その十一 いえないこと、わすれられないこと
詩子ちゃんが帰った後、貴史は自分の席脇に立ち、机の中を探った。忘れ物をしたらしい。私も教科書とリコーダーをランドセルと手提げに分けてしまい、しょった。
「ぎゃんぎゃん泣いてよく恥ずかしくねえなあ」
貴史は目を合わせずにつぶやいた。
探し物は見つからなかったらしい。から手のまま、さっき投げ捨てたランドセルを拾いにもどった。その場で背負うと、立ったまま。
「美里、帰らねえのかよ」
深呼吸して、うなずいた。私も貴史の後を追った。貴史の歩きは速い。私と並ぶまいとして意地になってどしどし歩く。追いつくのに必死だった。
そろそろ用務員のおじさんが「帰れよ」と見回りに来る頃だ。校長室前の振り子時計が一度鳴った。部活の練習も終わる頃だろう。部活連中がもどってくるまでに校門を出たいと思っているようだった。
靴置き場に生き、履き替える。靴の中に何か入っていたらしく、貴史はすのこ板の上に立ったままもそもそ動いていた。
「何書いてるの、それに」
「美里には関係ねえだろ」
貴史は私にその紙を隠した。ちっと舌うちし、ジーパンのポケットに押し込み、
「先に帰ってろ」
命令した。なんでよ、と聞きたかった。
「あんたに言われる筋合いないわよ。帰るけど貴史はどうするの?」
「行くとこある。美里が来ると絶対、邪魔だ」
ふんとむくれて私は付いていくことにした。
「私がいるとなんかまずいんでしょ」
「だからさっさと帰ってろよ」
「あ、さっきの手紙、もしかしてラブレター? 私、見たいな」
「なわけないだろ」
「だったら、ついてく。言いふらしてやるから」
貴史はむっとしてそれ以上何も言わなかった。
「どうなっても知らねえぞ」
私がいったん決めたら絶対に意志を変えないことを、知っているからだろう。
ただ、ラブレターをもらっただけだったら私も野暮なことをしないだろう。
違うものの匂いが、なんとなくした。いつも貴史と私が巻き込まれるごたごたの予感。
こいつひとりで行かせたら、だめだよ。
それほど歩かなかった。
人のいない叢に足を踏み入れ、コンクリートの敷いている道からそれていった。すすきの群れに隠れた、すでに廃止になったバス待合室の建物だった。さびて読めない停留所の名前。貴史が先に入って美里が戸を閉めた。窓があるが、人の通る気配はなかった。役立たず。きちんとノブをまわして締めた。手を離すと、タバコのやにが黒くついた。吸殻もたくさん飛び散っている。両側の木でできた黒いベンチはみしみしと、古さを誇る音を立てていた。
貴史のそばに私は座った。貴史は向かい側にうつってランドセルを下ろした。
「どうしてこんなところにくるのよ」
「……」
「あんただけ呼び出されたの? 他に誰か来るの?」
「来る、けど中学生が来たら逃げる」
「なんで」
「姉ちゃんたちの学校で、ここタバコをすうとこにんってるんだと」
「たばこって二十歳になる前に吸ってもいいの」
「ばか、隠れて吸うんだぜ」
やにに貴史の元気な声が吸い取られているみたいだった。声がやつれていった。
足元に一冊週刊誌が落ちていた。私は拾おうとした。貴史がいきなりひったくった。そのまま戻ってめくり始めた。
「貴史ってばひとりじめすることないでしょうが」
私ものぞこうとした。無言で貴史は隠した。ページを開かないように押さえ、黄色のトレーナーの下に押し込もうとした。
「ずるいよ、私にだって見せてくれたって」
「お前が見たって面白くなんてねえよ」
「あんたが見たらいいの」
私は貴史の背中を押し、頭を押さえつけ、ジーンズの尻ポケットにしまいこんだであろう紙切れを探った。靴の中に入っていた「ラブレター」らしきものだ。子供の頃から取っ組み合いして遊んでいた私のこと、いつものことだ、
「ほーら、これね、返してほしけりゃ見せなって」
戸惑い顔の貴史は、私の手にある紙を見たとたん、遊びの姿勢を捨てた。紙は四つ折りで細かにしわが寄っている。びんせんらしい。ふざけ気分でひらめかせ、走り回る私を血相変えて追いかけた。
「返せ馬鹿野郎、てめえ、見るな、美里!」
「ラブレターなわけないね」
振り向いた拍子にトレーナーから本がつるりとすぺっておちた。貴史はそれをぶつけようとした。一瞬早く私は紙を開いた。
「ばかやろう!」
