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「あら、おはよう……って時間でもないわね。もう午後一時過ぎだからこの場合はこんにちはと言うのが正しいのかもしれないわ」
こんにちは、と彼女は恭しく頭を下げてきた。
礼儀正しいのはたいへん、実にたいへんすばらしいことだとは思うのだが、なぜその言葉を聞くだけでこんなにも疲労感を感じなくてはならないのだと、俺は真剣に抗議したい。
彼女が言ったからなのか――おそらく、いや絶対にそうなのだがそれを認めてしまうのは彼女に対して失礼というものだろう。彼女はただ、同じ現代文の補習仲間に挨拶しただけなのだから。
普通にこんにちは、じゃ駄目なのかと素直に思ってしまう。
それに、である。別にわざわざ言い直さなくとも「おはよう」でも間違いではないし、問題もない。現に芸能界などでは昼夜問わず挨拶は「おはようございます」で統一されているなんて話も聞いたことがある。社会に出ると案外、時間によって挨拶の仕方を変える方がおかしいのかもしれない。
彼女は変わっている。
彼女のことを社会不適合者だとは言わないが、あの妙な頭の固さだと苦労するだろうと、他人の俺が言うのも差し出がましいがそう思った。挨拶の一つでそこまで決めてしまう俺もどうかとは思うが。
「こんにちは、今日も早いんだな」
とりあえず、その挨拶に対して返事をする。無視するわけにもいかない。俺は彼女のことがはっきり言って苦手であるが、仲良くしないといけない立場ではあるのだ。少なくとも、険悪な関係で補習を受けるわけにもいかない。
しかし、返事をしたことをすぐに後悔した。
いや、返事を返すことは当然のことなので一種の不可抗力とも呼べるのだが、その後の一言がまずかったかもしれない。
彼女には最低限以上の言葉は語らない。
それが、今日ここに来る前に俺が自分の中で考えた取り決めだった。また、「言葉に棘がある」などと言われればそれこそ面倒というものだ。棘が刺さってチクチクと痛いのは俺の方である。
「そうね、今日も早かったわね」
教科書を読み返しながら彼女が言う。
それが自分に対して言った言葉なのか、それとも律儀に(当然ではあるが)十分前に教室に来た俺に対して言った言葉なのかは分からなかった。
「おまえは、その、いつ来たんだ?」
ここで会話を終わらすのもなんだかいけない気がしたのでそんなことを聞いてみる。
「そうね、だいたい朝の八時くらいかしら」
「早すぎだろ、と言ってもいいのか?」
朝の八時、それはもはや普通の登校時間である。部活でもあるまいし、夏季休暇中の学生が学校に来る時間ではない。
「どうしてそんなことを聞くの?」
彼女が教科書を閉じ、こちらを向く。その鋭いまなざしに、聞いたことを真剣に後悔した。
「ふ、深い意味はないよ。てか、そんな時間に来たなんて言われたら誰だって驚くだろ、普通」
「……そうかもしれないわね」
「だ、だろ?」
「私がなにも知らずにそんなことを聞いたら最低の嘘つき男と認定してそのまま海に沈めるわ」
「サラッと殺人しちゃってますけど大丈夫なんですかねえ……」
「嘘をつかれるのは嫌いよ。大嫌い」
彼女が唇を噛みしめるように言う。
また、だ。まるでこの話とはまったく関係のない事柄を見つめるように話す。
「で、結局なんでそんな早く来てんだ?」
「そんなの、補習だからに決まっているじゃない」
いや、そりゃあそうなんだろうけども。
「だとしてもいささか早すぎじゃあないかい?」
「私はあなたなんかとは違うのよ」
彼女が吐き捨てるように言う。分かってはいたが随分と辛辣な物言いだ。親の顔が見てみたいというのはこのことを言うのか。一体、俺が何をしたというのだ。
「随分と勉強熱心なんだな。予習復習は大事だって、たしか昨日も先生が言ってたもんなあ」
ムッと彼女は口をとがらせる。
「それは嫌味かしら? でもそれは自分に対して言っていることだっていうのも理解してのことなんでしょうね?」
また始まった。始まってしまった。始まらせてしまった。
「勉強に熱心にならなかった結果がこれよ。今の私たちなのよ」
「……はいはい、そのとおりです。そのとおりですとも」
