3 神殿にて
3 神殿にて
小高い丘の上、岩山と緑の森を背景にそびえ立つ竜王神殿。
平民の信徒と巡礼たちは丘のふもとの外殿までしか入れないので、この本殿に登れるのは王と貴族に限られている。神官たちもここに勤めるのは王族と貴族の子弟ばかりだ。
「降ろして下さい。入り口でひざまずかなければ」
ルオーの言葉に、その人はちょっと少年を揺すり上げただけだった。
「なに。確かめるだけだ」
ルオーを抱いたまま、ずかずかと神殿の中に踏み込み、内陣の飾り扉を開け、祭壇に近づく。
捧げ物の、きれいに積み重ねられた聖餅と呼ばれる小さなパンを、片手で無造作につかみ取る。
「食べてみろ」
あまりの不敬な振る舞いにどきどきしながら、小さな薄焼きのパンを一つ受け取ったルオーは、いつもの吐き気を予想しながらも、おとなしくそれを口に入れ、ちょっぴりかじり取った。
「どうだ?」
少年の青い眼が、びっくりして見開かれる。
「まず・・・えぐく、ないです・・・」
覚えたばかりの言葉を使う。
どやどやと駆け込む神官たちをまったく無視して、その人はルオーに笑いかけた。
「やはりな。
それは小麦だけで作ってあるのだ。
お前たちが故郷から携えて来た、今では絶滅寸前の穀物だよ」
「狼藉者っ!」
「この竜王神殿を何と心得るっ!」
群がり叫ぶ神官たちをねめつけて、その人はよく響く深い声で言った。
「愚か者。その神殿の主がわからぬか」
神官たちの間に、ざわ、と動揺が走る。
痩せた子供を小鳥のように腕に止まらせた、丈高い男を改めて見直す。
ゆったりとした、豪華だが古風な衣装。黒革の長い上着。腰の大剣。黄金で装飾した幅広の帯。肩の下まで伸ばした、たてがみのような豊かな金の髪が、男性的な美しい容貌を囲む。
炯々と輝く、切れ長の、黄金の、人では絶対にあり得ぬ眼の光り。肌の輝き。
そして、何にも増して、その額の中央に、水晶のように輝く・・・。
「あれは・・・竜印・・・」
「竜王様のお印・・・」
つぶやく神官たち。
「いや、そんな馬鹿な!竜王祭まであと六年もあるというのに!」
疑い、戸惑う年かさの神官たちをしりめに、若い神官や、見習いたちが、次々に膝を折り、頭を下げる。
「竜王様・・・」
「竜王様・・・」
広い神殿の中に、急に人が増えた。
息を切らせた女官長たち。剣を手にした衛兵たち。そして、金糸の刺繍の衣をまとった、高位の神官たち。
全員を見下ろす形になって、ルオーは身をすくめ、男の肩にしがみついた。
心臓が、どきどきしている。
(この人が竜王?ロードリアスの竜王様?だって、だって、竜じゃないよ?)
入口付近でざわめく声。
「侵入者は捕らえたのか?王子はご無事か?
竜王だと?馬鹿な、今何年だと思っているのだ!」
額に金の飾り輪をはめた、ごま塩頭がこっちへやって来る。
ルオーの大叔父、国王に次ぐ権力を持つ、竜王神殿の大神官。
いつも、この人の前に出ると、緊張して顔も上げられぬルオーなのだが・・・。
(叔父様って・・・禿げてたんだ・・・)
上から見ると、中央部が見事に無かった。
あっけにとられていたルオーは、男の良く響く声に驚いて、転げ落ちそうになった。
「何だ、この大げさな建物は。百年前とはずいぶん変わったものだな」
大神官がやっと目の前に進み出る。
男の姿を見て、顔色を変えた。
ひと目で人間ではないと見抜いたらしい。
だが、脂汗をかきながら、しどろもどろに尋ねた。
「竜王・・・殿・・・なのか?六年も早く目覚められたと・・・?
それに・・・人型とは・・・竜の御姿ではないのか・・・?