読むか読まないうちに私の手から貴史がひきちぎった。
私はまだ冗談気分のままだった。見たい、読みたい。貴史の手から奪い返そうとした。
いきなり貴史は肩を掴んで床に私を突き飛ばした。手加減、全くしてくれなかった。
左腕に全体重をかけて倒れた。
ほこりがベンチの下にぶらさがっていた。起き上がろうとしても腕がじんとしびれて力が入らない。
貴史が紙を細かく引き裂き、細かくし丸めるのが見えた。
頭をもたげ貴史の足元を見ると、男性週刊誌の際どいヌード写真が開いていた。顔が厚くほてってくるのがわかった。大股開き、何も着ずに横たわっている女性の写真だった。外国の人だった。髪が黒く、まゆげが太く、目が大きい。
ここで横たわっていると、写真の女性と同じことをしているようでいやだった。痛いのをがまんして身を起こした。腕がまだじんじんする。本を自由の利く手で端の方にすべらせた。貴史のいる前で読みたくなかった。
貴史が紙くずを丸めて床に落とした。からみあった玉がぱさんとすずしい音をたてて落ちた。
「美里なんか勝手に死んでろ!」
ランドセルを置いたまま貴史は戸を開けた。
「私も行くよ」
貴史は背を向けたまま動かなかった。一人で帰ろうとするわけがないだろう。もし帰ったら貴史の家までランドセルを持っていかなくてはならないから。
どうしてここに来なくてはいけなかったのか。私にも教えてくれないのかなあ。
「……帰れたら、とっくに帰ってるぜ」
あきらめたのか、貴史は戸をもう一度閉めた。美里と目を合わせなかった。ベンチの隅に座り、きっと外を見た。私も立った。外には夕暮れで光った枯草の茂みだけが揺れていた。
「なによ」
「美里なんかのためじゃねえよ」
「どうして私のことが出てくるのよ」
「おとしまえつけるだけだ」
「誰の?もしかして私の」
「違うと言ってるだろ、ばか」
「ばかばかってしつこく言わないでよ」
おとしまえ、か。
それならば、私は貴史の側から離れるわけにはいかない、そう思った。
ただ単に、男子同士のけんかだったらやぼなことはしない。ちゃんと身を引いてうちに帰るだろう。
でも、貴史の様子はやはり変だった。私が詩子ちゃんと言い合っている時、貴史はどこにいたのだろうか。まさか私が帰るのを待っていてくれたとか? 可能性はある。様子が変だと思ったら、特別に断ることもなく一緒にいようとするだけだった。私も同じ経験を何度かしている。
いきなり帰るよう命令したのもおかしい。もちろん私は命令されたらやり返す人間だから、言うこと聞かなかったけれども。本当は私をここに連れてきたくなかったのだろう。「勝手にしろ」の一言だった。
貴史は何かを隠している。私から離れたくない、そんなことを感じているはずだ。
だったら、私も離れない。絶対に、見届けてやる。落とし前を。
角田さんたちのリンチについて、貴史はあえて言い放ってくれたのだ。
あんなことしたら、何言われるかわからないのにだ。
貴史の性格から考えて、自分でしでかしたことは自分でけりをつけるだろう。
角田さんたちに呼び出されたかなんかしたんだ。
私はほこりがついた髪の毛の先を払った。気まずい思いで貴史とは反対側に座った。貴史は下を向いている。私の足元にあるポルノ雑誌をじっと見つめていた。私も意識した。貴史の視線が、急に怖いと思った。
角田さんはいなかった。代山さんもいなかった。夕暮れ色を背中にしょって戸を開けたのは、私のスカートをめくり上げた連中五人だった。
見覚えのある男子が二人続いた。同じ学年ではない。左胸につけた名札を見て六年生だとわかった。背丈は同じぐらいだが、目がやたらと細かった。にやにやして私と貴史を眺めていた。
合点がいった。
こいつらだ。
また、リンチをかけるつもりなんだ。
頭ではくっきり、何をされるかがわかっている。
わきあがるものは、いつまでたっても慣れない。でも今は貴史が側にいる。ずりずり私は貴史の方に寄ろうとし、途中で止めた。おもちゃにされる。平気のへいざを装った。
私と貴史のいる場所が離れているのに気付いて、妙だと思ったらしい。
「あれ、やっぱり一緒なんだ。どうしてそんなに離れてるのさ」
「まだくっついてないの、いっつもいっつもべたべたしてるくせにさ」
自分の声だけ驚くほど冷めていた。
「まだ私に用があるの」
