その二 なるほど こういうわけだったのね
あやまるにはあやまった。でも代山さんは泣きふすばかり。取り巻きの子には、
「今ごろ清坂さんがあやまったって、陽子の心の傷はいえないんだからね」
と、追っ払われた。
私の仲良したちも、気を遣ってか当り障りのない話しかしてくれなかった。知りたいのはやまやま。でも私も深く聞き込めるほど神経はずぶとくないつもりだった。
なぜ、誰も話してくれなかったのだろう?
そりゃ、みんなに言いふらす必要はないけど。
でも、同級生の大失敗を知らずにいたなんて。今まで一度もなかった。
他の組で起こったことだったらとにかく自分の組ならば、五分もしないうちに噂のウイルスが伝染するはずだ。
四組の男子達も、代山さんのこしらえた水たまりを見ているはずだ。
なのに、誰も、一言も口にしていなかった。
それが私には信じられなかった。
いろいろ考えていくと、自分でもわけがわからなくなってきた。
家に帰ってランドセルを背負ったまま玄関に座り込んでいた。
電話が鳴った。母が出て、
「美里、たあちゃんから電話よ」
と、声をかけた。貴史からだった。
「美里、おめえ知らなかったんだろ。知るわけねえよな」
「知らないって、何」
「あん時、美里は選挙委員でどっか行ってたっけさ」
はっと思い出した。
「あの、立会演説会の時、うん。私、いなかったよ。あの時に、起こったの?」
児童会役員選挙の際、投票の前に立会演説会と呼ばれる、立候補者の抱負売り込みタイムが用意されていた。私は選挙のはじまる二週間前からポスター作り、ビラ作り、投票用紙作りに駆り出されて大わらわだった。
昨日も木曜五時間目に行われる立会演説会のため、給食を食べてすぐ、会場の体育館に駆けつけた。
ろくすっぽ演説なんて聞いていなかった。別の教室で投票場所の準備をしていた。箱を用意したり、投票監視員用のいすを用意したり、こまごました仕事はたくさんあった。終わるとすぐに開票作業が行われた。結局学校を出たのは五時過ぎだった。
貴史がいうには、
「その間に、事件が起こったってこと」
会計、書記、副会長、最後に会長のそれぞれ候補者が演説してゆく。さて次は副会長の番、と回ってきた時だった。
貴史の説明をおおざっぱにまとめるとこういうことだった。
貴史の斜め前に代山さんは座っていた。その日の代山さんは真っ赤なジャージ上下姿で、教室から運んできた椅子に腰を下ろしていた。
児童会の選挙権は三年から。被選挙権は四年から。立会演説会の際、三年から六年までの児童は全員体育館に集まり、椅子をすきまなく並べて演説を聞くのがいつものパターンだった。ぎゅうぎゅうづめ。空気もにごる。椅子がなかったら貧血起こして倒れるかもしれない。
「でも俺にとっては椅子があったって関係ねえよ。眠いしつまんねえし、むしゃくしゃしてたなあ」
「あんたのことだから、居眠りしてたんでしょ」
「当たり。そうしたら、なんか雰囲気が、暑苦しい感じになってきてて、いやおうなしに目がさめた、鼻が変、っていえばいいんだろかさ、とにかく変だった。とりあえず会長の演説だけは聞きたかったから、どこまで進んだか聞いて、また寝ようとしたんだ。したら、その時」
、代山の椅子から音がしたんだ」
「音?」
よくわからず私は聞き返した。
「わかるだろ。初めて聞くもんでもないし。しゃあしゃあしゃあって」
自分にも毎日響いている覚えのある音。気付いて頬がほてった。
「俺も何がおこったかよくわからなかったから、椅子の下をとにかく見てた。したら、やっぱり色が変わってるんだよ。代山のジャージが。色が濃くなっている部分から、床の水たまりへとすんなりつながっているっていうか」
「だいたいわかった」
「こいつ、ちびってるって、そりゃここまできたらわかるぜ。でも、どうすればいいと思う? 代山はうつむいてぶるぶる震えているし、俺とかが『早くしょんべんに行ってこいよ』なんて言ったら泣かれるのが落ちだろ」
「さすが、貴史は自分の立場をよくわかってる」
「ばあか、だから、俺の前にいた女子をつついてさ、あいつも気付いていたらしいけど、俺と同じでどうしていいかわからなかったんだろな。すぐに代山を連れて出て行った」
だいたい想像がついた。きっと代山さん、周りの視線に、ジャージ上のすそを深く下げたに違いない。
「気付いてたのは、どのくらい?」
「三組の木村たちとか、五組の女子ぐらいだろ」
貴史はそこまで話した後、
「でもさあ、やっぱり、まずいだろ。そのままにしとくと。で、榊原が俺の方を見てさ、『なんかこのままにしとくとまずくない?』って声かけてきたんだ」
「あんたはどう答えたのよ」
