第一章 1 小さな王子
第一章
1 小さな王子
「・・・気持ちが悪い・・・」
ルオーは袖で冷や汗を拭った。
王宮と神殿の境の林。
ここから大人には通れぬ藪の下を這って行くと、神殿の東側を見上げる涼しい窪地に出られるのだが、今日はそこまでたどり着けそうにない。
外の空気を吸えば吐き気が収まるかと思ったのだが、ちょっとした坂道で息があがってしまい、ますます気分が悪くなる。
女官たちににらまれて、朝食を無理やり飲み込んだせいだった。
「召し上がって下さらないと、私たちが叱られます」
〈嫌になっちゃうわ、我がままな子〉
「ちゃんと召し上がらないから、お体が弱いのですよ」
〈なんて贅沢なの。みっともないやせっぽちのくせに〉
・・・何と言ったら、わかって貰えるのだろう。何を食べても口の中に苦い、渋い、嫌な味がいつまでも残って、吐き気がすることを。
なぜ、ほかの人たちは平気なのだろう。
一度女官長に、なぜ食べないか問い詰められ、「まずい」と言ってしまったことがある。
結果は・・・延々一時間のお説教だった。
最高級の芝麦の粉を、最高の料理人が焼いたパン。国中から集められる、最上の食材。
毎回三人の毒見役を使って安全を確かめた素晴らしい料理の数々を、まずいなどと言うのは、我がまま以外の何ものでもないと。
(だって、ほんとにまずいんだもの)
聞かれたから、ちゃんと本当の事を答えたのに。
他人の考えている事はぼんやりとわかるのに、こちらの思いはまるで伝えることが出来ないもどかしさ。口惜しさ。
その時の悔しさを思い出し、涙ぐんだルオーは、つい、袖口で眼をこすってしまった。
袖口の、豪華な金糸で編まれた、高級レースで顔を。
(あ・・・しまった・・・)
こすったところがみるみる赤くなり、ぱーっと発疹が浮いてくる。
かゆい。無茶苦茶かゆい。
掻けばひどくなるのはわかっている。わかっているが、止められない。
顔も身体も搔きむしってしまい、赤くなり、熱をもって火照る。
その上に吐き気がこみあげて、ルオーはしゃがみ込んでしまった。
かゆい。熱い。苦しい。
「・・・苦しい・・・助けて・・・誰か、助けて・・・」
贅をつくした広大なロードリアスの王宮。
遥かな山並みまで続く原始林を背景に、そびえ立つ白亜の竜王神殿。
だが、そこで暮らす人々は一人として、八歳の少年がたった一人で苦しんでいるのに気付く事はなかった。
「第一王子は見込みがない」
誰もが、そう思っていた。
「あの病弱な体では、成人するまで生きられないだろう」
そう思われるのも、当然の外観だった。
今年で八歳になるのだが、痩せこけた小さな体は五、六歳にしか見えない。
淡い水色の眼と色褪せた白っぽい金髪が弱々しさを強調し、過敏な薄い肌はいつも、入浴係りの女官も触れるのを嫌がるほどの、ただれか発疹に覆われている。
式典のたび、人々が国王の横に見るのは、略式の冠の重みに耐えかねてか細い首をうなだれ、豪華な椅子に埋もれるように座って、辛そうに体を掻いている弱々しい少年。
いつも儀式の途中で真っ青になって、慌ただしく女官に連れ去られる、皇太子の姿なのだった。
母の王妃かその親族が生きていたら、少しは状況が違っていただろう。
だが母グウェンダリナ王妃は産褥でルオーの顔を見る事も無く世を去り、北方のシンリエンとロードリアスの間に位置する王妃の祖国は、同じ頃大規模な内乱の末、王妃の一族をことごとく抹殺していた。
だが、後ろ盾を失った王妃が既にこの世を去っていた事は、ルオーにとって幸いだったかもしれない。
冷酷なロードリアス国王は、次の同盟を結ぶため、新たな王妃を迎えるためには、価値のなくなった現王妃を暗殺しかねない男であった。
王妃が亡くなったがために、ルオーは大国シンリエンを牽制するための駒として、そのまま第一王子の地位に置かれた。年上の妾腹の兄たちや、南国出身の現王妃の息子たちがいるにもかかわらず、廃嫡されることなく皇太子になっているのだ。
成人出来るまで生きていそうもない、名ばかりの皇太子に。
現王妃の不興を買ってまで親族のないルオーの後ろ盾になろうとする貴族はいなかったので、亡き王妃の乳母だった老アンナが死んでからは、ルオーはずっと宮殿の片隅で、小さくなって生きて来たのだった。
吐き気が少しおさまり、草むらに突っ伏したルオーの耳に、通り過ぎていく人々の話し声が届く。
林の向こうを、職人たちが、陽気にざわめきながら通っていく。六年後の竜王祭に向けて神殿の一部が改築されるのだ。
「竜王祭か・・・」
ルオーはつぶやいた。
ロードリアスの守護聖獣。
金色の巨大な竜が目覚め、神殿裏の岩窟から出現するのだという。それから百年間、王国は竜王の庇護の下に置かれるのだ。
それは様々な魔獣が現れて国境を侵す時期であり、竜王に仕える大神官の権力が、国王を凌ぐ時期でもあった。
(竜王様って、どんな御姿をしているんだろう)
ルオーは期待してわくわくする。
神殿の壁画や城のタペストリーなどで竜の姿形は知っていても、本物の竜に会うのはすごい体験に違いない。
だって、伝説によれば、ルオーたちロードリアス王家の人間には、その竜の血が流れているのだ。
ロードリアスの王女と結婚し、この国の基礎を築いた、竜王様の血が。
六年先が遥か彼方に思える八歳の子供にとっては、百年の眠りと目覚めなどと言われても、見当もつかない長さであった。
わかっているのはこれから記念行事や式典が山ほど続き、皇太子として長時間固い椅子に座り続ける、拷問のような時が多くなるという事。
思っただけで吐き気がこみあげて、ルオーは長いため息をついた。