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「もしもし、僕だよ」
夜、電話がかかって来た。自分のことを「僕」という知り合いは二人しかいない。口調からして間違いなく相手は新子八雲であった。
「新子さん……お久しぶりです」
「本当に久しぶりだよー」と彼は容器に言った。
「最近、電話がかかってこないからね。声が聞きたくなって電話してみちゃった」
「変なふうに聞こえるのでその言い方はやめてください」
そう言うと彼は面白そうに「あれー、どこにそんな変な表現あった? まったく君は思春期さんだなー」と言った。変なのはあんたのテンションである。
「もしかして酔っているんですか?」
「どうして?」
「なんとなく」
本当になんとなくである。深い意味などない。
すると彼はややあって「酔ってるよー」と笑いながら言った。
「飲みすぎは身体に毒ですよ」
「毒なのは僕にとって昼間の日差しだけ。あとはなんとかなるさー、なんくるないさー」
そういうものなのだろうか。未成年の俺にはその感覚がいまいちピンとこない。日差しのことについてはあまり触れないでおく。
「なんかさー、執筆が滞ると飲みたくなるのよー。そしたらさー、こう……頭がフワフワしてね、新しいアイデアが浮かぶことがあったりなかったりー?」
「アハハ!」と楽しそうに笑う声がスマートフォンから聞こえる。どうやらかなりの量を呑んでいるらしい。妄想の海を大航海しているときにふと、思い出したのが俺のことだったらしい。それが喜ぶべきことなのか否なのかは想像のできないところであるが。
稀代の天才である新子八雲もアイデアに詰まることがあるのだということに驚いた。彼の、天才の脳内には凡人が想像もできない無限大の世界が広がっているはずではなかったのか。
おかしい。
何かが俺の中で覆されたように感じた。一体、何が起こっているというのだろう。
「ちょうどよかった。俺もあなたに電話しようと思っていたんですよ」
嘘ではない。このタイミングではなかったかもしれないが一度、彼にぜひとも聞いてみたいことがあったのだ。
「嬉しいことを言ってくれるねー。嬉しすぎて泣けてきちゃうよ」
「新子さん」
「うん?」
「新子さんはなぜ、新子八雲という作家になったんですか?」
「…………」
「……新子さん?」
急に笑い声も息遣いも聞こえなくなったので声をかける。一瞬、寝てしまったのかと思ったが子供じゃああるまいし、電池切れなんてことはないだろう。
「……どういったらいいのか」
新子さんはしばらくして突如、口を開き、話し始めた。そこに先程までの陽気なテンションは感じられず、逆にこれまででは感じたこともないような張り詰めた、真面目な雰囲気が感じられた。唾をひとつ、ゴクンと飲みこむ。
「僕は表の世界に出られない。この場合の表というのは昼間、日差しが差し込む時間帯の世界だと思ってくれ。いつも、日陰にいる。それは今も同じ。やっぱり表の世界は僕にとって致死量の毒が蔓延した空間なんだ。そんな中で僕は物語というものに出会った。物語に救われたんだ。物語を作ってみたいと思った」
ここまでは大方聞いたことがある話であった。しかし、話はそこで終わらない。問題はその先にあるのだ。
「でも、まともな勉強をしたことがなかった僕はちっとも物語を作ることができない。それどころか世界は僕の敵であるとまで考えていたから世界がどういうものなのかも僕には想像しえなかったんだ。日差しというのはどういうものなのか。当たるとどんな気分になるのか。僕には理解できなかった。そもそも、僕は最初、小説家になろうとなんて考えてすらいなかった」
そんなまさか、と言いたい気持ちにかられたがそれは唾と一緒に飲み込んだ。それを嘘だと決めつけて何になるというのだ。
そして彼は言った。
「僕は元々、漫画家になりたかったんだ。他でもないファンの君は傷つくかもしれない。だけど言うよ」
彼はしばらく間を取って言った。それを言うのに一体、どれだけの覚悟が必要だったか、彼の立場になって考えると俺ならできなかったかもしれない。
「僕は漫画家になることを諦めた、挫折した人間なんだ」
ある意味、それは決して珍しい話ではないのかもしれない。そういう作家もたくさんいるだろう。俺が驚いた、衝撃的で何かが崩れたような気がしたのは新子八雲がそうだったことである。天才という言葉を意図せず我がものとする彼が挫折や苦労を経験したことにあるのだ。
それではまるで、俺と同じではないか。
俺は天才ではない。では、彼は? 彼は天才などではなく、俺と同じ凡人だったのか?
天才という言葉に負けた人間なのか?
「幻滅したかい? 漫画を描くことを諦めたから僕は小説に逃げたんだよ」
「…………」
「これが君の敬愛する新子八雲の本当の姿だよ」
俺の中の新子八雲の、天才のイメージが崩壊していく。それを止めることができない。
なぜだ。そんなこと、俺にはおこがましいことだ。天才という存在が俺の中でちっぽけなものに変わっていくなんて!
そんなこと、そんなこと――
「ありがとうございます」
俺は感謝の言葉を口にした。もちろん、本心からである。
「うん」と彼は短くそれに答えた。
そのまま電話を切る。「さて」と俺は自身の頬を両手でパシンとたたく。張り詰めたような鈍い痛みが走る。それがなぜか、今は心地よく感じた。
俺は大きく息を吸い込むと勢いよく、正面にある学校の柵をまたいだ――簡単に言うと、泥棒よろしく学校に侵入した。




