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職員室を出て右に曲がる。
そこを右に曲がり、そのまま進むと右手に階段があらわれる。最上階である四階まで上がる。職員室は一階なので運動不足の俺にとってはかなりの良い運動になった。職員室の冷房で乾いたはずの汗が再び滲んでいるのに気づいて額を拭う。
気持ち悪い。
補習を受ける前に風呂に入りたいくらいだ。もしくは冷たい飲み物――キンキンに冷えたアイスティーでも飲めばさぞかし心地いい幸福感を得られるだろう。
学校に来る前にコンビニに寄っておけばよかったと後悔した。
うちの学校の前には徒歩三十秒ほどで行けるところにコンビニがある。だからこそ、というべきか。自然とそのコンビニはうちの生徒のたまり場的なものになっており、昼休みになるとおにぎりやパン、もちろん弁当も売り切れになり、放課後になると部活帰りの運動部の面々がお菓子などを買い占めていく。本部もびっくりの盛況ぶりだ。おそらく、あのコンビニの客層の九割はうちの学生で占められているだろう。俺のような一学生としてはたばこや酒を置くスペースを弁当やパンに還元してほしいものである。そうすれば生徒も助かるし、お店としての売り上げも伸びる――一石二鳥のウィンウィンの関係だ。その分、生徒の休み時間の時間帯に忙しさで涙目になる哀れなアルバイターも増えるだろうが。
補習に指定された教室の戸を開ける。当たり前であるが鍵は開いていた。
だから、必然的にそこには先客がいた。
風が吹いた。
涼しい。
教室の窓がすべて全開に開け放たれているからだ。
だから、その風が俺に向かって吹いたのも必然だ。
この一瞬、俺の中で季節という概念が消えた。
俺が戸を開けたときに風が吹いたのは運命だ。
では。
ふわりと黒髪を揺らした彼女と出会ったのは――
「暑いな」
一瞬、確かに涼しいと感じたがそれはあくまでも一瞬のことだ。息を吸うとまた身体に熱気がこもるのが分かる。
暑いものは暑い――現実とはそういうものだろう。
窓が開けてはあるがそれも気休め程度にしか違いはないだろう。教室というサウナが教室という砂漠になっただけである。一つ違うのは単純な湿度だ。元々、この日本は湿度が高い国なのであまり大した変化は望めないだろう。
結論はやはり、気休めだ。
まあ。しかし、気休めでもないよりはマシである。そう思うと彼女の窓を開けるという選択は正しい。
「暑いわね」
彼女はそう言った。その言い方が全く暑そうでないのが気になった。冷静そのものというべきだろうか。まるで本当は涼しいけれども季節的にそう言っておくのが正しいだろうと判断したから言ったという感じだ。
彼女がこちらを見る。
その凛とした目つきに俺は一瞬たじろいでしまった。これがいわゆる目力というやつなのだろうか。せっかくいい顔立ちをしているのにこれではろくに人も寄り付かないだろう。
「あら、私に話しかけたわけではないの? それはごめんなさい。あなたの独り言だったのね」
初対面から当たりが強い。目つきにたがわぬ態度だ。
「あなたの独り言癖はどうでもいいけど話がややこしくなるようなことはやめて。場合によっては陰口にさえ聞こえるわ」
「というと?」
「あなたのさっきの言葉……まさか十秒前のことも覚えてないとは言わないわよね? いくら補習を受けなきゃならない馬鹿でもそうなってしまってはもはや認知症よ。で、続きを話すと、うん、あなたは『暑い』と言ったわ。その『暑い』にも陰口、言葉の棘のようなものがあるという話よ」
「意味が分からん」
「……やっぱり、馬鹿ね。あの『暑い』の言葉と一緒に脳みそもとけたんじゃない? まあ、補習なんて受けなくちゃならないくらいだから事実なんでしょうけど。とにかく考えてみなさい。考えるという行為は人間が神からさずけられた特権よ。あなたも人間ならその特権を行使するべきだわ」
「あのなあ……まあ、うん、さっぱり分からん」
彼女の容赦のない物言いに俺も物申したいかぎりだったが、それはさせてもらえそうになかったのでしばらくは話にのってやることにした。まったく、自分の優しさには反吐が出るというものである。
「やっぱり馬……面倒だから省略するわ。考えてもみなさい。この空間を見て」
彼女の指示通り、適当に辺りを見渡してみる。
「見たぞ」
「これでも分からない? まあ、いいわ。この開いている窓を見て」
全開になっている窓を見やる。
あ、いま風が吹いた。やっぱり、風が吹くと少し涼しいような気がしないでもない。
「見たぞ。窓、開けてくれたんだな。ありがとう」