貴史は足を床につけてよそ見をしていた。
「やっぱり、大好きな清坂さんだもんね。いつでもいっつも離れないんだよね。いやらしい。ちょっと、あんたもこっち向いてよ」
六年の男子二人が、貴史の方を指差して笑った。不良っぽくはない。強そうには見えなかった。
なぜ貴史は抵抗しないのだろう。こんな奴、殴ってしまえばいいのに。
動かずふてくされたように貴史は横を向いていた。
いきなり私は五人に両腕を押さえつけられた。椅子から引きずりおろされた。勝ち目がない。一人だったら絶対になんとかするのに、離せなかった。
「また集団で何かする気なのね!」
何も言わず、美里を床に押さえつけた。足をばたつかせ、力いっぱい暴れるけれど、どうしても勝てなかった。
「ふざけるんじゃないわよ。私が何したっていうのよ!」
「私たちに恥かかせたじゃないのよ。馬鹿女」
貴史は、と目で追った。同じような状態で両腕を押さえつけられていた。抵抗していなかった。物言わず床に正座させられていた。私の暴れ叫ぶ声だけ、うるさかった。
「貴史、あんたどうして逃げないのよ!」
「逃げられるわけないよな。なあ、羽飛」
「あんたらに言われるすじあいはねえよ」
ぐっとにらみつけているものの、やはり貴史は抵抗しなかった。
「今やってることを、どうせ俺は先公たちにちくるから、覚悟しろよ。今度は、角田たちだけじゃすまないわな。いいかげん手を離せよ」
「ちくれるもんならちくってみな。今からあんた達の、もっと恥ずかしいところ、言いふらしてやるんだから。ね、先輩」
私も四人の女子に引きずられ、貴史とお見合いする形で座らされた。ちらっと目が合ったが、お互いにそらした。ぐっと前に近づけられ、正座させられた。ひざとひざがくっついた。貴史のひざのとんがりぐあいがスカートを通してつたわってきた。逃れたくて美里はさらに足をばたつかせた。足を宙に浮くぐらい跳ね上げた。蹴飛ばし返された。腕に噛み付こうとした。ランドセルで顔を押さえ込まれた。万事窮すだ。
「あのさあ、これからふたりでおもしろいこと、してくれない?」
「いっつもしてることだよね」
「清坂さんと羽飛って、仲いいもんね」
何をされるのかわからず、全身が震えた。叫べるだけ叫んだ。
「影で呼び出してこういうことするしかできないのよね。情けない奴。あんたたちと一緒にされたくない!」
貴史も私から離れようと腕を抜こうとする。弱すぎた。
「さ、やろうよ。まずはキスしてみてよ」
「カメラ持ってきたもんね」
頭をぐいと押し付けられた。やめなさいよとしかいえない。顔をそむけ、真正面にある貴史の顔から逃げようとした。貴史も同じだった。歯を食いしばり、うめきながら離れよう離れようと首を振りつづけた。とうとうひざとひざがはさまるくらい押し付けられ、私も貴史もこれ以上離れることができなくなった。
「やめてよ……」
私の唇が貴史の首筋を走った。互いの額をくっつけられて鼻と鼻がぶつかった。貴史から汗の沈んだ匂いがする。近い。私はもう避けられなかった。べとべとしたやわらかいところに唇が触れた。目と目がぶつかり、ぐるぐる回った。さらさらすれるのはほおとほお。鼻から出る息がぶつかりあった。
だいだい色の人影。戸がきしんだ。
はっと見上げると、誰かが窓から顔を出していた。光に反射して顔かたちはさだかでない。ふたりいるように見えた。
「誰か、いる、のぞいてるよ!」
貴史に噛み付きそうになりながら叫んだ。
「やだ、うそでしょ!」
「絶対見られないって言ったのだれよ!」
驚いたのか、私を押さえる八本の腕が緩んだ。これを逃しはしない。肘鉄でおなかの真中をそれぞれついた。自分のできる技で、かなり強烈なもの。ついでに貴史を押さえる相手のすねを思いっきり蹴り上げ、腕に歯型をつけた。
「この女、噛み付きやがった!」
叫んだ拍子にこちらの手も離れた。貴史はすばしっこく相手の急所を狙い、うずくまらせた。
「美里、逃げるぞ」
貴史はランドセルのつりひもをひっつかみ、もう片方で私の手を握った。引きずられるようにして、私も飛び出した。まだ橙色の光は消えていない。戸がきしみ、ぱたんと跳ね返った。道は枯草だけ、ハイソックスにちくちく突き刺さる。みんな蹴飛ばして走った。追ってくるのかわからない。ただただ二人で走った。すすきの生い茂る原っぱを駆け抜けた。