7 竜王シルヴァーン
7 竜王シルヴァーン
涼風が立つ。
梢を揺らして夏の熱気を払い、木々に囲まれた手入れの良い古風な庭を吹き抜ける。
木陰の敷物の上で気持ちよさそうに手足を投げ出していた二つの人影の、小さい方がちらちらする木漏れ日に昼寝の邪魔をされ、目覚める。
のどが渇いたルオーはそっと起き上がり、家の方へ歩き出した。
その動きに片目を開けた竜王は、巨大な猫のように満足そうに寝返りをうって、また眠りの中へ戻っていく。
まったく・・・猫のようによく寝るのだ。竜王シルヴァーンは
あれから二か月が過ぎようとしていた。
人の出入りの多い神殿を嫌った竜王は、神殿と王宮の間にある林の奥の、古い狩猟用の別邸に落ち着いた。
共に暮らすのはルオーと、ルオーの世話をするエラという名の娘だけ。
ルオー付きの女官を一人選ぶのに、神殿派,国王派、王妃派その他の派閥が、大闘争をしたのだが、誰一人竜王の出した、たった一つの条件を満たせなかったのだ。
『山羊の乳を搾れること』ただ、それだけ。
結局、城の台所で働いていた農家の娘、エラが臨時に任命され、そのまま落ち着いてしまったのだ。
そばかすの目立つ、くるくるとよく動き、よく笑う十七歳の娘は、子供の時から小さな弟妹達の面倒をみてきたので、病気の子の扱いに慣れていた。
食べられるものが限られる上、食の細いルオーの食事を作るのは、けっこう骨の折れる仕事だったが、働き者のエラはしごく簡単にやってのけ、女官長が嘆いたことに、古い二階建ての由緒ある別邸は、次第に豊かな農家のような温かい雰囲気になって来ていた。
表庭では山羊と鶏が遊び、裏庭の花壇は拡げられて、都ではあまり見ないハーブや野菜の畑となっている。
広間の壁を飾っていた武器や、革張りの固い椅子は、ゆったりとしたソファや手織りのラグに代わり、次の間と台所の境の戸はいつも開け放たれて、ハーブティやスープの良い香りが漂ってくる。
竜王が水のようにワインを飲むので、だいぶ減って来たワインの瓶の棚は、熟成を待つ手作りの山羊のチーズに占領されつつある。
「この次から、ワインは樽で持ってきてもらいますから」
エラは笑った。
エラも竜王を恐れなかった。
恐れる前に・・・恋に落ちてしまったのだ。
(伝説のロードリアスの守護竜様が、こんなに美しい男性だったなんて)
端正な竜王の顔をひと目見た途端、息が止まり、真っ赤になってうつむいてしまったエラだった。
どきどきする胸を必死で鎮めようとするその頭からは、女官長が懇々と説いて聞かせた、彼女のような身分の低い者が、竜王と『黄金のハート』である皇太子に仕えるのは、どれほと光栄な事か、という話は完全にすっぽ抜けてしまっていた。
そして、搾りたての山羊の乳を飲んだルオーが、ほっとしたように、『食べるのって苦しい事じゃないんだね』と言うのを聞いて、流行り病で二人の弟を失くしているエラは、カンカンに腹を立ててしまったのだった。
(何で!?何で!?
何でこんな事になるまで、誰も気が付かなかったの?何で誰もこの子の話を聞いてやらなかったの?)
湯浴みする王子の痩せこけた小さな体を拭いてやるたびに、怒りがこみ上げる。
(侍医だの女官だのいるくせに、一体何を見ていたのよ!この子を殺してしまうところだったじゃないの!)
そして、竜王というと。
『寝ていることにしろ』どころか、毎日寝てばかりなのだ。
『眠らぬと、バランスが狂う』と言う。
ワイン以外口にせず、数時間ルオーの相手をすると、あとは寝るだけ。
食事が変わり、環境が変わり、眠れる神と恋する陽気な娘に守られて、ルオーもまた変わった。
病人特有の熱っぽいうるんだ眼も、疲れた隅も消え、湿疹も出なくなった。
痩せて体力のない、疲れやすい少年ではあるが、不健康な影が消えたのだ。
『身体から毒が完全に抜ければ、もっと丈夫になる』
竜王が請け合ってくれる。
そして、彼は、『黄金のハート』なのだ。
竜王が言う。
彼一人だけが、竜王を『シルヴァーン』と呼んでいいのだと。
人間の中でただ一人『黄金のハート』だけが、竜王の名を呼べるのだと。
誇りと喜び。
ゆっくりと過ぎる苦痛のない毎日が、少年に自信を与え、おどおどした眼差しが、遠慮がちな笑みに代わり始めていた。、