17
赤に染まった彼女。
月に染まった彼女。
昔からの知り合いの彼女。
親友の妹のかわいらしい彼女。
気がつけば一緒にいた彼女。
その彼女はどれも本物で。
もちろん嘘なわけはなくて。
だから彼女が俺に示した「好き」もきっと、きっと本物だ。
彼女はいま何をしているのだろうか。
彼女はいま何を思っているのだろうか。
自分が問いかけている月を――彼女も見ているのだろうか。
その夜、ひとり自室でもだえる。
というより何が起こったのかをまだ理解できていない部分が大きかった。しかし、それが何よりも現実で起きた出来事であることは理解していた。理解せざるを得なかった。
俺は花山愛乃に告白された。
なぜ、なにゆえ、あのタイミングだったのか。いや、それは俺が勝手に思っているだけで彼女にとってはあのタイミングしかなかったのかもしれない。あの表情を見ればそれがどれだけ必死だったかということくらい、誰だって分かる。あのタイミングを逃せば、きっと一生言うことはできない――それくらいの覚悟をもって臨んだに違いない。
妄想だ。
そんなの、ただの俺の勝手な妄想だ。
俺はただ月を見上げ、そんな自問自答し続けた。
返事はできなかった。それっぽく「少し考えさせてくれ」なんてことを言った気がする。普通なら、これは喜ぶべきことなのだろう。生まれて初めて告白されたことはもちろんだが、何よりも、喜ばなくては相手が報われないではないか。それが分かっているのに素直に喜べない自分は、誰よりも愛乃のことを傷つけているのだろう。
最低だ。
なぜ、喜べない。
彼女のことが嫌いなわけではない――むしろ、好きだと言ってもいい。
はて、では、俺が別に好きな人がいるということになるのだろうか。自分のことも分からない阿呆な俺が他人の複雑な心情を読み取ることなどできるはずもなく、ただ月に答えを問うことしかできなかった。
本当に、最低だ。
「おまえもやっと事の重大さに気づいたのか」
奥村が安堵したように言った。彼が持っているのはこの前のものとは違う問題の書かれた小テストの答案用紙だ。大幅に点数を上げ、その点数の記入欄には八十五と記されていた。十分な合格圏内である。
「そういうことなんですかね」
謙遜して言ったわけではない。なぜなら、本当に、奥村が言うような事の重大さに気づいて慌てて勉強したわけではなかったからだ。
波紋のように広がり続ける事象を持て余した最低な俺は、一瞬でもそれを忘れるために勉強に精を出した。ここまで時間を忘れて集中したのは初めてだったと断言できるほどに俺は終始、頭をはたらかせていた。気づけば朝になっていたというのも初めての経験であった。
「白河……は、今日も来ないか」
奥村は俺の隣の席にこの前までいたはずの彼女を思い出したようにそう言った。
「最近、全然来ないですよね」
白々しく言ってしまったが原因あきらかにこの前の一件だろう。そうとしか思えないし、そうでなくては最も補習の意味について考えていた彼女がこうも欠席し続けるなどありえないように思えた。
「他の教科の補習には出ているんですかね?」
なぜ、そんなことを聞いてしまったのか。現代文の補習にだけ出ていなかったとしたらなんなのか。もしそうだったら、と考えると理由もなく悲しい気持ちになった。
「いや、出ていないそうだ。まあ、あいつははじめからすでに追試突破できるくらいの頭はあったからな。ただ、ここまで顕著に来ないと教師としては見過ごすことができないわけよ」
たとえそれが俺の言葉による理由だったとしても、と彼はつづけた。奥村も、自分の言葉が原因であることを自覚はしていたのだろう。
「どういうことですか?」
俺は聞き返した。
「補習に来なくなったのは百歩譲って良しとしよう。でも、このまま学校に姿を現さないのはいただけない」
俺の時はなんとしてでも補習に来いといったことを言ったくせにいい加減なものだ、と思う。
「白河が白紙回答や急に補習に来なくなったといったことをするようになったのはあきらかに彼女自身に何かがあったと考えるのが正しい。では、それを解決する。それができなくともせめて話を親身になって聞いてやる。それが教師の役目ってものだ」
「でも、どうするんですか?」
直接、「学校に来い」と言って彼女がそれに応じるとはとても思えない。かといって彼女の家に家庭訪問といった形で上がり込むのもあまりよろしくないだろう。何か特別な理由があったのならまだしも、ただ補習に来なくなっただけで家庭訪問など、教師にとってよろしくない。一人の生徒に過剰に入れ込む、いわば特別扱いするのは禁止だと聞いたことがある。先生はみんなの先生でなくてはいけないのだ。俺ならまだともかく、白河さんの担任でもなんでもない彼ならなおさらである。
「これを使うんだよ」
奥村は一枚の紙を俺に手渡してきた。小さい紙には第一志望校、第二志望校、第三志望校といった枠が設けられている――それは言うまでもなく進路希望調査用紙というやつだった。
