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その十 そんなこと、ないのに

  顔を上げると、詩子ちゃんだけがぽつりと自分の席に座っていた。私の斜め後ろの席だった。

「どうして美里、何も言ってくれなかったのよ」

 振り返ると、詩子ちゃんが畳み掛けた。涙にもまれてとっさに言葉を失った。

「……」

「ばか、図工の時間のこと、貴史より早く私、気付いていたのよ」

「まさか」

「ジャーしちゃったこと」

 詩子ちゃんはさらに続けた。

「いつもの美里だったら、あんなにがまんしてるなんてこと、なかったはずよ」

「しかたないのよ。突然したくなったんだから」

「角田さんにリンチされたことも知っているのよ,私」

「誰から聞いたの」

「代山さんから聞き出したの。美里は羽飛の前でトイレに行きたいって言えなかったんだって思ってた。それなりに、好きな男子、いるんだなって思ってた」

 絶句した。

「角田さんたち、美里を見ていて唖然としたみたい。美里、自分で始末できるかどうか、たんか切ったんだってね。私が一緒にいたら、絶対そんなことさせなかったよ。すぐ止めさせた。でも、私に何も言ってくれなかったのね」

 風向きがおかしい。話が読めなかった。ひとりでしゃべりたいことだけ、詩子ちゃんはしゃべっている。

「美里、どうして代山さんがおもらししたのか、わけ知ってる? 本人から聞き出したから確か。あの人、三組の木村のことが好きなんだってね。そばの席にいけたもんだからうれしくて、休み時間もずっと離れなかったんだって。でも、体育館寒くて、変な感じになってきて、一刻を争う状態になって。男子の前でトイレに立つ恥ずかしさ、想像できる?すごくあるよ。代山さんもそれを感じたんじゃないかな」

「そんなこと、わからない、そんなの」

「美里にはまだ、わからないよね。まだだから」

「まだ、私がなってないから、って言いたいの?詩子ちゃん」

 かっとなって言い返した。でも続けることができなかった。

 あの日から詩子ちゃんのそぶりが変わった。私に『あのこと』がはじまったことを話したあたりから。トイレに一緒に行くとき、少しだけ時間がかかるようになったこと。しょっちゅう後ろを気にするようになったこと。小さな声で「何か、ついてない?」と尋ねるようになったこと。

「でも、今日のことは、わからないって言っても許されることじゃないよ。美里、角田さんとのことは自分でかたをつけたんでしょ。いまさら羽飛のことを利用して、いじめかえそうなんて汚いよ」

「何て言ったのよ、詩子ちゃん!」

 のどがかすれた。でも叫んだ。自分が誤解されている。何か思い違いをしている。

 貴史を使っていじめ返す?

 何で私がそんなことしなくちゃいけないの?

 詩子ちゃんの声は激した。

「美里、羽飛をはじめとする男子がなにしたかわかってないよね。他の組の男子と手分けして女子トイレの前をうろついていて、角田さんたちのグループが来ると、すぐに『使用禁止』の札を下げるのよ。もちろん関係ない子はちゃんと通すけど。でも、男子の前で行く勇気なんてなかなかないよ。美里もわかるでしょ。ずっとがまんにがまんしてきた人が、みんなのいる前で『トイレに行っていいですか』って言うのがどんなに辛いか。美里がやりかえしたいって気持、しかえししたいって気持はわかるよ。それなら自分でやればよかったのよ。美里のことを好きな男子使ってやらすなんてこと、しちゃいけなかったのよ」

「そんなんでない! 詩子ちゃん!」

 貴史が勝手に、と言いかけて口をつぐんだ。

 貴史は私の悔しさを一手に引き受けてくれた。裏切れない。

 詩子ちゃんの言葉も痛い。そこまで卑劣な真似はしていない、そう言いたかった。

「私、絶対そんなことしてない!」

「羽飛が勝手にしたってこと?」

「……」

「もしそうだとしても、美里は羽飛にだけ、本当のこと話したんでしょ。私には何も言わないで」

「話してない、なんにも。本当に何も」

「誘惑したの」

 すきなく詩子ちゃんの尋問は続いた。見当違いの方に進んでいた。考えたこともない方向に。

「羽飛が美里のことを好きだということ、知っていたんでしょ。同情されるようなこと、言ったんでしょ。私だったら話だけ聞いて、何も役立たないから、ってばかにして」

「違うのよ、貴史に話したのはそんなことじゃない。誘惑、なんて、考えたこともない」

「なら、羽飛が嫌いなの?」

「そんなんじゃないって、ただ」

「好きなの嫌いなのどっち!」

 詩子ちゃんは感情を高ぶらせて涙をこぼしていた。

「どうして詩子ちゃん、ふたつにひとつの答えしか出せないの!」

 おとなになるって、ふたつにひとつの答えしか思いつかなくなることなのだろうか。私は貴史を好きとも嫌いともいえない。本心だ。

 でも、今の詩子ちゃんにそれはわかってもらえそうになかった。

 もっと詩子ちゃん、自由だったのに。

 あれが、あったからなの?

