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学校に行くのは面倒だったが、補習がないと思えば随分と気が楽だった。
夏の日差しはやはり暑かったが、補習がないと思えば随分と晴れやかに感じた。
今頃はあいつも、学校にいるのだろうか――そんなことを思う。
俺は現代文という数ある教科のうちの一つしか単位を落としていない。ゆえに、今日は補習がないという日が生まれるわけだが、彼女、白河さんの場合はそうもいかない。全教科の単位を落としている彼女に休みなどあるはずがない。少なくとも、妙に厳しいうちの学校ではそうなのだ。テストのある十教科の全てを落としているのだから単純な話、彼女は俺の十倍は学校にいなくてはならないことになる。
『おまえはまだ現代文だけなんだからマシな方だよ』
奥村の言葉を思い出す。おそらくそれは彼女と比較しての言葉なんだろう。そりゃあ、彼女に比べれば随分と自分は楽なんだと思う。
『褒めはしないがな』
ついでのようにその後に続く言葉がやってくる。それも、そのとおりだ。
「分かってんだけどなあ」
それでも補習に行くことに対して面倒だと、意味があるのかと思ってしまう自分はやはり、少し天邪鬼なのかもしれない。
図書室の前で立ち止まり、深呼吸をする。
司書が不在というのは電話の彼女に聞いたものの、それでも返却期間がかなり過ぎた(あの後、例の本を確認したところ二ヶ月ほど過ぎていた)本を返すというのはそれだけでかなりのストレスを俺に与えた。
カバンに入っている例の本を見やる。よし、たしかに持ってきた。ここで目的のものを忘れたとなると、それこそ、もう学校に行く気がなくすというものだ。今日、返さないと俺はきっとそのまま記憶をはるか彼方に忘却してしまう。そうなると困るのは彼女だ。そうでなくとも、借りたものは返さなくてはならない――それが世界のルールだろう。
とりあえず、謝ろう。
それから彼女に、お礼を言おう。
きっとそれで、全て丸く収まる。
「し、失礼します……」
おそるおそる、その空間に足を踏み入れる。
本来、図書室に入るのにそんな言葉は必要ないのだが今の立場上、そう言わざるをえない。少なくとも、申し訳なさと気まずさを織り交ぜた空気を漂わせるのが吉、というものだろう。
酸化する紙によるものなのか、あるいは湿気によってわずかにカビ臭くなっているためなのか――理由は分からないがそんな、本特有の匂いが鼻腔を刺激した。
少し、懐かしいと感傷に浸ってしまう。そういえば二ヶ月ほど前にこの本を借りたきり、ここには足を運んでいなかった。というのも、新しくリニューアルされた近所の図書館の方が使い勝手がよく、自然とそちらに流れていってしまったのだ。だから、この本の存在も忘れてしまっていたのかもしれない。
蔵書数は近所の図書館の方がよっぽど多いはずだ。だからこそ、俺はそちらに流れてしまったというのもある。
しかし、なぜだろう。
こちらの方がどうも、落ち着く。
あれほど心の中で絡まっていた妙な懸念、緊張がほどけていくようだった。
今ならなんとなく分かる。
俺は学校という場所が嫌いだ。
だけど、この空間はなんとなく普通の、自分が生きている世界とは一線を画すようで好きだった。
本はどこでも読めるが、物語を行き来するにはこの世界は少々、雑音が多い。
そんな中で、この静かで自分にとって落ち着く場所があるというのは何よりも幸福なことなのかもしれない。
長いようで短い本の道を抜けると、そこには一人の少女がいた。
彼女はひとり、本を持ち、その世界とリンクしていた。
その瞳に俺は映ってはいない。
彼女にとって今、触れている世界に俺はいない。
「こんにちは」
