6 選択
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人いきれの中で、ルオーは汗びっしょりになっていた。襟元を拡げようと、固く結ばれたレースを虚しく引っ張る。
最高の礼服に身を包んだ王族たちに囲まれて、窒息しそうなのだ。
竜王神殿の青の間。
王族の子供たちの先頭に、ルオーは立っていた。
王族全員が竜王に忠誠を誓い、『黄金のハート』が選ばれる、誓いの儀。
竜王が人型で現れ、まだ寝ている事にしろと言うので、六年後、本殿と神殿前の広場で、竜体の竜王の前で華やかに行われるはずの儀式が、内輪でひっそりと行われている。
ひっそりと。ざっと七百五十人の王侯貴族と神官達が集まる中で。
この青の間の向こうに、竜王様が居るはずなのだが、ルオーの位置からでは見えない。
(今日限り、あの方は神殿に入ってしまわれるのか・・・もう、めったにお会いできないのか・・・あの方の『黄金のハート』には誰がなるんだろう・・・)
もう一度、あの黄金の雲に触れたいと、ルオーは心から願った。
儀式が始まった。大神官の竜王への祈り。王族への祝福。
そして国王以下、全ての王侯貴族が、竜王の前で忠誠を誓う。
「ロードリアス国王、ロード・オブ・イングランド、ウィリアムルス六世陛下」
緋色のじゅうたんの上を進む、威厳ある浅黒い鷹のような姿。いつも怒ったように見下ろされるだけで、言葉をかけられる事も無い、ルオーの父。
「ロードリアス王妃、ロザモンド・ド・ラクルア妃殿下。ジェムソン王子殿下。エリアス王子殿下。ウィルミネア王女殿下」
赤子を抱いた、丸顔の勘の強そうな王妃。三歳と四歳の、ピンクの子豚のようによく似た弟たちが続く。
ルオーを完全に無視する南国出身の王妃は、自分の傍から離さぬことで、自分の子供たちを常にルオーの先に立てているのだ。
王家の子供たちの順番が来る前に、数人の王族と王族出身の神官の名が呼ばれ・・・が、何か手違いがあったようだ。
ざわざわと人垣が揺れる。侍従たちが慌ただしく走っていく。
息が苦しく、眼が回って来たルオーは、早く自分の番が来ないかと思うばかり。
竜王様に会う前に倒れるのだけは、絶対に嫌だ。
だが突然、この息苦しさが自分だけのものではない事に気付いた。
この・・・酸味のある、黄色い、重苦しい、窒息しそうな・・・青の間に満ちる、人々の恐怖の念。
気をとられていたルオーは、自分の順番を忘れた。
「ロードリアス皇太子、プリンス・オブ・ウェールズ、ルオー・ラウンドウェル殿下」
真ん中の称号は、父と同じに、今では意味も不明な古代のものだ。
後ろの誰かが、早く行けというようにルオーを強くつついた。
・・・強すぎた。
ひ弱な少年はバランスを崩し、緋色の絨毯につまずいて派手に倒れる。
額の金の輪がななめにずれ、顎の線で切りそろえた髪は乱れてめちゃくちゃだ。
恥ずかしさで顔も上げられず、ルオーは通路をとぼとぼと歩いた。
だが、人々の視線は正面に釘付けで、ルオーに気付く者はほとんどいない。
ルオーの心に何かが触れた。
驚いて立ち止まり、顔を上げる。
目の前に段があった。
緋色の絨毯を数段上がって、白い毛皮を豪奢に敷きつめた、玉座。
ゆったりと座って、人々を見下ろしている、黒衣の竜王。瞳は半ば閉ざされ、長い睫毛が頬に影を落としている。
白を基調に金銀で飾り立てた神官たちにかしずかれ、神殿の高い玻璃窓からの光に照らされて、一人黒を纏う竜王は、休息する神の像のようだ。
威嚇する姿ではないのだ。それなのに、凄まじい威圧感に人々は圧倒され、息を殺している。
わかってしまうのだ。これは『人ならざる者』だと。
(死ぬほど退屈して不機嫌な、大きな猫みたいだ)
ルオーは思った。
ルオーに眼を止めた竜王は、少年の右目に出来た大きな青痣を見つけて、眉を上げた。金の瞳に面白げな光が踊る。
威圧感がふっと消えた。
「おいで。ルオー」
良く響く深い声がルオーの名を呼ぶ。
耳が信じられず、誓いの言葉も忘れてぽかんと立ち尽くすルオーを、竜王が手招きする。
つまずきながら段を上ると、竜王は巨大な虎のようにぐーっと体を伸ばした。
不在の竜王のために作られた、豪奢な飾り物の玉座が重さにみしみしと軋んだ。
「この子を貰うぞ」
命令でも、希望でもない。既成事実のように口にした竜王の言葉に、青の間は騒然となった。
横に控えた大神官が、しどろもどろに訴える。
「り、竜王様、ルオー王子は・・・皇太子は・・・あまりに幼く病弱で・・・とても竜王様にお仕えするような大任は果たせぬかと存じます」
「仕えさせる気はない。私は人間の一人と共に暮らすと約束しただけだ。