俺は両手を挙げて、降参の合図をとる。
「……よ」
「ん?」
「だから全教科補習だって言ってんの!」
彼女が怒ったように言う。いや、怒っているわけではないのだろう。心なしか耳や頬が朱に染まっている。
「……なんか、悪かったよ」
同情、というわけではないがその人があまり言いたくないことを言わせてしまったことには申し訳ない、という気持ち以外浮かばない。
そこまで朝早くに登校するのはおそらく、他の教科の補習があるからなのだろう。全教科、テストがあるのは全部で十教科だから彼女はその全ての補習を受けなくてはならないことになる。たしかに、そう考えると早朝に登校するくらいでないと勉強が追いつかないかもしれない。そして、おそらくこの現代文の補習が終わっても、彼女は学校に残らなくてはならないのだろう。
自分がもし彼女の立場だったらと考えると恐ろしいことこの上ない。そして、同情もされたくない。「同情するなら金をくれ」なんてことを口走ってしまうかもしれない。
そう考えると「悪かった」と謝罪するという行為は間違いだったかもしれない。しかし、ここで「同情したつもりはない」と言っても彼女には通じないのだろう。それはただの言い訳になってしまう。
意図せず、言葉の意味や受け取り方は変わってしまう。
それは昨日、彼女から教えてもらったことでもある。あまり、それを知る状況がいいものだったとは思えないが。
まったく、なんで私がこんな目に、それもこんな男にこんなこと言わなくちゃいけないのかしら……――彼女がブツブツと何かの呪文のようにそんなことを唱えている。これ以上、どう言葉をかけていいのかも分からず、俺は自分のカバンから読みかけの本を取り出す。厚手のハードカバーで製本されているその本は荷物にかさばるがそれ以上に内容が魅力的でこの本を読むことが今の唯一の癒しであり、楽しみとなっていた。
「なんでこの私がこんなこと……ねえ、何しているの?」
後半のセリフが自分に向けられていることはすぐに分かった。
「ん、見ればわかるとおり読書だ」
「……驚いた。あなたみたいな人が本を読むなんて」
「現代文で補習になるような奴が本の内容を理解できるのかなんてことを言いたいのか?」
それは偏見というものである。国語能力と読書能力は似て非なるものだと俺は主張したい。
「別にそういう意味で言ったわけではないの。誤解させてしまったのならごめんなさい」
余計なことを言ってしまったと思ったのか、彼女がバツが悪そうに視線を逸らす。
おかしい、やけに素直だ。いや、俺が麻痺していただけで本来はこういう反応こそが一般的だといえるかもしれない。
「それは、新子八雲の新作?」
「ああ、『骨咲く桜』」
表紙を彼女に向けてやる。彼女はほぅ、と感嘆に近い息を漏らした。
「好きなのか、本」
「ええ、好きよ。……新子八雲は特に」
「へえ、わかってんじゃん」
何を隠そう、俺も一番好きな作家である。
「結構人気の作家だけど俺の周りでは読んでいる人いないからさ、なんだか嬉しいよ」
正しくは読んでいる人がいたとしても分からないだけである。部活の後輩は本よりも漫画といった様子だったし(そもそも幽霊部員だったのではっきりとは分からないが)、花山は読書こそするものの新子八雲の本はあまり肌に馴染まない様子だった。好みは人それぞれなのでこればかりはどうしようもない。
「若者の読書離れが深刻化しているなかであなたみたいな人は久しぶりに見たわ。天然記念物なみに貴重よ」
彼女はいったいどんな目線で俺のことを見ているのかは理解しがたいが、彼女はなんだかご満悦といった感じだった。
俺も俺で嬉しかった。
本の話ができる人ができたことにではなく、彼女との会話を、関係を円滑にする話題を発見できたことが素直に嬉しかった。これで会話の話題に困ったというときにそれを打破する選択肢が増えた。この収穫は大きい。
なんだ、案外いい娘じゃないか。
「私が好きなのはやっぱり『絵を置く旅人』。あれを読むと心があつくなるの」
「へえ、それってたしか新子先生のデビュー作だよな。俺、『砂漠の月に眠る城』からはいったクチだからまだ読んでないなあ」