邪魔をしては悪いと思ったが本を返却するのには司書、または図書委員の生徒が必須なので非情ながら声をかける。なぜ必要か――それは単純な話で、図書室にあるパソコンで本の貸し借りは管理してあるのだが、それは関係のない生徒が触れてはいけないからだ。「元」図書委員の俺はそこには該当しないのである。それに、もう一つの目的でもある彼女に対しての謝罪と感謝を遂行するにはこれが一番の方法だと思ったのだ。
ややあって彼女がこちらを向く。
彼女の俺を見る目は、楽しんでいたのに急に現実に引き戻した悪漢を見るようなものではなく、ただただ状況が理解できていないといったものだった。だから彼女は俺を見ると開口一番、
「あなたは誰ですか?」
と、怪訝そうに首をかしげて言った。
「こんな時に図書室に来る奴なんて三種類しかいないだろう。一つは勉強しにきた奴。もう二つは本を借りにきた奴と返しにきた奴だ」
彼女がうなづく。
「それもそうでした。して、あなたはその三つのうちのどれに該当するのでしょうか」
「最後の返しにきた奴だな。おまえが返しに来いって言ったんだろう?」
年下に対して二人称を「おまえ」にするのは別にいいのだろうか。いや、初対面の相手に対してはやはり、失礼か――親しみを覚えるその姿に、俺はどう対応したらいいのか分からなかった。同年代の読書家に出会うことは少ない。……そういう問題でもないかもしれないが。
「はい、たしかに私はとある人に電話をしました。とするとあなたが飯田先輩ですか? 三年の」
「そういうことになるな」
「そうですか。今日は私のために来ていただきありがとうございます」
彼女が深く、頭を下げる。なんだか電話のときと少し印象が違う。声色だけではその人柄までは判断できないものだ、と妙な納得が生まれた。
「いやいや、お礼を言うのも謝罪をするのも全部こちらの方だ。返すのが遅れた。迷惑をかけた。本当にごめん」
こちらも頭を下げる。
「や、やめてください! 私、一年ですから、後輩ですから!」
彼女があわあわと過剰に反応する。どうやら、自分の予想だにしていないことに対応するのが苦手らしい。
頭を上げて彼女を見やると、彼女は赤面していて少し汗をかいていた。少しかわいいと思ってしまう。
彼女は何度か深呼吸をして顔色を整えているようだった。正直、これは何の間だと思ってしまったが口に出すわけにもいかないので待ってやる。
「……コホン! すみません、少々取り乱しました」
「少々ではなかったような気もするがな」
「私にとっては少々です。私の本気の取り乱しをなめないでください」
「いや、それは知らないけども……」
これ以上の取り乱しというのが何なのかもいまいちピンとこない。奇声を発したりするのか泣いたりするのか、それとも一周回って歌ったり踊ったりしてしまうのか――後者の方なら少し見てみたい気もしなくもない。
「今、何を読んでいたんだ?」
「やっぱり気になりますか?」
「そうだな……やっぱりイチ読書家としては他人が読んでいる本は気になるものなんだよ」
自分が好きなことと同じことをしている人を見ると気になってしまう。それが当然のこととは俺には言えないが、あながち当てはまっている人は多いと思う。好きなことを少なからず共有したがるのは一種の人間の性だといえる。これも、人によって分かれることだろうが。
「そういうものなんですか」
「そういうものなんだよ。いや、言いたくないならそれはそれで別にいいんだけどさ」
俺だってタイトルや内容について説明したくない本の一冊や二冊くらい、ある。俺の場合はたいがい、男と女が深く結ばれたり、それゆえにあんなことになったりそんなことになったりする……いわゆる官能小説が多いのだが。しかし、ここの、学校の図書館にそんなものが置いてあるだろうか?