俺は素直に感謝の言葉を述べたつもりだったが、彼女は少し、不服そうな顔をした。話の腰を折られたのがお気に召さなかったのかもしれない。
「なんか、悪い」
とりあえず謝っておく。彼女は大きく、ハアとため息をついた。
「私は感謝や謝罪の話をしているんじゃないの。言葉の棘について話しているのよ。今日は現代文の補習だからそれらしく言ってみるけど、話の文脈を読みなさい。この会話が小説だったらどうするのよ。支離滅裂で読めたもんじゃないと思うわ」
要するに言葉の文脈を読め、ということらしい。
「面白い面白くないは人の勝手だと思うけどな。まあ、いいや。続きをどうぞ」
「ええ、つまり私が良かれと思って窓を開けたことはなんとなくでも分かるわよね」
「まあ、そうだろうな。だからこそお礼を言ったんだ」
この暑さの中、窓を開けるのはさぞかし億劫なことだっただろう。
「だからよ、私が言いたいのはつまりはそういうこと。良かれと思って、こうすれば涼しくなるだろうと思ってやったのにそれを『暑い』の一言で一蹴したというところに棘を感じるということ。なんだか声を大にして言われているようじゃない。おまえのやっていることは無駄だったって」
「なるほどなあ、言いたいことは分かったよ。でもそれって考えすぎじゃね? そこまで深読みすることはないだろう。現に俺はおまえの行為が無駄だとかなんとか、そんなこと一ミリも思ってなかったし」
「ふーん……」
彼女がジト目でこちらを見てくる。
「そんな人を疑うような目で見るんじゃねえよ。本当だって。事実、風があるだけで大分違うことは理解したよ」
「ならいいんだけど。本人に言われてしまっては否定のしようもないわ」
「天邪鬼だなあ」
ため息をつくと彼女はムッとしたようすで、
「あなたには言われたくない」
と、不服そうに言ってきた。頬がわずかにふくらんでいる。不覚にもかわいいと思ってしまった。
「というと?」
「奥村先生に言われたの。あいつは言い方がきついところもあるけれどツンデレなだけだからきにするなって」
余計な気を使ってくれたらしい。そしてやっぱりツンデレという言葉が男にも適用されるのかは疑問だ。
「お前も気をつけた方がいいぜ」
「……というと?」
彼女が怪訝そうに首をかしげる。どうして私が注意される立場にいるのかしらとでも言いたげだ。しかし、ここで引いてしまってはいわゆる男が廃るってものだろう。これは彼女のためでもあるのだ。
「世の中にはなあ、一言余計って言葉があんだよ。おまえは三言くらい余計だから気をつけた方がいいぜ」
「ご忠告ありがとう。でも生憎、同じことをもう五度ほど言われているわ」
「いや、直せよ!」
なんて奴だ。きっと彼女の性格(初対面であるが)の性格的に直そうともしなかったのだろう。
「心外ね。どうせあなたのことだから……私はあなたのことをあまり深く知っているわけではないのだけど、それでも分かるわ。きっと直そうともしなかったんだろうとでも言いたいんでしょ」
「……まあな」
どうやら心を読まれてしまったらしい。できれば偶然であってほしいと望むばかりだ。読心術を持っている奴なんかと補習なんて気まずいだけだ。気を使いすぎて死んでしまうかもしれない――少なくとも精神的にはダメージが大きい。
「直そうとはしたわ。私だって人に嫌われたくないもの。けれどもそれで直るかどうかは別問題。結局、私は変われなかった」
彼女の表情が暗くなる。直るか直らないかの話のはずがいつのまにか変わるか変われないかの話になってしまっている。言葉の文脈が読めていないのは彼女も同じなようだ。それに、彼女の物言いには一部、不審な点がある。俺に話をしている時もその目の奥は別の方向を向いていて、なんだか心ここにあらずといった感じだ。
それはまるで俺に対しての言葉でないようだった。
だから、というべきか。いまいち俺の心に彼女の言葉は届かない。そんな偉そうなことを言える立場でないことは重々承知であるが、内容は理解できても意味は把握できない。なんだか言葉はつながっているはずなのに独りで話しているようにさえ感じた。
「話、聞いてる? だから私は――」
彼女が何かを話そうとするが、それが俺の鼓膜を刺激することはなかった。先程、述べたような意味ではなく、それよりも大きな声がただ単純に、彼女の言葉を覆いかぶせてしまったのだ。
「おっし、補習始めるぞ。席につけ馬鹿ども」
結局、奥村がやって来たことで会話は中断。補習中、彼女と会話をするどころか目すら合わすことはなかった。
現代文の補習は俺と彼女の二人だけだった。これから彼女と二人で補習を受けなくてはならないと思うと憂鬱で仕方なかった。それはいささか極端な物言いかもしれないが――先が思いやられる。そう思わずにはいられなかった。