 血が一滴、流れただけじゃない。

 りりしい詩子ちゃんが切り離されていくよ。

 詩子ちゃんの激しい言葉から、私はなじんできたふんわりした時間が、ゆられてふるえているのを感じた。


「みさ……ん?」

 貴史が教室を覗き込む気配。

 まだ帰っていなかったのだろうか。詩子ちゃんが乱暴に目をこすってランドセルを担いだ。貴史の顔を一切見たくないという風に。詩子ちゃんを見つけた貴史は口を半開きにして、思わず頬を押さえていた。きっと保健室にいかなかったのだろう。まだ痛むのだろう。

「ちょいと待てよ。藤野。お前だろ、ちくったの」

 呼び止めた。

 まさか、詩子ちゃんが? 

 詩子ちゃんは私の方をじっと見つめたまま、潔く答えた。

「そうよ。私よ。美里のことは話さなかったけど」

 立ち上がり、ひっぱたきたかった。私の味方だとずっと思っていた詩子ちゃんが裏切ったこと、頭で考えるよりも体が勝手に反応した。手が挙がる寸前だった。

 その前に貴史は自分のランドセルを床に投げつけた。

「お前なあ、きたねえぞ」

「汚いのはあんたよ」

「いつからお前、沢口のめんこになってしまったんだ」

「羽飛だけでしょ。沢口のせいで痛い思いしたのは。角田さんたちはね、あんたのせいで死ぬ思いをしたのよ」

「角田たちのしたことがまっとうにみえるのかよ」

 貴史の声は無我夢中で怒鳴り散らしているようだった。声は大きい。でも貴史の言葉は、私にしか通じなかった。詩子ちゃんには、上っ面の意味しか通らなかった。

「あんたは美里のためなら何したって平気なんだよね」

「別に、そうしたわけじゃねえよ」

 ぶっきらぼうに言い返す貴史。

「じゃあどうしたのよ。美里がリンチされたから、復讐したんでしょ。おしっこジャーで美里が泣きそうになっていた時、水をかけてごまかしたのは誰よ」

「こいつにそんなことするわけないだろ」

「羽飛は美里が好きなのよ。美里をいじめる奴はみんな死んでしまえばいいって思ってるのよ」

 貴史は私の方を見なかった。茶色い戸の柱に寄りかかり、詩子のランドセルをにらみつけ、切り札を出した。

「藤野を好きな奴ほどな」

 かたん、と詩子ちゃんのランドセルが鳴った。

 その音に誘われて、詩子ちゃんは誰を思い浮かべたのだろうか。

 私はふたりの名前を記憶からひっぱりだした。

 ひとりはサッカー部ミッドフィルダーの木村。藤野詩子命と、仲間内では、知らないものがない事実。

 もうひとりは、その場で頬をはらし、私を見ないふりして気にしてくれている、まぎれもなく貴史のこと。


 心がふるえた。

 詩子ちゃんはいつか、男子のことをがきっぽいと言い放った。あれは貴史に向かって言ったのだろうか。木村が詩子ちゃんに惚れぬいているという噂を耳にしても、『そんなの私に関係ないじゃない』と私に言い切った。

 別に木村のことを嫌いというわけではないのだろう。

 ただ、だれそれが好きという話から離れていたかったからだろう。

 恋心なんて、今までの詩子ちゃんには関係ないことだと、思っていた。

 だけど、詩子は私をかばいすぎて、傷を負った貴史を執拗に攻めている。

 その裏で、守られている私を罵っている。

 私が何も知らずに、平気で貴史の思いを利用している。

 詩子ちゃんはきっと、そう思い込んでいる。そう読んだ。

 どうしてそこまで思い込むのか。


 詩子ちゃん、貴史のことが、好きだったんだ。

 貴史って、そう思われてるんだ。


「とにかく、私、縁切るからね」

 詩子ちゃんは教室からしずしずと出て行った。椅子をきちんと納め、立ち上がったときよりもしとやかに振る舞い、貴史のいる反対側の戸を開けて。

 振り返らなかった。

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