19
週末は案外、遅くやってきた。もちろん、それは俺の感覚である。人間というものは等しく、楽しみな時間までの時間を長く感じるものだ。人間の時間感覚はそれほどに精神と同化している。まったく、人間の精神は呆れるほどに単純かつ面倒にできているものだ、と思った。一体、俺は何様で誰の目線でそんなことを語っているのだという話であるがそんなこと、今はどうでもいいように感じられた。
なぜか。そんなこと、はるか昔から決まっている。
我が後輩、葉渡唯音のご登場である。
「すみません、こちらから誘ったのに遅れてしまって」
葉渡が少し申し訳なさそうに言った。彼女と会うのはこれで二度目であるが制服でない私服の彼女は新鮮に見えた。
「気にしていない」と言うと、彼女は安堵の混じった息を漏らした。
「とりあえず、中に入りましょう」
「そうだな」
そう適当に返事をして俺は彼女と共に未開の地への一歩を踏み出した。あくまでも俺にとっては、であるが。
さすが人気店、というべきか。店内は騒がしくとても混雑していた。これではしばらく席が空くまで待たなければいけないだろう。俺は何とも思わないが彼女はどうだろう。しまった、と思う。別の店のリサーチもしておくべきだったのかもしれない。
俺はインドア派でどちらかというと引きこもりになりやすい性質をもっていることを自負しているが、自分でも意外なことに案外、人間という生き物そのものを嫌いになったり人ごみに酔ったりしたことがない。どちらかというと、人を見るのは好きな方だった。いや、最近少し好きになった。おそらく、たくさんの人に出会ったからに違いない。逆に今までが出会わなさすぎただけなのかもしれないし、あるいは出会っていたことに気づかなかっただけなのかもしれない。それは定かではないが出会いというものが飯田奏斗という人間を少しずつ変えているのは間違いないように思えた。
自意識過剰という言葉を今だけは俺の辞書から抜き去っておくことにする。
俺は人ごみに対して何とも思わない質である。異常をきたしたのは俺の隣にいる彼女の方であった。
「どうした?」
俺がそう聞いたのは彼女があまりにも血の気の引いた真っ青な顔つきをしていたからだった。思わず新子さんを連想してしまう。ちなみに、彼とは愛乃の一件の後に電話でお礼を言って以来、連絡をとり合っていない。
「いや、その、大丈夫です……」
もちろん、大丈夫そうでないのは明らかである。
「嘘をつくな」
「……嘘じゃないです」
「いや、嘘だろ」
「問題ありません」
そんな不毛なやり取りをするが、埒があかないので核心を突くことにする。
体調が悪いのは間違いないだろう。しかし、それは入店してから突如起こったことである。つまり、入店したから体調が悪くなったと捉えるのがここでは正しいといえる。そうなると、悲しいかな、なんとなくであるが分かってしまう。
「もしかして人に酔った?」
「…………」
彼女は俺から視線をはずした。やはり目は口ほどに物を言う。図星であり、そのとおりであるようだった。
ここで俺が彼女から視線をはずすべきではない。彼女のためにも、である。やがて堪忍したように、
「はい……」
と、小さく呟いた。彼女が肩を落とすさまはなんだか、小動物のように見えた。本人には口が裂けても言えないがその姿はまさしく子供であった。
「場所うつそうぜ。実は俺も人ごみは苦手なんだ」
我ながら下手かつ安っぽい嘘であるがそれが今の彼女には必要であるように思えた。
「申し訳ないです」という彼女の小さな言葉は聞こえていたが適当な返事をしただけでそれ以上は何も言わなかった。
人ごみが苦手な彼女に俺ができるのは人気の少ない静かな場所を提供してあげることだろう。しかし、その条件を満たしていて、しかも彼女が喜びそうなところを探すとなるとかなり頭をはたらかさなければならなかった。そして、俺はそこへ彼女を連れて行った。
「街にもどってきたはいいですけど、ここはどこなんです? いきなりこんな路地裏に連れてこられて困惑と動揺が隠せないんですが」
彼女の体調はこの街に帰ってきた時点でおおかた回復しているようだった。
どこと聞かれると路地裏としか答えられない。なので俺は目的地に着いてからその説明をすることにした。
彼女がやや不満そうに鼻を鳴らし始めたとき、そこには着いた。その目の前の光景、世界に彼女の表情が明るくなるのが分かった。
