20
「俺は何度もおまえのような生徒を請け負ってきた。が、補習を連絡なくサボった生徒を見たことはなかった。しかし、だ。あにはからんや、なんと今年になってそれが二人もでてしまったではないか」
奥村が少し、怒ったような、悲しいような、生徒である俺にはよく分からない複雑な表情をして言う。
「俺は悲しいよ」
「一体、どうしたというんだ」
「ちょっと……色々ありまして」
嘘だ。ちょっとではない。
「高校生なんて誰しも色々あるもんだろ。甘えるな、とは言わんが」
あまり逃げ過ぎんなよ、と忠告めかして言った。
そうだ、言うまでもなく俺は逃げているのだろう。しかし、愛乃のことといい、葉渡のことといい、どうにもならないようなことばかりではないか。人と出会うことは無論、喜ばしいことである。しかし、人と関わりあうことで直面する問題がこれほどまでに多いとメリットばかりではないのだということを実感した。
こんなことになるなら人となんか関わらなければよかったとは言わない。
辛い思いをするくらいなら出会わなければよかったとは言わない。
人と関わればそりゃあ、喧嘩をしたり別れがくることもあるだろう。
しかし、人と関わりあうことで生まれる歪みの修復の仕方を人とあまり関わってこなかった自分には分からない。情けない話である。
「すみません……」
謝罪するほかに道がないように思えた。いや、たとえ他に選択肢があったとしても俺にはどんな言葉を発していいのか分からなかっただろう。
「本当にすみません」ともう一度謝罪の言葉を述べる。奥村はため息をこぼした。
「まあ、反省しているのなら別にいいんだけどさ。あとおまえ、まだ進路調査出していないだろう」
「あ……」
思わずそんな気の抜けた声が漏れてしまったのは言うまでもなく、それの存在を忘れてしまっていたからである。やってしまったとしか言いようがない。俺は三度目の謝罪をする。「すみません……」
「これも色々ありまして」
完全に嘘である。
「結局、白河を呼び出す作戦もあの親御さんのせいで失敗に終わったし……」
教師にあるまじき発言には触れないことにして、やはり、あの時ぶつかった男は彼女の父親だったらしい。左隣の席を見やる。そこにいるはずの彼女は今日もいない。もはやその席は教室にある他の席と同化していて、この前まで彼女が座っていたとはとても思えなかった。
「そういえばさ、おまえなりたいものとかないの?」
「それは職業的な意味でですか?」
ほかに何があるんだよ、と奥村は嘆息しながら言った。
「これから生徒に親身になって対応せねばならない教師としてあるまじき話をする」
「どうぞ?」
「最近のガキはさ、なりたいものが見つからないとかでギャアギャア騒ぐじゃん? もちろん、それは偏見かもしれないけどさ。なんか傾向的に無気力というか、なんかそういうふうに感じちゃうわけよ」
「はあ……」
我ながら適当な相づちであるがたしかに、そうかもしれないと思う。いや、それも奥村の言うように偏見なのかもしれないが、自分自身を顧みるとそう思わざるをえないような気がした。
「でもよ、俺自身はかつてどうだったかっていう話だが、そう思うと俺は気力とか希望に満ちていたよ。俺はなりたいものがないというよりはなりたいものが常にあったんだ。そのための努力をしてきたかっていうとまた別の話だけどさ。現に正直に白状すると俺にとって教師という姿は最大最悪の妥協点だったからな」
奥村が小さく笑う。その照れ混じりの笑顔は今まで俺たちには見せなかった顔だ。こういう表情ができるのを老紳士の言葉を借りるが「人間味に溢れている」というのかもしれない。
人の表情はころころ変わる。
一つ一つの言葉にもそれぞれの表情があって、きっとそれらを全て合わせていくつもの人間味を作り上げているのかもしれない。
「たとえば、そうだな。小学校の頃は化石が好きで考古学者になりたいって思ってた。中学の頃は一番ころころ変わったな。調理師、科学者、ミュージシャン、俳優。高校は運動部だったから筋力を活かした仕事を探したな。警察官、自衛隊、消防士とか」
「それらが合わさった結果、今のしがない高校の現代文の教師というわけですか」
「他人にしがないと言われたくないな。まったく、おまえはどうも失礼な奴だ」
「でも」と俺は口にする。
「情けない話、そのしがない教師に色々と教わっているのが俺なんですよね」
「ま、そういうことだな」
奥村は豪快に笑い飛ばした。
「まあ、なんにせよだ。叶う叶わないは別としてなんでも願ったもん勝ちだと俺は言いたい。高校生の願い事なんてパイロットの一言で十分事足りているよ」
「そういうものですか」
「そういうものなんだよ。ただそれを願っていたことを恥ずかしくは思うな。それが一番恥ずかしい」
「暑苦しい考え方ですね」
「それくらいが丁度いい。でないとこの就職氷河期、ブルブル震えて凍え死んじまうぜ」