本当にロードリアスの守護神殿・・・なのか?」
よく響く深い声が答えた。
「私は、私だ」
その声に込められた何かに、ルオーは身震いした。
なぜ、と理解することなく、ただ感じるのだ。
『これは、王者の声だ』と。
人垣の中から、悲痛な声がした。
「竜王祭の準備が・・・百年に一度の大祭が・・・。
準備が間に合いませぬうぅぅ・・・。ああぁぁぁ・・・」
六年後の大祭の準備を一任され、大抜擢に天にも昇る心地でいた神官『地の三位』だった。
あまりになさけない声に、周りの人々から失笑がもれる。
抱かれているルオーは、男の身体から怒りが解け、気持ちが和らいでいくのがはっきりわかった。
「確かに、今目覚めたのは予定外だ。だから、まだ私は寝ていることにしておけ。
これから六年は竜体にならぬから、心配はいらぬ。
六年後には竜に戻って、派手に登場してやる」
寝ていることにしておけって言ったって・・・。
それ以上神官たちには目もくれず、竜王は女官たちに歩み寄った。
竜王の美しい横顔に見とれていた女官たちは、近づく竜王を直視できずに、潮が引くように後ずさる。
内部から輝くような、素晴らしい美貌。
なのに、恐ろしい、この異質さ。
心の奥深くで、本能で、わかってしまうのだ。
近づいてはいけない。これは『人ならざる者』だ。と。
さすがに女官長だけは一歩も引かず、礼儀作法の教本のように、優雅に深く身を屈めた。
「ご無礼のほど、お許しくださいませ、竜王様」
「この子を頼むぞ」
ルオーを降ろして、竜王が言った。
「この子には、しばらく聖餅以外の物を食べさせてはならぬ。他の物は、毒だ」
女官長が、顔色を変えた。
「第一王子に毒を盛る者など・・・」
「そうではない。この子は先祖返りの特異体質なのだ。ただの芝麦や蔦豆が、この子にとっては毒となる。
誰ぞ古文書館へやって、お前たちの先祖がこの地にたどり着いたとき携えていた食物を調べさせるがいい。それならば、大丈夫だ。
それと、あれは山羊と言ったか。あの獣に小麦をあたえ、その乳を搾ってこの子に飲ませろ」
でっぷりした神官が、汗をかきながら進み出る。
「お、お言葉ですが、貴重な小麦は神に捧げ、神官のみが口にできる、神聖な穀物。山羊に食わせるなど滅相もございません」
「豚ならば良いと言うか?」
竜王の辛辣な声。
「飽食した神官どもは、祭壇の聖餅など食べることなく打ち捨てていようが!」
神官は青くなって平服した。
ルオーの肩に軽く手を触れると、竜王は、そのまま神殿を出て行こうとする
「おっ、お待ちください!」
「竜王様!」
後を追おうとする人々に突き倒されそうになりながら、ルオーも必至で後を追った。
やっても良いだろうか・・・確かめて良いだろうか・・・怒られたらどうしよう・・・でも・・・。
竜王の上着の裾に取りすがるような気持ちで、ルオーは心を彼に向けた。
他人の心に触れようとしても、いつもはすぐに止めてしまうのだ。とげとげの、いがいがの、そう、あのえぐい味のする壁に突き当たって。
ところが。
すとん、と突き抜けてしまった。
突き抜けて、金色の雲の中に転げ込んだような感じ。
(・・・・・・・・・)
眼がくらんて、足が止まる。
気が付くと、竜王も立ち止まって、こちらを見ている。
無礼だったろうか。心で触れたのは。
ルオーは身を縮めた。怒られるのだろうか。嫌われたらどうしよう・・・。
ああ、やるんじゃなかった。消えてしまいたい・・・。
「共感力も強いのだな。それでは、さぞ生きにくかろう」
竜王は静かに言った。
「もう、泣くな」
そのまま、歩み去る。
追いかける人々で、その姿が見えなくなる。
ぼーっとしていたルオーに、女官長が声をかけた。
「さあ、まいりましょう、ルオー王子。
竜王様にお声をかけていただいて良かったですわね。
あらっ・・・お熱がありますのね。
アリシア!王宮へ急いで、王子の御寝所を整えてきてくださいな」
皆と竜王を追いかけようとしていたアリシアは、露骨に顔をしかめた。