9 早すぎる目覚め
9 早すぎる目覚め
セネカは腹立たし気に頭をふった。
「なぜこういう記録をちゃんと管理しておいてくれなかったのか。
古文書館にあるのは、ほんの断片にすぎません。
最初の上陸からの一貫した記録は皆無なのです」
「百年ごとの活動期に、ほとんどが散逸してしまったのだ」
竜王が答える。
「人間は何度も絶滅寸前に追い込まれている。過去の記録の保持よりも、命を優先するさ」
「絶滅・・・とおっしゃいましたか?」
セネカは仰天した。
竜王はゆっくりとうなずく。
「我等この世界の生き物は、百年の活動期と百年の休息期という大きなサイクルを生きている。
人が繁栄出来るのは、我等が眠りについている百年間のみ。
活動期になれば、押し寄せる巨大な獣たちの前に、人はなすすべもなく逃げ惑うのみとなる。
六年後、我等皆が目覚めてから後は」
卓上の古地図に手をのばす。
「シンリエンは生き延びるだろう。あの貧しく寒冷な山岳地帯は、我等にとって魅力がないからだ。
ロードリアスは」
地図の中央を、長いしなやかな指がたどる。
「私が眠りについている間に、南に領土を広げすぎた。
私の領土から外れた部分、この大河より南と、その南の新興諸国は、この先百年のうちに滅亡する」
「それは・・・人の住む国土のほとんど半分と・・・」
セネカの声は震えた。
「それ以上だろうな。この国も無事には済まぬ。
最強の竜である私に挑戦し、領土を奪おうとするものが相次ぐ。飢えた獣たちが恐れを忘れて押し寄せて来る。
気温は上昇し、植物は繁茂する。我等は飢えを満たし、繁殖し、生を謳歌する。
百年の活動期とはそういうものだ。
人間が曲がりなりにも暮らしを営めるのは貧しい北と、このロードリアスの国内だけとなる。
この世は竜と魔獣のもの。
人間はこの世界の異端なのだ」
人々を襲う、魔獣の群れ。
城の壁を飾るタペストリーに描かれた惨劇を、ルオーはありありと思い浮かべる。
牙を剥きだす小山のような怪物たち。
先頭の何匹かは人間をくわえ、大きな爪で馬を引き裂いている。
魔獣に追われ、鋤を鍬を投げ出して、城に逃げ込む農民たち。
城の中庭に集まり、剣を掲げる兵士たち。
城の塔には白い服の姫が祈るように両手を上げている。
姫の上に、城全体を包むように巨大な翼を拡げた竜が金糸を使って豪華に縫い取られている。
稲妻が煌めく暗い空を背景に、額の竜印と両の眼に鳩の卵ほどもある宝石を嵌め込み、様式化された金糸刺繍の鱗で身を飾った竜が、押し寄せる魔獣を睨みつけ、城にちかづけさせない。
『ロードリアスを守護する竜王』の図。
百年以上も前に、リカルド豪胆王の妃アリスが十二人の女官と三年がかりで作り上げた大作だ。
小さな頃から、怖いけれど大好きだった、このタペストリーの主人公が、いま、目の前にいるこの人なのだ。
しばらくためらってから、セネカが尋ねた。
「お尋ねしてもよろしいでしょうか。
竜王祭は六年も先のはず。
なぜ、あなたはこれほど早くお目覚めになったのです?」
「六年待っていては間に合わぬからな」
竜王の意識が自分のほうに向いたのを感じて、ルオーははっとして顔を上げた。
「覚醒前の数年は次第に眠りが浅くなり、あたりの状況がわかって来る。
肉体は眠ったままで、意識を飛ばしてあたりを調べるものもいる。
浅くなった眠りの中で、私は声を聞いたのだ」
眠りの中に忍び込んできた、澄んだ、か細い、助けを呼ぶ声。
竜王はルオーに微笑みかける。
「おまえの声が、聞こえたのだよ」
ルオーはためらった。
そんなこと・・・そんなことが・・・。
あの時、初めて会った時、竜王は何と言われた?
『もう、泣くな』と。『もう・・・泣くな・・・』
「僕が・・・泣いているのを聞いて・・・来て下さった?・・・」
竜王は微笑んだまま軽くうなずいた。
本を取り落し、ルオーは呆然とする。
(僕が・・・竜王様を目覚めさせてしまった・・・?)