まあ、まずは就職の前に進学だけどな、と奥村が話を少し戻す。
ふいに、本当に理由もなく白河さんのことが頭に浮かんだ。
「白河さんは、彼女の進路調査にはなんて書いてあったんです?」
「たしか有名な難関大学がズラズラと連なっていたはずだよ。まあ、あいつならたいがいのところは大丈夫だろう。補習のせいで推薦はできないが地頭でいえば間違いなくあいつはこの学校のトップだからな」
うらやましいな、と思ってしまう。最後の夏季休暇に補習という教師陣から見捨てられてもおかしくない状況でここまで期待を寄せられる彼女が、そんな間接的な特別扱いを受ける彼女がどうにも自分より恵まれているように思えて仕方なかった。たしかに、彼女は優秀だ。しかも、それを、少なくとも俺以外の人物にはひけらかさない。彼女はこの学校の生徒たちを見下している節があるがそれも、おそらく普段から口に出してはいないはずだ。少なくとも、俺の知っている彼女はそこまで馬鹿ではない。
「やっぱり……すごいんですね。ああいう人を人は天才と呼ぶんでしょうね」
新子八雲やその他諸々の天才と呼ばれる人物たちのことを考える。そこに白河さんも加える。そう思うと自分の周りには天才ばかりが溢れているようで嫌になる。そんな醜い嫉妬に押しつぶされそうになるのは久しぶりだった。
そうだ、自分はそんな嫉妬に押しつぶされて夢をなくしたのだ。
「まあ、補習に来ている分、俺にはおまえの方が人間的に優秀に見えるよ」
「それって、褒めているんですか?」
「どう思う?」
「教師のきれいごとですね。どうせ先生と名のつく人間なんて、結局は点数で決められた優秀な人材を優先する」
受験や社会も同じだ。きっと世界一優秀な人物ならば過去に殺人を犯していてもそれをもみ消すレベルの特別扱いをするに違いない。まだ本当の社会を知らない俺だからこそ言える。きっと社会は俺が思っている以上に闇が深い。学校は社会に出るための場所ではなく、社会から若者を「生徒」という形で守る役割があるという話も聞いたことがあるくらいだ。
「天邪鬼が。随分と達観しているようで実は何も見ていない考え方だな。まるで見たままのデータをそのまま復唱しているかのようだ」
「先生は天才についてどう思っているんです?」
そう俺が尋ねると先生は難しい顔をした。
「どういったらいいものか……正直に言わせてもらうと俺には天才の考えていることなんてよく分からんよ。あれは凡人ができる理解の範疇のはるか外にいる別の生き物と考えていい」
「まったくもって同意です」
今の言葉をもって確信した。俺は天才の考えていることが分からない。何も理解できない。新子八雲がどうしてあんなにも革新的な作品世界を創ることができるのか理解できない。白河ゆながどうして学年一という学力をもちながらテストで白紙回答を行ったのか理解できない。
無知というのは何よりも恐怖である。
ゆえに、俺は理解のできない世界観をもつ彼らを恐れる。
恐れる、それはつまり嫌いということだ。
俺は才能という言葉が何よりも嫌いなのかもしれない。
しかし、である。いや、しばしまて。
俺は白河さんのことも新子さんのことも決して嫌っているわけではない。むしろ、人としては好きな部類に入る。本心からそう思っているつもりである。では、俺が嫌いなのは――言うまでもなく、それは彼らの才能というやつだ。
しかしそれが、その才能が彼ら自身、彼らをたらしめているものだとしたらどうだろう。彼らの才能を嫌うというのは、彼ら自身を嫌うことと変わりないのかもしれない。
そんなのは、なんだか嫌だ。
「先生、彼女の進路調査、見せていただいてもいいですか?」
俺がそう言うと、奥村は怪訝そうな表情をした。意図が分からないというよりは「こいつ、急にどうしたんだ?」とでも言いたげな顔であった。
「おねがいします」
「真面目な顔でおかしなことを言われるほど、意味の分からないことはないな。いや、たぶん、俺には想像しえない大切なことがお前には見えているのかもしれない。しかし、だ。悪いがそれはできないんだ。でないと下手すりゃあ、俺の首が飛んじまう」
「またそれですか。生徒の成長と自分の首、どっちが大切なんですか!」
「もちろん、自分の首だね! 誰が何と言おうと首だね! たとえ世界が滅びても首だね!」
「この役立たず教師!」
「なんとでも言え!」
俺も引かないが奥村も引かない。そんな逆綱引きに興じている暇はないことは分かっているのだが、それよりも大切なことがそこにはたしかにある。
「そっちがその気ならこっちにも手がある!」
「ほう……」と奥村が鼻を鳴らす。
「それはなんだ?」
「言えるか」とすぐさまに返す。言ってしまっては意味がない。
「とにかく俺は何としてでもそれを手に入れてやる!」
俺の宣戦布告を聞いて、彼は子供のように叫んだ。
「やれるもんならやってみやがれ!」