「急遽、補習の生徒を対象に進路希望調査を実施することになった、ということになった。これであいつをおびき出す。名付けて、やむなく提出しに来ました作戦、だ。もうすでに紙は家に渡してある」
奥村がにやりと笑った。
「そんなことしてもいいんですか」
「さあな、でも理にはかなっていることだと思っている。補習対象者はそろって進路が定まっていない奴が多い。飯田、おまえもだ。この前の進路調査、あれ白紙で提出しただろう」
「そうでしたっけ」
奥村は嘘なんかつくかよといった様子で俺を見る。
「この時期に進路が決まっていないのはやばい、と教師なら言った方がいいのかもしれん。けれど実を言うとそうでもなかったりする。一番、問題なのはやりたいことがないことだ。将来の夢ほど行動の理由になるものはないんだぜ」
「…………」
俺は静かに手元のそれを見つめた。
「やりたいことは今を生きる理由につながると俺は思うんだよ」
そうなのだろうか。そういうものなのだろうか。
俺には分からなかった。やりたいことが分からない、いや、忘れようとしていた自分には。
『おまえ、生きていて楽しいか?』
いつの日か、そんなことを言われた。悪夢なんかではない。それは俺が本当に言われたこと。高一の頃だ――俺はなりたいものを失った。将来よりも現実を見てしまったからかもしれない。
未来、過去、そして現在――一番、大切なのはどれなのだろうか。一つに視点を絞ると、あとの二つはどこかへと消えてしまった。いずれにせよ、不器用な俺はその三つのどれをとっても結果は同じだったのかもしれないが。
将来よりも現実を見る。それが悪いことなのか否か――それすらも俺には分からない。
「とりあえず、できるだけ早く提出な」と奥村が言って今日の補習は終わった。
教室を出ると体を包む熱気がさらに熱される感覚がした。今日は昼前から始まったので終わった今の時刻を確認すると時計の針は午後二時を指していた。一日で最も暑い時間帯であった。
少しでも暑さを紛らわせようとカバンの中に入った本を取りだし、読みながら帰り道を歩いた。歩き読書があまり良くないことは知っていたが、何かをしていないと別の色々なことを考えてしまいそうだった。だから暑さを紛らわすためというのが噓であることも本当は分かっていた。今はあまり考えるという行為をしたくなかった。考えても答えの出ないことばかりなのが辛かった。
歩き読書の弊害は歩きスマホのそれとまったく同じである。何よりも多いのは人とぶつかってしまうことだ。
「おっと!」
「あっ!」
曲がり角を左に曲がった時だった。普通ならば曲がる直前で人影に気づき、対処することができたかもしれない。しかし、今の俺にそんな器用なことができるはずもなく、なすすべなくその身をぶつけてしまった。相手はのけぞった。俺ものけぞり、突然のことに対する驚きで思わず持っていた本を落としてしまう。相手も、持っていたビジネスバッグを落とし、その中身は地面へと吐き出された。
「……っ! 申し訳ないです」
「いやいや、こちらこそ……考え事をしていたものでして」
そう言った相手はあきらかに俺よりも年上の男であった。おそらく、うちの両親と同世代くらいだと思う。俺は地面に散らばった中身を拾うのを手伝う。ちなみにこちらの荷物はリュックサックだったので地面に落ちることはなかった。
「あっと、こりゃあどうも」
男が軽くお礼を言う。当然のことだ。おそらく、悪いのは八割がた歩き読書をしていた俺の方なのだから。
散らばったのはおおかた、それらしい書類だった。内容はもちろん、見るわけにはいかないし、たとえ見たとしも理解できないだろう。しかし、一つだけ見覚えのある紙があったのを俺は見逃さなかった。それはまさしく俺が今日手にした進路希望調査用紙であった。なぜ、彼がそれを持っているのか――不思議に思ったがすぐに理由は分かった。一瞬であるがそれの氏名欄に「白河ゆな」と書かれているのが見えたのだ。
おそらく、彼は白河さんの父親なのだろう。彼女の書いた進路希望調査を彼が代わりに提出しに来た、と考えると納得である。つまり、それは白河さんが奥村の考えをすり抜けたということであり、奥村の作戦は失敗だったということである。ほんの少しであるが奥村のことがかわいそうに思えてしまった。
そして、その進路希望調査にわずかな違和感を抱いた。何かがおかしい。しかし、その正体が何であるかを知る前にすべての書類は綺麗に彼のカバンへと戻ってしまった。
彼は最後に俺の本を見やると、
「本か……」
と苦虫を噛み潰したような顔をして言った。
なぜ、そんな顔をするのか気になったがそんなこと、初対面の人に対して聞くことではないので忘れることにした。いや、深くは考えないことにした。
彼は俺に一礼して去っていった。おそらく、学校へと行くのだろう。奥村が彼を前にしてどのような表情をするのかわずかに気になったが、わざわざ学校に戻る気はしなかったので、そのまま帰り道を辿った。本は読まなかった。




