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電話の着信音が家に鳴り響いたのは正午を過ぎたころだった。
突然、リビングに置いてある固定電話が騒ぎ出した――いつもなら無視するのだが、というよりいつもなら家にいる誰かが(九割がた母親が)出てくれるのだが生憎、今日はパートで出勤中だった。父親は無論、仕事である。最近は主夫という言葉があるくらい女性の社会進出が著しく、反対に男性の家庭進出もさほど珍しくないという話を聞いたことがあるが、うちはそうではなかった。父は証券会社の営業として、母はこうしてスーパーのおばちゃんとして働いている。
ちなみに兄弟はいない。昔、事故で弟を亡くしているとか、そんなことでもない。生まれた時から一人っ子なのでどちらかといえば兄弟がいる人をうらやましく思っていた質だ。
たとえば、現在中学三年になった花山の妹の愛乃が兄のことを「おにいちゃん」なんて呼ぶのを聞くと、なんだか理由もなく微笑ましい気持ちになったりする。変な意味ではなく、純粋に自分にとって見慣れない光景を見るのは新鮮だった。今となっては、別に特別、兄弟が欲しいとは思わないが兄弟がいるのといないのとではやっぱり何かが違うのだろうとは思う。
俺は昼食を食べるのを中断して、受話器へと向かう。
ちなみに、今日の献立はインスタントラーメンである。それだけなので献立と呼べるのか、呼んでいいのかは分からない――ただ二度寝の後で何かを作るのが面倒だったから目の前にあったそれに湯を入れた、というだけの話だ。
「はい、飯田です」
『あ、もしもし! そちらは飯田さんのお宅で間違いなかったでしょうか⁉』
「いや……はい、そうですけど」
だからそう言ってるだろ、と突っ込みたい気持ちを抑えつつ返答する。
電話をかけてきた相手の声は振り返るまでもなく女性のそれだった。
『ええっとですね、その……あれですよ、本です! あなたの本です!』
急に電話をかけてきて何を言うかと思えば……意味が分からない。
「ええっと、すみません。よく聞こえなかったんでもう一度おっしゃっていただいてもよろしいですか?」
『あなたが本です!』
「いや、さっきと変わっていますし……より、意味が分からなくなりました」
『なっ! 聞こえているじゃないですか! ……うう、ひどいです。非人道的です。非道徳的です』
「随分とひどい言われようですね。あなたの言葉で私もひどく傷つきました」
『じゃあ、おたがいさまですね!』
「いや、そういう問題じゃないでしょう……」
一体、何が言いたいんだ。
『これをおたがいさまと言わずして何がおたがいさまですか。……ハッ! まさかわざとそう言わせるように誘導を⁉ 尋問ですか、洗脳ですか、詐欺ですか⁉ 私は騙されたんですか⁉』
「面倒な人だなあ……」
すぐにしまったと思い、手で口をふさぐ。初対面(対面はしていないが)の相手に対しての発言ではなかっただろう。
「いや、すみません……」
『いや、いいんです。本当にいいんです……どうせ、私は面倒です。ええ、ええ、分かっていますとも、分かっていましたとも』
乾いた笑い声が受話器越しに聞こえる。感情を意図的に消し去っているときの人の反応だ。本当に申し訳ない。本当に俺が悪いのか、その疑問だけは拭いきれない部分があるが。
「…………」
『クラスの人たちにもよく言われるんです。おまえは面倒だって、なんでそこまでテンパるんだって、そんなに私たちのことが嫌いなのって。私はそんなつもりないのに……そんなこと思ったこともないのに……』
「いや、ほんと、すみませんでしたって」
『最初は、少なくとも小学生の頃はこんなんじゃなくて、もっとフレンドリー、友達もたくさんいました……そう、中学生になる前に父親の転勤が決まるまでは』
「あ、あの……」
聞いてもいないのにベラベラと自分のことを語り始める彼女に、かける言葉も見つからない。どう反応しろというのだ。
『それまでの友達との別れ、何のボケもかましていないのに関西弁というだけでツッコミ、孤立、スクールカースト……社会は怖い。世界は敵ばかり』
「聞いてねえよ⁉ いや、違う、すみません! そういうことじゃなくて! 待って、そんな泣きそうな声にならないでください!」
少しずつ彼女の声色が暗くなっていき、うわずっていくのが本当にいたたまれないのでとめる。
『すみません……やっぱり面倒でしたよね。気持ち悪かったですよね』
「いや、だからそうじゃなくて。なんかうまく言えないですけどそれ以上は……電話でするような話でもないでしょう」
『…………』
彼女が黙る。わずかにスンと鼻をすする音が聞こえてきた。本当に泣かせてしまうところだったらしい。途中でとめるのは俺だけでなく、彼女にとっても正解だったようだ。
『……たしかに、そのとおりです』
「それにまさかこんなことを話すためにわざわざ電話してきたわけでもないでしょうし」
こんなこと。
彼女にとってはこんなことではないのだろう。学校で自分がどう見られているのかはある意味、勉強や運動よりもよっぽど重要なことであるといえる。学校という存在が勉強や運動をやたら重要視するのはそのためでもあるのだ。
勉強や運動ができた方がよく見られる。
それが学校でという意味なのか、その先の社会を見据えての意味なのか――おそらく、どちらも正解なのだろう。
『勉強しない奴は卒業すらできないんだよ』