ちなみに『砂漠の月に眠る城』は新子八雲のデビュー三作目の作品である。
「あれは絶対に読むべきよ。少なくとも、新子八雲のファンを語るなら。というより読んでなかったのが不思議なくらいよ。一体、今まで何を読んで生きてきたのかしら」
前言撤回。やっぱり彼女は彼女である。
「悪かったなあ、にわかで。でもファンにどれだけ読んできたとかどれだけの期間好きだったかとか関係ないと思うぜ」
たとえ一作しか読んだことがなくとも、その作品が本当に好きであればそれでいいのではないだろうか。
「……それもそうね。私としたことがつい熱くなってしまったわ、ごめんなさい」
「いや、まあそれはいいんだけどさ。それだけ白河さんがその作品を愛しているというだけの話だし」
「ええ、愛しているわ。私の人生を変えてくれた物語といっても過言じゃないもの」
「それはすごいな」
本心からそう思う。誰かの人生を変える本というのは少なからず存在するが、そのどれもが存在する理由、意味、そして力がある。つまり、誰かの人生を変える本は――人生を変えるだけあって面白い。
「そこまで熱弁、いや、大好きな作品を紹介されるとこちらも放っておくわけにはいかないな」
言い直したのは特に順序立てて内容についての説明をうけたわけでもなければ、どこが面白いかといったポイントを教えてもらったわけでもないからである。俺は彼女のおすすめ作品をたまたま聞いただけだ。それに、熱弁という言葉を聞くのは彼女にとってもあまり良しとはしないだろうというのもあった。また恥ずかしがるかもしれないし、冷めた言葉を浴びせてくるかもしれないと思ったのだ。
「ええ、ぜひ読んでみるといいわ。あなたにもきっとあの良さが分かるはずよ」
彼女が得意げに笑う。なぜ、得意げなのか――他人が知らないことを知っているというのはたとえ本であってもそれだけで優越感に浸れるものなのかもしれない。
話していると喉が渇く。この二人という妙な緊張が心なしか枯渇感を強めているような気がした。
昨日、学習したことを活かして、今日はここに来る前にコンビニに寄ってきたのだ。午後一時は運動部の面々も練習再開といった様子で、相対的に店も空いていた。
ペットボトルに入ったレモンティーを口内に向かって傾けると、甘みと酸味が芸術的なまでに溶け合って喉を滑り落ちていく。その後、少し遅れてやってくる清涼感はまるで、野原の草を優しくなでる風のようだった。
「ところで、どうしてあなたが私の名前を知っているのかしら?」
おもわず、口に入っているレモンティーを吹き出しそうになる。それをどうにか堪え、自身の発言を振り返る。そして、すぐに思い出した。
『それだけ白河さんがその作品を愛しているというだけの話だし』
たしかに、俺はそう言った。そう言ってしまったのだ。
「誰から聞いたの? 昨日の補習でも名前を呼ぶようなことも呼ばれるようなこともなかったはずなのだけれど」
「え、えーっと……ですねこれは、その」
分かりやすく、挙動不審になってしまう。花山から聞きました――なんて本当のことを話したら彼女が傷つくかもしれない。彼女は、白河さんは花山のことをあまりよく思っていないのだから。
白河さんの視線が痛い。怒っている、というわけではなさそうだがあまり良くは思っていなさそうだ。プライバシーに厳しいタイプの人なのかもしれない。
「はあ……もういいわ。同じ学年なのだから名前くらい知っていてもおかしくないもの。私があなたの名前が飯田奏斗だと知っているのと同じくらい些細なものだわ」
「そりゃどうも、てかおまえも知ってたんだな」
「さっきからあまり気にしないようにしていたけどその『おまえ』って呼び方やめてくれるかしら? なんだか見下されているような気分になるわ。敬語として目上の人に対して使っていた時代はもう終わったのよ」
「お、おう……悪い」
たしかに、女性に対して『おまえ』というのは一種の侮辱に値する行為だったかもしれない。
「と、とりあえず『絵を置く旅人』は一度読んでみるよ」
そこで、今日の会話は途切れた。奥村が来たのだ。
もう少し、早く来てくれればこんなに気まずい思いをしなくてすんだのに――そう思うと時間どおりに来たはずの奥村がなんだか恨めしくなった。