「わあ!」
そんな驚きと歓喜が入り混じった声を上げた彼女は好奇心にあふれた、無邪気な子供のようであった。もしかしたら最初、新子さんに連れてこられたときの俺の目はこんな感じにキラキラと輝いていたのかもしれない。
俺は彼女に説明する。とある人に連れてきてもらったこと、ここは一人のご老人が経営する小さな本屋であることなどをまるで物語のように語った。彼女はそれを興味深そうに聞いていたが、やがて我慢できなくなったように、
「ぜひ、今すぐ入りましょう!」
と、興奮して言うのでそこで話は中断した。
しかし、俺は一つ、大事なことを忘れていた。結論を先に述べると、この時間には営業していなかったのだ。
いや、考えると分かりそうなものである。あの新子さんが一番の常連客なのだからそもそも昼間ではなく夜間での営業であると考えるのが適切である。
俺がその説明をし、謝罪すると彼女は「別に気にしてませんから」と言って俺を気遣ってくれた。しかし、かなり残念そうな顔をしているのを目撃したこともあってかより申し訳なく思ってしまった。
仕方なく、というより不可抗力。俺たちは店の側にベンチを発見したので腰掛ける。
しばらくの間、二人の間に静寂が訪れた。
木陰に吹き抜ける風は涼しい。
しかし、わずかに汗が額に浮かんでしまうのは俺がガラにもなく緊張しているせいだろうか。そう、俺は緊張していた。すでにこれがデートではなく、デートというのはあくまでもこじ付けで本当は何としてでも話したいことがあったから呼び出した、ということであるのは分かっていた。彼女自身が最初に言ったのだ。話したいことがある、と。だからこそ、身構えてしまう。彼女が何を話すのか、気になるがそれをわずかに恐れている自分も存在しているという状況であった。
振り返ってみると、この静寂はまるで拷問のように感じられた。いつまで、この状況が続くのかと考えると、我慢ならなかった。
「で、話って、その、何なんだ?」
満を持して聞いてみる。彼女が一瞬、ドキリとしたように体を震わせたのがこちらの不安をさらにかきたてた。これでは精神がもたないと状況をポジティブに考えてみる。女の子の二人きりというだけでも俺にとっては革命だということにしておこう。しかし、その考えは一瞬で消え去った。勝手に想像を膨らませるのがなんだか悪い状況のように思えたのもあったが、そんなことをしなくとも彼女が内容を話し始めたのだ。
「先輩は私が昔、田舎の街から転校してきたことをご存知ですか?」
俺は「ああ」と返事する。この前聞いたばかりなので忘れるわけがない。彼女が中学生のときだ。転校するまでは友達もたくさんいたのに、転向後は現在に至るまでほぼ孤立状態にあるのだという。彼女はきっと図書館での一件みたく「私にどんな物語があると思っているんですか」的な言葉で否定してくるのだろうが俺は知っている。その前の電話で彼女自身が孤立や転校だなどと墓穴を掘るかのように言っていたのだから。彼女も一応は覚えていたのかもしれない。ただあのとき否定したのはおそらく、他人からそれについて干渉されるのが嫌だったためであろう。気持ちは分かる。
「実は夏休みの終わった新学期から転校することになっていたんです」
彼女はこちらに目を合わさずどこでもない遠くを見るように言った。その無感動な瞳はあえて感情は殺しているようだった。
「随分と急な話だな。いや、急というわけではないのか」
「はい、高校に入学してすぐのことでした。両親の離婚が決定したんです。あなたの想像や言葉通り、私は学校に馴染めていません。それは私の母も同じでした。関西の片田舎から出たことのなかった母は疲れてしまって……正直この三年間見ていられませんでした」
彼女は語る。まるで物語の語り手のように、言葉を紡ぐ。
「母は前の家に戻りたいと父に強く打診していましたが父はこの街を出るわけにはいかないの一点張りで、まあ、当然のことかもしれません。会社の命令でこの街に来たのですから家族を養うためにもそう簡単に帰るわけにもいかないのは私でも理解していました。だから誰が悪いわけでもない。ただお互いの重要なことがぶつかってしまって両親の関係が悪化したんです」