人間が近くにいる事を忘れぬようにな」
「で、では、せめて他の候補者をご覧ください」
大神官の合図で儀式が中断され、ダルエスを先頭に数人の若者が進み出た。
「六年後の竜王祭に向けて、最高の教養を身に着けさせた王族の子弟ばかりです」
着飾ったダルエスが進み出て、巻き毛を揺らして優雅に一礼する。
「ダルエスと申します。竜王様にお仕えし、そのお心に沿うために、来る竜王祭の儀礼のすべてを諳んじました。
竜と人との友好の懸け橋となるために、この身を捧げるつもりでおります。
どうか、病弱な皇太子に代わり、私の・・・・・・」
滑らかな声が、止まった。
微笑をはりつかせたまま、ダルエスの顔が凍りついている。血の気の引いた顔に、だらだらと冷や汗が流れる。
ゆったりと腰を下ろし、右手で軽く顎を支え、寛いだ姿の竜王。瞬かぬ眼が、きらびやかな若者の上の据えられている。
その金色の眼に射すくめられ、ダルエスは金魚のようにぱくぱくと口を開け、生唾を飲み込むと、あろうことか、ぺたんとしりもちをついてしまった。
「これ!竜王の御前ぞ!」
面目を潰した大神官が、進み出て甥を叱責する。
その彼も、ぴたりと動きを止め、色を失う。
竜王のそばに立ち尽くしたまま、訳がわからず、ルオーは竜王とダルエスを交互に見比べていた。
竜王の眼が、次の若者に止まると、彼もがたがたと震えだしてしまう。その次も。そして、全員が。
「ルオー」
竜王に声をかけられ、ルオーはポカンと開けていた口をあわてて閉じ、竜王の眼を見上げる。
真っすぐな信頼と尊敬を込めて。ただ一人、自分の苦しみを理解してくれた相手を。
竜王の眼は、強い力と光を放つ、黄金の泉のようだ。
(きれい・・・溶けた金みたいだ・・・)
引き寄せられるように近づき、答える。
「はい、竜王様」
竜王は頷いた。
「こういうことだ」
大神官に向かって、言った。
「眼を合わせるたびに動けなくなられては、用が足せぬ」
国王が大神官の横に立ち、一礼した。
「我が子ルオーが『黄金のハート』に選ばれるとは、光栄でございます。竜王陛下」
国王の承認に、青の間の全員の眼が小さなルオーに注がれる。
もの凄い圧迫感に息が詰まった。
今、父が言った言葉の意味が理解できない。
(『黄金のハート?僕が・・・僕が『黄金のハート?』)
大神官ギリアスの頭は高速回転していた。
竜王の早すぎる目覚めも予定外なら、この忌々しい王子が『黄金のハート』に選ばれたことはとんでもない計算違いだ。
(大体、竜王がどんな存在か、百年前の神官はなぜはっきりと記録しておかなかったんだ!)
ロードリアスの守護聖獣。偉大なる竜王。
美辞麗句を連ねた教典の数々から、竜王が竜にも人もなれる事は知っていた。
だが、これは・・・。
当初から、知性を持つ人型の竜王が出現するとは。
巨大な獣を象徴として祭り上げるだけだと思っていた大神官は、ほぞを噛んだ。
自動的に最高位の大神官となってしまった皇太子を、ギリアスは改めて観察する。
やせ細った体。発疹でただれた口元。隈の浮いた力のない眼の周りには、醜い青痣までつくっている。
ギリアスは頷いた。
この少年が病んでいる事は、誰の目にも明らかだった。
成人するまで生きられなくても、誰も不思議とは思うまい。
横目でロザモンド王妃の強張った顔を窺う。
(同じ考えの者は多いということさ)
儀式を中断したまま、竜王は立ち上がろうとする。
「この先六年間、私は公式の場には出ぬぞ。誰も私の邪魔をするな。
ああ、ここの工事もやめろ。耳障りだ」
『地の三位』が、がっくりと肩を落とした。
「来い、ルオー」
(あ・・・)
ルオーの無言の声に、竜王は振り返った。
眼で少年を促す。
「あ・・・あの・・・リンダが・・・あねう・・・いえ、姉が・・・お会いするのを…楽しみに・・・」
蚊の鳴くような声が途切れ、消える。
「言葉は正しく使うのだ、ルオー」
竜王の声には、怒りもいらだちも無かった。
深呼吸を一つすると、ルオーは顔を上げ、頬を染めて言った。
「後の人たちの誓いがまだです。竜王様」
『風の一位』が頭を抱えた。
(竜王様への礼儀と言葉遣いを特訓せねば・・・)
竜王は座り直した。
飾り物の玉座がさらに音を立てて軋んだ。
次々と名が呼ばれ、王族たちが進み出る。
数人目に、興奮に眼をキラキラさせたリンダが進み出て、貴婦人のように頭を下げる。
(よかった・・・)
姉に借りを返したような気がして、ルオーはほっとした。
しかし・・・残りはあと、七百人以上もいるのだった・・・。
玉座の横に立ちっぱなしで足が棒になったルオーがふと気が付くと。
玉座に座ったまま、竜王はしっかり寝息をたてていた。