大変な事をしてしまった。
沸き上がる巨大な罪悪感。
さらりと言った竜王の言葉が、不思議なほどの恐怖と不安を呼ぶ。
こんな、僕なんかのために・・・。
その晩、ルオーはひさしぶりに熱を出した。
うなされ、寝苦しく眼を開ける。
枕元の大きな人影。竜王が見守ってくれている。
「どうだ?」
額にあてられる、ひんやりとした大きな手。
金色の雲がルオーを包む。
だが、それが、今は苦しい。どうしたらいいのだろう。
罪悪感で息が詰まる。
僕のために、僕なんかのために、金の竜王様が目覚めてしまったなんて・・・。
少年の自己嫌悪が、八年の間心に刻みつけられた自己否定が、竜王には理解できない。
自分の存在が、この子を傷つけ、苦しめている。
感じるのは、それだけ。
少年に触れた手を引き、美しい眉をひそめて、竜王は困惑する。
「どうしたのだ、ルオー」
竜王の心を傷つけたことに気づき、ルオーはますます自己否定の泥沼にはまってしまう。
涙があふれ、泣き出すと、もう止まらない。
何百年の齢を重ねた竜王は、八歳の少年を慰めるすべを知らず、呆然と立ち尽くすばかり。
替えの敷布を手に入って来たエラが、驚いて駆け寄る。
ルオーは娘にしがみつき、わっと泣き出してしまった。
「エラ・・・エラ!」
「泣かないで、落ち着いて、王子様。
熱が上がって、苦しくなりますから」
優しい竜王の心を傷つけてしまった。その誤解を解かなくては。
焦るルオーは、なおさら咳き込み、しゃくりあげ、興奮しすぎて吐いてしまう。
パタパタと始末に駆け回るエラに王子を任せて、竜王は暗澹たる気持ちを抱えて部屋を出て行く。
階下の部屋は暗く、わずかな月明りだけが窓から差し込んでいる。
夜目の効く竜王は昼間と変わりなく静かに動いて、棚からワインの瓶を取り上げた。
まだ休息期にある今、食事をとる必要はないのだが、人間の作り出したものの中で唯一気に入ったワインだけは別だった。
だがなぜか今夜は、苦みばかりが口に残る。
竜王シルヴァーンは深く息をつき、片手で眼を覆った。
(何なのだ、この苛立ちは)
一心にまとわりついて来た子供が、私を拒否すると思っただけで・・・。
(私があの子を選んだのは・・・)
ただ、聞いていられなかったからだ。
ただ一人苦しんで泣いている、か細い声を・・・。
溺れかけた仔猫を爪先で掬い上げるように、手を出してしまっただけなのに。
ただ、それだけなのに。
なぜ、これほど心を乱されるのか。
目と鼻を真っ赤にしたルオーは、まだしゃくりあげていた。大粒の涙があふれて止まらない。
「どうして・・・どうして・・・竜王様は、僕なんかを助けて下さるの?
どうして、僕なんかを『黄金のハート』にて下さったの?
僕は何にもできないのに。こんなに弱くて、意気地なしで、駄目な子なのに・・・僕なんかを・・・どうして・・・?」
同じような言葉を、昔、聞いた事があった、とエラは思い出した。
四年前の、ひどい飢饉の冬。
『僕なんかに・・・もう僕なんかにお金使わないで・・・』
病の床で、無駄な浪費はするなと言って、火が消えるように死んでいった小さな弟。
悲しいあきらめと自己否定。
状況はちがうけれど、小さな王子の不安がなんとなくわかったような気がした。
愛されたことのない見捨てられた子供は、竜王の与えるものの大きさに怯え、動く事ができないほど萎縮してしまっているのだ。
お前のような者を『黄金のハート』にしたのは、やはり間違いだったと言われるかもしれない。
やはりだめな奴だったと、放り出されるかもしれない。
その恐怖に縛られて、身動きも出来ないのだ。
燭台を手にエラが下に降りていくと、竜王は憮然とした顔でワインをあけていた。
卓上の空瓶を見れば、大人の三人はひっくり返りそうな量だ。
「落ち着かれましたわ。
・・・王子は・・・怖がっておいでなのです」
「怖い?この私が恐ろしいと?」
良く響く深い声が少し割れて、傷ついた心を娘に悟らせてしまう。
エラははっきりと否定した。
「いいえ。
ご自分が、怖いのです」
手負いの虎のようなびりびりした気にもひるむことなく、娘は竜王の前にひざまずく。
改めて感じる、ひれ伏してしまいそうな圧倒的な力。
それなのに、これほど傷つきやすい心を持つ竜王。
エラはいままでの甘い憧れではなく、心から竜王を愛しいと思った。
どうか・・・どうかわかってほしい・・・。
「王子は・・・あの方は・・・いままで誰かに愛されたことが無いのです・・・。
何か価値が無ければ愛されないと・・・貴方に愛される資格がないと、思い込んでいらっしゃるんです」
竜王は吐き出すように言った。
「価値だと!資格だと!馬鹿な。
たかが人間の価値など、竜にとって何だというのだ」
エラは深く身を屈める。
「お願いです、王子におっしゃってください。
弱くて役に立たぬと、どうせ早く死ぬからと、見捨てられてきたあの方は、ご自分にまったく自身が持てないのです。
愛されない子ほど不幸なものはありません。
どうか、王子を救ってあげて・・・」
「だが・・・」
竜王のためらいを聞いて、エラはきっと顔を上げた。
(なぜ、わかってくれないの!)
口に出そうとしたエラは、異質な美を湛えた竜王の、困惑しきった表情に気付く。
「だが・・・どうしたらいいのだ・・・」
竜王シルヴァーン、ロードリアスの守護聖獣が困り果てている。
「泣いて私を拒む子を・・・どうしたらいいのだ?」
エラは笑った。
ロードリアスの偉大な守護者の向かって、くすくすと嬉しそうに笑った。
「簡単な事です。竜王様。
ただ抱きしめて、大丈夫だよって、言ってあげてください。
大丈夫、大好きだよって。それだけでいいんですわ」
その笑い声が、竜王の心の何かに触れた。