俺は黙って耳を傾けていた。両親と思春期らしい関係を繰り広げているだけの俺にとっては想像するのも少し憚られる内容であったが、特に珍しい話ではないことも分かっていた。三組に一組は離婚するといわれる世の中、その中の事例の一つに過ぎないことなのだ。しかし、それを体験した人物にとってはたまったものではないだろう。彼女と目を合わすのが怖くて、情けなく視線を落とした。いや、俺は今の彼女をどう見たらいいのか分からなかった。それこそ、今の彼女は見ていられなかった。
「それでとうとう離婚が決定したわけですが私は母の方に引き取られることになったんです。父が言ったんですよ。お母さんを独りにしないであげて、って」
いい親父さんだな、そんな言葉をかけてやるべきなのか――そう思ったが何も言わないでおいた。俺がそんな言葉を言っても何も変わらない。口出しすべきことではない。余計な言葉は彼女を逆に傷つけてしまうかもしれない。そう思うと怖くて怖くて仕方なかった。
「こればかりはどうしようもないことなんです。それに、正直、その時は嬉しく思ったりもしちゃったんですよね。ああ、やっとあの家に帰れる。そうだ、やっぱり私の居場所はあそこなんだ」
おこがましいことかもしれないが、俺は彼女と自分を重ねていた。
俺はどうなんだろうか。俺だったらどう思うだろうか。しかし、その答えは出なかった。テストの問題のように時間内に出せる答えではない。もしかしたら一生かかっても答えは導き出せないのかもしれない。実は答えを出すことさえも間違っているのかもしれない。
それは彼女の世界だ。
きっと彼女でしか答えを出すことも、それを放り出すも決められない世界なのだ。
「でも、なんででしょうね。今はそれがすごく悔しいんです。この街を去るのは嫌じゃないのに。私は私を馬鹿にした人たちから逃げることになるんじゃないか。私は私を馬鹿にした人たちの頭から一瞬で消えてなくなるんじゃないか。それはただの悲観的な妄想で自意識過剰な思考かもしれません」
すると、直前まで無表情で淡々と語っていた彼女は唇を噛みしめた。それは行き場のない苦しみや悲しみでゆがんで見えた。
「でも、この前聞いてしまったんです。私のクラスの私を馬鹿にした人たちが、ああ、あいつ早くどっか行ってくれねえかな、って言っているのを……! やっぱり、世界は敵ばかりです……っ!」
彼女の声は震えていた。震えて、このまま消え去ってしまいそうだった。
不謹慎極まりないが、意外なことに彼女は涙を流してはいなかった。感情はあふれ出ているのに、あんなにうわずっているのに涙は出ていない。
「……先輩?」と彼女が俺を見た。
「ごめん……俺は葉渡になんて言葉をかけていいか分からない」
口がすべったのではない。
それが今の俺が言える、何も言えない俺が言える唯一の言葉だった。
「今日は……ありがとうございました」
彼女はそう言って去っていった。
半分が空になったベンチを見やる。
今の今まで隣にいた彼女がいなくなるのは一瞬で、俺は身体を動かすことも声を出すこともできなかった。
ただ消えて小さくなっていく彼女を見ていた。
彼女が振り返ってこちらを見ることはなかった。
「どうされましたか?」
ひとりの老紳士が俺に問いかけた。
いつのまにか辺りは暗くなっていた。いつのまにか俺の背後の家の窓からは明かりが漏れていた。
一体、どれだけの時間が経っていたのだろうか。どれだけの間、俺は一人でここにいていたのだろうか。 まるで、彼女は最初からここにはいなかったのではないか――そう思わせるほどの時間が経ったような気がした。
この長い時間、何を考えていたのかを俺は思い出せない。
彼女のことを考えているようで考えていなかったのは間違いなかった。
俺は何も考えていなかった。思考を放棄していた。
「俺は、最低ですね」
何も知らない老紳士は何かを考えるように顎に生えている白髭を触った。
「若いうちは誰しもそう思うものです。私もそうでした。あなたは人間味に溢れている人だ。感情を殺しているようで生かしている。だからそれほどに思いつめた顔ができるのでしょう」
老紳士の言っていることはなんだか少し分かりづらかったが、俺を励まそうとしてくれていることははっきりと理解することができた。そして、それゆえに痛かった。
「すみません、失礼します……」
俺はベンチから立ち上がり、老紳士に一礼した。
店に入らず、そのまま帰る俺を老紳士は止めなかった。俺が彼女を見送った時と老紳士のそれとは意味合いが異なるように思えたが、その意味の正体は分からなかった。




