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夜の学校は怖いものだ。これはおそらく、長い時間をかけて刻まれた一種の集団催眠ともいえるだろう。だから現在、俺がただ廊下を歩いているだけでわずかに恐怖しているのも仕方のない話なのである。しかし、ただ恐怖しているだけではないというのもまた事実であった。
俺は今までに社会のルールからおよそ外れたようなことをしたことはなかった。いや、外れているというよりかは明らかに「いけないこと」と分かっていることをしたことがなかったのだ。世間一般でいう不良とは最も縁遠い存在である。
しかし、俺は今、夜の学校に忍び込むという明らかな「いけないこと」をしてしまっている。身体を締め付けるような罪悪感が俺を襲うが、しかし、それだけでなくわずかに気分が高揚していることも否定できなかった。おお、神よ! 罪深きこの俺をお救いください!
目的のブツがあるのは職員室だ。
しかし、夜の学校で戸締まりしていない場所などあるわけがなく、職員室は固く閉じられていて人間の力では開けられる気配が感じられない。少なくとも、俺の力では。どちらにせよ、鍵のかかった部屋を開けるのにはそれに適した鍵が必要なのだ。それが最低限、存在する社会のルールと言える(社会のルールとのたまっているが、俺がそれを詳しく知っているわけではない)。
ちなみに、俺はあらかじめ一つだけ開けておいてもらった美術部の窓から校内に侵入することに成功した。この学校は戸締まりの責任を部に委任するきらいがあった。つまり、俺という侵入者の侵入を許すというのはかなりの大事であるのだが思ったよりもすんなり、それを快く了承してくれた。ありがたい話である。
それが、俺が田辺に頼みたかったことの一つ目である。ちなみに、頼み事はこれを含めて二つである。この二つ目の頼みを聞いてもらうのに、俺はかなりの時間を要した。
「田辺、優秀な後輩よ、ありがたく使わせてもらう」
俺はポケットから田辺に渡されたこの学校の合鍵を取りだした。
田辺は鍵屋の一人息子であった。彼は表向き、特に目立たないごく普通の優秀な生徒であるがあらゆる合鍵を作ることを我が趣味としている一面があった。真面目な顔して実はいたずら好きというやつである。俺がそれを知ったとき、初めて「こいつ面白いな」と思った覚えがある。それまで抱いていただけの真面目な美術好きのイメージからかけ離れた悪癖に妙に興奮した。それこそが俺の悪癖といえるのかもしれないが。
職員室の扉は当たり前のようにすんなりと開いた。鍵があるので当然と言えばおしまいであるがおよそ(鍵屋の息子ではあるが)素人が作ったとは思えないほどのその精度には驚かざるをえなかった。人の器用さはこういった箇所に表面的にあらわれるのかもしれない。
これが彼の、田辺の才能か――そんなことを考えるとなんだかやるせない気持ちになる。しかし、これから俺がするのはその才能というやつと向き合う行為である。いつまでも目を背けていてはならない。でないと、俺はきっと一生後悔することになる気がしたのだ。
俺の足は迷いなく、担任の奥村の席へと向かっていた。もちろんどこにそれがあったか、なんてことを忘れてはいない。まあ、もし忘れていても全ての席の引き出しを開ければ済む話である。そんな手間を惜しむ気は毛頭ない。そうでなくとも深夜の学校に忍び込む以前に、親の目を盗んで家を出た時点で何の成果もなしで帰宅するわけにはいかないのだ。後戻りができないとはまさに今月今宵のことである。
奥村のデスクを発見する。授業で使用している教科書にいくつかの参考書が綺麗に並べられている光景は――こんなことをいうのもいまさらであるが、教師らしい。
進路希望調査のありかは分かっていた。教師にだけでなく、社会人が個人情報や重要な事柄を書かれたものを誰の目にでも映る場所に野放しにしておくはずがないことはさすがに知っていた。それはある意味ワンパターンともいえる。要するに鍵のかかった引き出しは誤魔化しようのない黒なのである。さすがに重要な場所であると見せかけて実はただの引き出しに堂々と入れてある、といった引っ掛けはしていないはずだ。スーパーマーケットの品出しじゃああるまいし、そんなことをしても何の得にもならないだろう。まあ、そうでなくとも全ての引き出しを隈なく探ることはもはや確定事項であるのだが。
先に普通の引き出しを開ける。やはり、それらしいものはなかった。面白くもない、もう少し捻りを入れてもよいのではないだろうか。それともあれか、こういった固定観念がこの国の秩序を作り上げているのかしらん。
続いて取り出すのはもちろん、田辺印の特性キー。それにしても田辺がどうやってあらゆる鍵の型をとったのか、はなはだ疑問である。ご丁寧にも鍵の持ち手には『職員室 奥村デスク』と記されているということは――詳細を記入しなくてはならないほどに多くの合鍵を所持しているということなのか。恐ろしい奴である。
結論を言うと、恐ろしいほど簡単に進路希望調査は発見できた。あまりに事がすんなりと運んだので拍子抜けしたほどであった。あれほど奥村に対して堂々と啖呵を切ってしまったのでもう少し警戒するかと踏んでいたのだが、よく考えると普通の生徒が夜中に学校に侵入するわけがないし、合鍵を持っていたりピッキングの技術があるはずがないのだ。彼の敗因は言うまでもなく、若者の行動力をなめていたことと、田辺という優秀な生徒の皮を被った悪魔的いたずらっ子の存在を知らなかったことであろう。
彼女の進路調査には奥村の言うとおり、名のある名門大学の名が記されていた。まさにそれは頭のいい人にしかできない、壮観なものであった。他でもない彼女の実力がそれに真実味を与えている。
しかし、俺はそれにわずかな疑問を覚えた。それが徐々に「わずか」ではないことに気づくのを止められなかった。
乱雑に消しゴムで消された跡、もとはなんて書かれていたのかは知る由もないことだがもとは何かが書かれていたということは隠せていない。これを書いた人物はどうやら相当焦っていたらしい。
そして、驚くほどすんなりと確信してしまった。
「これは……彼女の字じゃない」




