3
生徒というのは本当にちょろいものである。
その生徒である俺がそんなことを思うのはおかしな話かもしれない。しかし、そのちょろさこそが夏の長期休暇に部活をするわけでもなく、わざわざ学校に登校している俺を表している。もともと、部活動は楽そうな美術部の幽霊部員、しかも一日に一人は必ずいるという図書室で勉強をするといった生徒の模範のような人物にもなった経験のない俺にとって、今のこの状況は革命的であるといえる。
歩いてきたにも関わらずジワリと額に滲む汗をぬぐいながら補習が行われる教室へと向かう。
暑い、暑すぎる。
こんな気温のなか勉強だと? ふざけるな。
頭がとろけて逆に馬鹿になるというものだろう。
しかし、俺はどんなことをしてでもこの暑い中、毎日学校に通いつめなければならないのだ。
卒業できないぞ?
奥村の言葉を思い出す。
これが冗談で言った言葉でないことくらい、誰だって分かる話だろう。
卒業の二文字を人質にとられている今、俺のとるべき行動は一つしかないのだ。受け入れるしかない。さすがの俺も高校三年生を二回繰り返すなんてマネ、絶対にしたくない。
職員室にいるであろう奥村を訪ねる。
「教室の鍵をもらいたいんですが」
「おう、ちゃんと来たんだな。今度は感心してやる」
「そりゃあどうも、です。あまりこの空間にいたくないんで早く鍵ください」
「その言い方はあまり感心できないな。せっかく褒めてやったのによ」
あまり褒められた気はしないのだが面倒なので適当に感謝の言葉を並べる。ついでに言うなら、この空間にいたくないと言ったのも嘘である。こんな冷房の効いた、季節感を無視した空間にいたくないわけがない。にもかかわらず、そんな天邪鬼になってしまったのはひとえにそんな空間にずっといられる教師という存在がうらやましくなったからだ。いわゆるツンデレというやつである。ツンデレという言葉が男にまで適用されるのかどうかは謎であるが。
「そんなにこれが欲しいか」
奥村がわざとらしく自身の机の引き出しを指さす。おそらくそこに鍵をしまってあるのだろう。よし、意地悪は意地悪で返してやろう。
「ええ、欲しいですよ。欲しくて欲しくて喉から手が出そうです。しかし、です。そこまで鍵を渡したくないのであれば僕は諦めるしかないのです。僕にはかつて柔道で全国にいった経験のある先生に力で勝つことはできない。ああ、本当に残念です。補習を受けたくても受けられない。仕方ない。ここはおとなしく家に帰ってひとりで勉強することにしましょう」
我ながら安い芝居であるが教師を一人騙すのにはこのくらいがちょうどいい。いや、騙せていなくとも重要なのは、帰ってしまう可能性が万に一つでもあるんだぞと見せつけてやることなのだ。さすがの教師も一人でも留年者を出したとなるとあまり心中よろしくないだろう。担任ならばなおさらだ。
「分かった、分かったから落ち着けって。いや、帰るな。まったく、今時のガキは冗談の一つも通じないのか」
案の定、奥村は若干たじたじといった様子だ。しめしめ。してやったりというのはまさにこのことである。
奥村は鍵が入っているであろう引き出しを開ける。見ると、中には何やら見覚えのある書類が――いかんいかん、あまり一生徒が見てはいけなさそうだ。
生徒のプライバシーは教師が責任をもって守る。
そんなことをいつだったか、奥村が言っていた気がするが生徒がそのプライバシーを自ら覗いてしまうのはなんだか彼に対する裏切りのように思えた。
「あれ、ないぞ?」
なんだか急に不穏な言葉を発したプライバシーを守る奥村。ある意味、プライバシーと同等の価値のあるものをなくしたみたいだ。さっき気をきかせて目をそらしたのが馬鹿らしく思えた。
「いや、待て待て。そんな目で教師を見るんじゃない。今、思い出すから」
「それ、絶対に思い出せないパターンですよ」
「黙れ」
教師に黙れと言われたのは初めてだったので、おとなしく無数にある記憶の引き出しを開けていく姿を見守ることにする。教師が生徒に対してそのような暴言はいかがなものか。まあ、別にいいのだけども。
とりあえずこの暇な時間をどうにかせねばなるまい。
それはつまり奥村が鍵のありかを思い出すのにはまだ時間がかかるだろうと見越してのことだったが、そうは問屋が卸さなかった。さすがは教師といったところか、それとも社会人としての責任によるものなのか――どちらにせよ、必死に思い出しているところに俺が邪魔したから時間がかかっただけであって、冷静に考えると簡単なことだったらしい。
俺を黙らせた奥村の判断は正しかった。ただ言い方がちょっとアレだっただけである。
「すまんな、鍵はここにはない」
奥村は完全に自分のペースを取り戻したかの如く、そう言った。確かにそう言った。
「じゃあ、帰ります。明日にはちゃんと見つけておいてください」
とんだ無駄骨だった。とりあえず帰ったら昨日買った小説の続きでも読むとするか。強いていうなら明日も明後日も見つからないことを願うばかりである。
「話は最後まで聞くものだぞ。鍵がないってのは完全になくしちまったって意味じゃあない」
「……あ」
なるほど、そういう意味か。
奥村は鍵をしまった場所を忘れていたのではなく、現在の鍵の所有者を忘れていたのだ。
補習の担当は奥村だから、それはつまり。
「もう一人、補習の奴がいてな。そいつに渡したんだよ」
いやあ、つい数十分前のことも忘れるなんて俺も年だな、と奥村が笑う。
俺はふと思った。
いつから、補習になるような馬鹿は俺だけだと錯覚していたのだろう。
いつから、俺は自分を馬鹿だと認めてしまっていたのだろう。