補習を告げられた時に奥村が言っていた言葉を思い出す。
それは学校で(あるいは社会で)よく見られない奴は卒業、学校という枠組みから外に出すことはできない、ということなのか。考えれば考えるほど分からない、答えのでないようなことが最近、増えたような気がする。
これが大人になるということなのだろうか――それさえも答えが出ることはないのだ。
まるで、現代文の補習のようだ。
『……さん。飯田さん!』
そこでハッと我に返る。声の大きさは変わらないが語調をわずかに強めている。
「すみません、少し考えごとをしていました」
彼女がため息をつく。
『まったく、最初にお見苦しい姿を見せてしまったのは私ですけど、それとこれとは別問題ですよ』
返す言葉もない。電話中に考え事など相手に失礼というものだ。それでも、分かっていてもよくやってしまうのだから困ったものだ。
「すみません、もう一度お願いします」
『落ち着きましたか?』
それはこちらが聞きたい、という言葉はのみこんだ。
『では本題に入ります。随分ここまで遠回りをしてしまいましたがここからがいわゆる要件というやつです』
「はい」
『あなたが借りた本を返してください』
「落ち着いたら随分分かりやすくなりましたね」
比較対象は言うまでもなく『あなたが本です!』と初めて電話をかけてきた相手に人間であることを否定されたときである。
『ムッ、ひやかさないでください。言葉を間違ったわけではないんですよ?』
「というと?」
『あなたが本です、と言った時です。あなたは意味が分からないと言いましたがあれはちゃんと要件になっていなくもなかった、少なくともヒント的なものにはなっていたと確信しています』
要件を伝えるのにヒントという概念を登場させる点については深く考えないことにする。
『己が何々っていう表現がありますよね。あれは連体格としてなら自分自身のって意味なんですよ』
「はあ……」
『つまりはあなたが本というのはあなたの本という意味ということに』
「思いっきりこじ付けにしか聞こえないんですけど」
それに、あなたの本ともその前に言っていたような気がする。
『そ、そんなことないです! 図書委員をなめないでください!』
「いや、別になめてはいないですけど……すると、あれですか。あなたは学校の図書委員で俺が借りたまま返却していない本を取り戻しに電話をかけてきたと、そういうことですね」
『そうです、そうなんです!』
「じゃあ、俺はそっちに本を返しに行ったらいいと」
『理解力が高くて助かります。実は委員で図書室の本を全て整理することになりまして、まだ返却されていない本を集めている、という次第です』
「なるほど」
もう、そんな時期かと思う。
うちの学校の図書室は司書が厳しいためかいつも本が綺麗にタイトル順、作家順に並べられている。それは図書委員の普段のたゆまぬ働きによって成り立っているのだ。ゆえに、というべきかいつも忙しい図書委員は生徒のあいだで最も人気のない委員会活動として認識されている。逆に図書室を利用する生徒、特に俺のようなヘビーユーザーにとっては嬉しいことこのうえないのだが。
人気のない図書委員は人気のない人の担当になる。
それが、まるで古くからのしきたりのように継承されている大陽高校の暗黙の了解であった。なぜ、そんなことを知っているのか。それは単純にして明解――俺自身が一年二年と図書委員を務めていたからである(ちなみに、三年は受験に集中するため委員会活動は免除されている)。
「すると、おのずと君は俺の後輩になるわけか」
『はい、まあ、そうなります。飯田先輩、ですよね? 三年の』
「じゃあ、敬語はいいか」
『そんなにすぐ口調を変えられると分かっていても動揺しますね』
「そういうものか」
『そういうものなんです。とりあえず、一刻も早く返しに来てくださいね。でないと私が怒られてしまいますので』
「それは由々しき事態だな。たしかにあの司書を怒らせるのは怖い」
それに、返却が遅れた俺も無論、叱られるだろう。これは彼女とは違い、確定事項である。まさか委員会活動が終わってもあの人に叱られる日がくるとは思わなかった。
「怒鳴られると分かっていて学校に行くのは憂鬱だな」
『そ、それなら安心してください。今日は夕方まで私一人ですから!』
よっぽど、司書が怖いのか全力で俺を学校へと誘おうとしてくる。この慌てようだといままでに相当な数のお叱りを受けてきたのだろう。
「分かった、分かったから。……今から向かうよ」
俺のせいで彼女が叱られるのはなんだか忍びない。ただでさえよくみる夢見が悪くなってしまうというものだ。
受話器越しに安心したのか、ホゥ、というため息が聞こえる。
『お、お待ちしております。首をキリンよりも長くして! 忠犬ハチ公のように愛を込めて!』
別に愛は込めなくていいよ、と言って俺は電話を切った。
そういえば、母親以外で女性と電話をしたのは初めてかもしれない。わざわざ、俺に電話をかけてくる人なんていなかったし、たとえいたとしても、俺は電話には出ないので届かない。
もし、俺に電話をかけてきてくれた人がいたのならその人には申し訳のないことをしたと思う。いや、十中八九いなかったとは思うのだが念のため。
面倒だな。たいへんに面倒だ。面倒すぎて死にそうだ。
そう思いつつも俺は後輩のピンチに一肌脱ぐことにした。たとえそれが俺のせいだったとしても、彼女はきっと俺に感謝するのだろう。人間誰しも、なぜかそういうものだ。