだった男子が転校するので、お別れ会をしようというお知らせだった。三組の面子でいろいろまとめるだろうから、日にちが決まったら絶対に誘うように、と念を押しておいた。
「でね、それだけで終わると思ったんだけどさ。木村、やっぱり気になるのかな。すごく言いずらそうでさ」
「代山をからかった件か」
「ううん、代山さんが、木村のことを嫌いになったかどうか、聞いてきたよ。なんでだろ。びっくり」
そのことか、と貴史はつぶやいた。
「あいつは藤野にお熱だもんな」
「貴史はめったにからかわないねえ。木村に対してはさ」
「俺、ついていけねえもん。何が楽しいって。で、お前はなんて答えたんだ」
「そりゃあ、『なんでさ、あれだけ言葉の暴力ふるっておいて、いまさら好きになってくれって言いたいの』って」
「言うわけねえな」
「まさか、詩子ちゃんをあきらめてるわけないもんね、うそっぽいなあって思いながら言ったら、あいつ慌てて否定してるの。『違うんだよ、いいか清坂、言葉の暴力ふるわれてるのは俺の方なんだぞ。あの女、っていうか、あの女の周りにいる連中、しつけえしつけえ。試合にまでついてくるだぜ』って。もててることをのろけてるのか、って思ったけど、違ったみたいね」
「だいたい、想像はつく、かわいそうな奴」
一週間前の日曜日、他校とのサッカー親善試合が行われ、四対三で負けた。私も観に行った。けど、一部の女子達が盛り上がっているのにはついていけなかった。
サッカー部のミッドフィルダーである木村は結構目立っている。女子の間では人気も高かった。ファンの中に、どうやら代山さんも入っていて、きゃあきゃあはしゃぎながら取り巻き、追いかけまわしているらしい。また、代山さんの取り巻きは、ことあることに木村を捕まえては
「あんた、陽子のことどう思ってるの」
となじるのだそうだ。
そりゃあ、好きになられるのは勝手だが、頼むから「きむらくーん!」と絶叫するのは止めて欲しい。
さんざん冷やかされる。
もっというなら、一部では両思いだと勘違いされてしまう。
六年の先輩にはさんざんいびりの材料にされている。
木村のいうこともごもっともである。
「確かに、この前の試合での盛り上がり、あれは異様だったよ。木村が嫌がる気持ちもわかるよね。嫌われたいの?って聞いたらさ、『わかってくれるか、清坂よ』だって」
「なんて答えた」
「それなら無理なんじゃないの。って。ついでに一言、『詩子ちゃんには黙っておいてあげる』と付け加えておいたんだ」
貴史は笑いをこらえながら、指を二本立てた。
「ナイス、美里、よくやった」
ちなみに、試合の日、詩子ちゃんは用事があってこなかった。木村にはそのこともちゃんと伝えておいた。
好きな男子がいる、それはわかる。
私もかつて何人か、好きになった男子がいたから。決して貴史ではなく、ある時は他組の転校生だったり、またある時はクラスの学級委員だったり。いろいろだった。
でも、追いかけたりはしたことがなかった。私らしくない、と言われながらも口には出さず、こっそり眺めているか、もしくは偶然をよそおってすれ違ったりする程度だった。
よくもまあ、『だれだれが好き』と口に出来るもの。
私はつくづく女子たちのことをすごいと思った。
四年生の頃だったろうか。私と貴史がさんざん『好き合ってるよね』とかさんざんからかわれ、仲良し同士の会話すらできなくなった時期があった。顔を合わせるのもいやになり、貴史と違う組になりたいと真剣に悩んだものだった。
でも、いろいろな出来事もからんで結局、
「言いたい奴には言わせておけ。話が合うのは貴史だけなんだから」
と自分の中で割り切った。
貴史とばか言い合ったりするだけの私は、代山さんたちからしたら子供じみて見えるのかもしれない。
同じように、木村に焦がれる代山さんの姿も気持悪い。
野生、そのものといった意地。
ああ、やだろうなあ。
私は木村に同情した。