「なにか失礼なことを考えていませんか?」
「いやいや、失礼なことでもないと思う。だから恥じる必要もない。高校生にもなればごく普通のことだともいえる」
「その考えが失礼だと言っているんです。私が何を読んでいたと思っているんですか……」
「ナニをしている小説じゃないのか?」
「……先輩、セクハラっていう言葉知ってます?」
彼女が頬を赤らめてジト目でこちらを見つめてくる。どうやら本当にそういう小説ではないらしい。案外、面白い作品もあるのだが――思春期というのは意味のない偏見というやつが増えるきらいがある。
「怒らせてしまったのなら謝るよ。どうやら俺の勘違いらしい」
「そうですよ。まったく……男の子はいつもそういうことを考えているものなんですか」
「どうなんだろうなあ。少なくとも俺はそういう目で人を見ることはあるけど」
「今、私の中で先輩の株価が少し下がりました」
「不安定な経済だな。そんなことでいちいち反応しているとこの先もたねーぞ」
「……それは、どういう意味ですか?」
彼女が真顔になる。どうやら核心を突いてしまったらしい。あまり触れてはいけない、繊細な陶器でお手玉をするような行為だとは分かっているがここで引くわけにもいかない。図書委員の悩みを聞くことができるのは同じ図書委員とその心から信用できる友達だけなのだから。
「おまえがどういう経緯で図書委員になったのかは知らないけどあまり気にするなって意味だよ」
「私にどんな物語があったと思っているんですか。そんなこと誰にも分からないですよ」
彼女がわずかに目をそらす。分かりやすい娘だ。
「少なくとも想像したりするくらいには、な。読書好きは妄想とかそういうのが好きなんだよ」
それこそ、偏見というやつなのかもしれない。しかし、小説、漫画、どちらでもいい。知らないよりは知っている方がその人の見る世界は鮮明で広く、深くなる。それは他人の世界にまで等しく干渉したり、広がったりする。
人間は少なからずその人独自の世界をもっている。
人間は互いにその自分の世界をこすり合わせて生きている。
それは混ざり合って溶け合って――そうして一つの世界をつくっている。
「で、やっぱり何かあったのか?」
彼女はわずかに唇をかみしめる。
「……なくは……ないです。けれど、今はいいです。そしてこれからもいいです」
そう言った。小さな声で。まるで腹話術のように。唇をかみしめたまま。
「そうか」
おそらく、いや、絶対にそんなことはないというのは明らかであるがそこを指摘してはいけないような気がした。少なくとも、今は。
「おまえ、ラインとかやってる?」
最近のSNSはすごいと思う。今のコミュニケーションはメールでのやり取りよりもそちらの方が主流になりつつある、と思う。
「はい、まあ、一応は」
彼女はカバンからスマートフォンを取り出す。ピンクのハードカバーに女の子らしさを感じた。
「ライン、交換してもいいか?」
彼女はうなずくと、自身の連絡先を集約したQRコードをこちらに提示する。俺がそれを撮影すると彼女のアイコンがこちらのスマートフォンに映し出された。ちなみに、アイコンは自分が飼っているのであろう――猫の写真だった。ついでにいうならばアメリカンショートヘアーである。
「葉渡唯音……」
表示された彼女の名前を半無意識的に読み上げてしまう。
「良い名前だな」
これも、ほぼ無意識に呟いた言葉であるが嘘は言っていない。無意識に本心で思ったうえでの言葉である。
「そう言われるとなんだか照れてしまいますね。でも人間、等しく名前には何かしらの意味があるものだと思いますよ。それこそ、物語のような」
「そういうものか」
「そういうものなんです」
彼女、もとい葉渡がウンウンとうなずきながら言う。
昔、たしか小学生低学年くらいだった気がする――ふと気になったので自身の名前について聞いたことがある。そのときは、「飯田奏斗って響きが綺麗でしょう?」といったようなことを言われた気がする。それが実はただの照れ隠しというやつで、本当はもっと深い意味があったということなのか。今となっては特に気になることでもないのだけど。
「たとえばこの新子八雲の『ノーネームの犠牲譚』なんかは名前の意味について深く考えさせられます」
葉渡がドヤ顔で先程まで読んでいたのであろう本を見せびらかしてくる。その目元はこれまでで一番きれいに輝いていて、よっぽどその本が面白いのだろうということが容易に理解することができた。
もちろん、知っている。知らないはずがない。
『ノーネームの犠牲譚』は新子八雲のデビュー七作目の作品である。
≪真の名≫と呼ばれる普段使っている名前とは別の名前を詠唱することで魔法が使える世界で、ノーネーム、つまり名無しの主人公が自身の≪真の名≫を探す物語だ。
読み手自身もかなり考えさせられる物語である。自分の名前が当たり前のように存在するこの世界なら特に。ここでこの物語を例に挙げるとはセンスがいいと言わざるを得ない。言われるまで忘れてはいたが。