「まあな。って。そしたら榊原が、『俺、新聞紙借りてくる!』とか言い出して、一気に走り出したんだ。俺もひまだったし、そんな匂うところで寝ていたくなかったから、榊原と一緒に用務員室に走ったというわけ」
貴史の気持は良くわかる。となりにおしっこの池という状況は、あまり気持いいもんではないだろう。見ているだけで匂いも鼻をつくだろう。私もきっと同じことしただろう。言い訳作って外に出たいに決まってる。
「用務員室で何もらってきたの」
「一日分の朝刊をもらって、ついでにぞうきんもらって、遠回りして戻ってきた。誰も注意する奴のいない廊下を駆け抜けるって、気持いいよな。榊原と思いっきり走ったぜ」
その後投票も終わり、四組では帰りの会が始まった。
ざわざわと、代山さんのおもらしが知れ渡っていったという。詳しいことを知っているのは、代山さんの周辺にいた者だけだったはず。でも,退場の時に椅子がひとつ残っていたこと。濡れた新聞紙が投げてあったこと。代山さんが早引したことなどから考えてあっさりばれた。
「そりゃ、信じられないよね。あの代山さんが、さあ」
私は受話器を握り締めたまま何度もうなづいた。
「でも、沢口が、いきなり『黙れ!』って怒鳴ったんだ。怒鳴ることはないよな」
「相変わらずお説教でしょう。何言ったのよ」
「『みんなも知っていると思うが、代山がトイレに行きそびれて、ちょっとした失敗をした。でもそれは誰にでもあることだ。今日はたまたま演説会だった。他の人がおもしろはんぶんにからかうことがあるかもしれない。だけど、四組のみんなはそんなことをしないでほしい。一番、傷ついているのは代山なんだからな。明日、代山が来た時は、何もおこらなかった顔で迎えてやってくれ』ってさ。最後に」
「最後に?」
「『このことで代山に何か言う奴は、人間としては認めないぞ。人間失格だ』だと。確かに人間失格にはなりたくないもんな」
私はその場にいなかった。秘密を知る権利はなかった。だから今まで何も聞かなかった。
人間失格になりたくない貴史も、教えてくれなかった。
給食時間まで守られた約束だったのだろう。木村たちの一声がなければ。
でも、私にはするりと入ってこなかった。
確かに代山さんは学校に来づらくなっただろう。低学年の頃だったらはやしたてられただろうし、五年生ともなったら陰で物笑いの種になるだろう。
実際、木村たちはいい標的ができたとばかりに、陽子をせせらわらったもの。
沢口先生に言わせれば、木村たちは人間失格の最たるものだろう。
私も奴らの、悪口を言う態度についてはそう思った。
ただ、ひっかかるのは、沢口先生の言った
「なかったことにしろ」
というせりふだった。
そんなことできるのだろうか。
代山さんが昨日、体育館でおもらししてしまったのは正真正銘の事実だ。
知らないふりだなんて、嘘をつけってことと一緒だ。
もちろん、代山さんに「あんたおもらししたんだって?」と非常識なことを聞く気はない。触れるべきではないだろう。忘れちゃえばいいだけのことだ。
でも、木村たちのようにつっかかって来た場合、知っている友達連中はどういう風に立ち向かったのだろうか。
私は木村の言い分を頭から嘘っぱちと決めてかかった。だからああいう言葉しか出せなかった。
でも他の子は?
代山さんの友だちは、私がしたようにかばおうとしなかったじゃないか。
美里がひとり立ち回っているのを、黙ってあきれて見ていただけだ。
終わったら、
「清坂さんって、よくあんなこと言えるわね」
とくる。
ああいう代わりにどういえばよかったんだろう。
貴史の声は受話器から響いてきた。慰めらしくなかった。ちょっと突き放したような言葉だった。
「あのさ、美里。沢口は確かに代山をかばえって言った。けどな、なかったことにしてくれっていうのは無理なような気がする。今日のことっていったって、もう起こってしまったことを消すことなんてできねえもの」
「私、代山さんがちびったってこと知ってたら、あんなこと、絶対言わなかった」
私は、うん、うん、とうなづいた。
「ああ、でもなあ、私、明日学校に行きたくないなあ」
「来たくないならくるなよ。でもな、明日になれば、みんな忘れてると思う。美里にかまってる暇なんてねえよ」
胸につかえた氷がひとしずく溶けて流れた。
私は、そう期待することにした。
貴史はわかってくれているのかもしれない。
幼稚園の頃からずっと一緒だった。幼馴染というにはまだ私も貴史も、まだ子どもすぎた。同性の友達には太刀打ちできないようなやさしさが、互いの中にあった。
人間失格になること覚悟で、貴史は教えてくれた。
私は貴史の言葉を細切れに、身体の中へ行き渡らせた。
何度も何度も、かみ締め、飲み干した。