「特に最後の決戦の前にヒロインから新しく名前をつけられるとこなんか特にいいです。感動で涙なしには読むことができません。横にティッシュの箱かタオルを置いておくことをおすすめします」
「それはいわゆるネタバレというやつじゃあないか?」
そう言うと葉渡がしまったと苦そうな表情をした。
「……またやってしまいました。いつも私はこうです。興奮するとまわりが見えなくなってしまいいつも迷惑を……」
葉渡が少し泣きそうな顔をして呟く。この程度のことでこのような表情をするということは彼女にとってはそれだけ重要な問題ということなのだろう。そう思うとこの程度、と表現したのはいささか早計だったかもしれない。
すみません、と葉渡は頭を下げる。たしかに、そう言うしかないかもしれないが、少し気にしすぎではないだろうか。
「いや、別に謝る必要はないよ。少なくとも、俺はその本読んだことあるし!」
なぜか彼女に対して気をつかうような発言になってしまったのは否めない。が、俺もそう言うしかなかった。その言葉しか思いつかなかった。
案の定、葉渡はバツの悪そうな顔をしていた。少し、口角は上がっているものの笑ってはいない。人は自分がどういう表情をしたらいいかが分からないとき、いつもこのような表情をする。もちろん、俺も同じ。
「じゃ、じゃあ一つ俺の頼みを聞いてくれない?」
「頼み……ですか?」
これは葉渡の罪(彼女にとっては、だが)に罰という名でつけ込む行為なのかもしれない。しかし、今の彼女にとってはこうしてあげるのが最善の選択だと思えた。葉渡の表情が少し晴れやかになる。
「な、なんでもおっしゃってください! どんなことでも、可能な限り全力を尽くす所存です!」
「顔近いって! 分かったから。おまえの気合いはすでに十分すぎるほどに伝わっているから!」
女の子にここまで近づかれたことは未だかつてなかったので戸惑ってしまう。もう一歩踏み出せばキスまで可能圏内である。さすがにこの状況で一発かましてやるほど俺は馬鹿ではないし――そもそもそんな度胸、一つもない。
「新子八雲を知っているんだよな?」
とりあえず、俺はそう切り出す。
「はい、まあ、一応は。この『ノーネームの犠牲譚』が初めて読んだこの人の作品ですけど……それでもすごく有名な作家ではありますから」
「『絵を置く旅人』ってここに置いてる? その作家のデビュー作なんだけど」
「デビュー作ですか……もちろん聞いたことはありますが私の頭からは蔵書しているかまでは。ちょっと待ってくださいね。一分、いや四十秒あればなんとかなりますから」
そう言って葉渡はダッシュで正面にあるこの図書室のデータを管理しているパソコンへと向かう。たしかに、あれなら書籍名を打ち込むだけで調べることができる。それはともかく、図書室での走っての移動は禁止事項である。まあ、それを言うなら俺たち二人以外は誰もいないのだから特に問題はないが――図書室での会話も禁止である。
葉渡がこちらにもどってくる。その表情には少し影があり、それだけで結果がどうであるのかはすぐに理解できた。目は口程に物を言う、とはこのことである。
「すみません、力及ばず、です……」
うなだれる葉渡。もちろん、この事案において彼女の力はまったくもって無関係である。ゆえに彼女が自身を責める必要性はどこにもない。
「それでいいよ。ミッションクリア、だ。俺は本が存在しているか否かを知りたかっただけで本を借りたかったわけじゃないし」
「そう言っていただけるとありがたいです。……でもなんだか不完全燃焼です」
「そんなことはない。俺の親友ならきっとこう言うぜ? 『何言ってんだ、親友だろう?』ってさ」
「良いご友人ですね」
「だろう?」
俺は思わずはにかんでしまう。親友を褒められて嬉しくないはずがない。
「と、すると私たちは親友ということになるのですか?」
彼女が怪訝そうに首をかしげる。
「どうなんだろうなあ……あまり親友の定義って分からないけど友達なのは間違いないんじゃないか?」
つい、疑問形になってしまったのはその友達の定義というやつも俺にはよく分からないからである。
「友達……友達、ですか。やはりいい響きですね。三年ぶりくらいに聞きました、その言葉」
彼女が嬉しそうに、しかし照れくさいのか少しうつむいて、笑う。流れで言ってしまったが俺自身、しばらく友達という言葉には疎遠だったのでなんだか嬉しい気分になった。そして、彼女と同じように少し、照れくさかった。
「じゃあ、要件も済んだことだし俺は帰ることにするよ」
「あ、はい。お、おつかれさまです?」
なんて言えばいいのか分からなかったのか葉渡の語尾がわずかに疑問形になっていた。面白い。
俺が図書室の扉を閉めるまで、葉渡はこちらを見つめていた。まだ陽は落ちておらず、こちらを照らす夕日がいつもより眩しく思えた。