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六章『排水路の住人』

 西日が街の陰へと沈む夕暮れ時。

 道端には白昼、降り注いだ雪の残滓が寄せられていた。

 凌介を苦しめたあの寒気は跡形もなく、穏やかで温暖な空気に身を包まれる。

 石畳の街道を再び足で踏む凌介だが、今度は裸足でなく、何製かも知らぬ皮靴を履いていた。


「……」

「そ、そんなに俺のこと見詰めて、どうした?」

「うーーーん__貸したのはこっちだけど、そのローブ……全然似合ってないね」

「どストレートォぉおお! ああ、分かってたよ……そんな気してたよ、ふっ」


 アイラの指摘に、凌介の体がくの字に折れる。


「あっ、いや……合うものがなくてごめんね」

「まあ確かに、仰る通りなんだけどな」

「リゲルさんは身長高いからね」


 優に百九十センチを超えるあの憎たらしい亜人のローブを纏う凌介の身長は百七十強。当然サイズは全く合わない。

 両手は何度も捲らなければ見えず、膝まで届く裾に体のほとんどが隠れる。

 だからこそ、このローブを選んだのだが__



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



「__お願いします!」

「あァ?」


 床に頭を擦り付け、土下座の姿勢を取る凌介の前でリゲルが不愉快に眉を顰める。

 腕を組み、不機嫌な感情を隠そうともしないリゲルの横ではアイラがおどおどと立ち尽くしていた。


「おい小僧。もう一度言ってみろ」

「……ここで雇って__」

「却下」

「はやァ!?」


 言葉半ばで即断された凌介は顔を上げて叫ぶ。


「それに、まず何だ。そのふざけた姿勢は?」

「リゲルさん、これはリョースケの故郷では謝罪の姿勢で……」

「知らん」


 アイラのフォローも一蹴されてしまう。


「そこを何とかぁーーー!」

「触るな! 汚らわしい!」


 足に縋り付こうと手を伸ばす凌介からリゲルは距離を取る。

 袋から覗く真紅の瞳はまるでゴミでもみるかのような目だった。

 __我慢しろ……我慢するんだ……

 心の中で自分へと言い聞かせる凌介。罵倒の言葉にも歯を噛み締めて堪える。


 どうしてこうなったか? それを辿れば、治療を終えて一段落した彼が深刻な問題に気付いてしまったことに始まる。

 __この先どうすれば?

 持っている服も一着しかなければ、食い扶持もなく、帰って寝る家もない。つまり、衣食住の全てが彼にはなかった。

 それもそのはず。何かの目的があって異世界に来た訳ではないのだから。

 言うまでもなく、アイラへ治療代を払うことも出来ない。そもそも凌介はこの世界のお金がどういったものかも知らない。

 生活を送る以前に、生きるための問題。

 だらだらと汗を流す少年は閃くや否や、眼前の少女へと切り出す。


『俺をここで雇ってくれ!』


 当然ながら少女は最初、大いに戸惑うこととなった。

 しかし、川で死にかけていた自分を救ってくれたこの娘なら、と凌介は期待……ではなく確信を持っていた。

 たった一時間も話していないのに、この少女は大丈夫だと分かる。

 凌介自身も自分が卑怯なことをしている自覚はあった。

 案の定、アイラはしばらく狼狽えた後にリゲルの説得に協力すると言ってくれた。


「お前を雇う理由どころか、俺のメリットが一切ねぇじゃねぇか」

「どんな雑用でも熟しますから、どうかお願いします」

「リゲルさん、リョースケは行く先もないの。私が面倒見るから」

「おまっ、ぐぬぅ」


 凌介の言葉を切り捨てるリゲルだが、懇願するアイラに言葉が詰まる。どう言った訳か、リゲルはアイラに甘い節がある。

 そこが凌介に残された唯一の勝機。


「お願い……」


 涙目になるアイラに、リゲルは大いに狼狽える。アイラのあれは、恐らく作りものではないのだろう。

 彼女の優しさは本物だ__だからこそ、あの表情で、声で、言葉で訴えかけられれば並みの男に抗う術はない。凌介にも無理だ。

 それに、アイラとリゲルの構図を傍から見れば、それは親子の絵面だ。娘にせがまれる父親が呻いている。


「……二週間だ」

「「えっ?」」

「二週間は置いてやる。それからは自分でどうにかしろ」


 背を向け、石階段へと向かうリゲルの言葉に、凌介とアイラは目を合わせる。

 そして、

 __勝った!

 自分の事のように喜ぶアイラを横に、凌介は心の中で黒い笑みを浮かべた。



※ ※ ※ ※ ※ ※ ※



 こうしてリゲルが経営する診療所で雑用として雇われた凌介は、日が沈みかけた街中をアイラと共に歩いていた。

 凌介は自身の身長の半分以上もある巨大な木籠をリュックのように背負い、アイラの後に付いて歩く。中身はフラスコや瓶に入った大量の薬品やその材料だ。

 改めて世界を染める白銀が消えたことで、真にこの街の姿を目にする。

 街を構成する石畳や煉瓦が景観を統一している。新しい建物は少なく、どれも建てられてからそれなりの年月が経っていることが素人である凌介の目にも分かる。

 文明のレベルとしては中世程度だろう。

 夕陽に照らされて紅く染まる街は、東京に住んでいては感じられない美の感慨を胸に抱かせる。

 そして夕焼けに染まる世界の中__眼前の少女は一際鮮やかに輝く。

 蝋燭と暖炉で照らされたあの部屋が地下にあったせいもあり、まともな光で色を識別出来ていなかったが、日が暮れる前に地上へと出た凌介はアイラの髪に目を奪われた。

 艶のある綺麗な髪は夕陽よりも明るく、柔らかなオレンジ色をしていた。触れてみたいと欲望に駆られるも、どうにか自制するのは大変だった。

 陽系統の魔法に分類される変身魔法で生やした頭頂部の猫耳はピコピコと小刻みに動き、スカートからはみ出た髪と同色の尻尾が可愛らしく左右へと揺れる。

 今の彼女は猫人族(ケットシー)だ。

 (ヒト)の姿では凌介が経験したように追われることになると言って、診療所を出る前にあの可愛らしい姿へと変身した。

 また、凌介が診療所で働く二つの条件、その一つに『アイラとリゲル以外の人に顔を見せない』と言う条件を出された。

 未だにこの異世界事情について詳しくない凌介はアイラの言われる通り、リゲルのぶかぶかローブを纏い、大き過ぎるフードで顔を隠している。

 アイラの変身魔法は使えないのか? と聞いたものの、どうやら本人しか変身の効果はないらしい。魔力技術の限界の問題と言われれば文句は言えない。


「届け先って二箇所なんだよな?」

「そうだよ。もうすぐ着くからね……疲れた?」

「まあ、色々あったし」

「診療所で休んでいても良かったのに」

「それは無理だよ。雇ってもらうからには、こうして荷物持ちでも何でもやんなきゃだしさ」


 俺の答えにアイラは笑いながら、偉い! と微笑む。

 リゲルに任された最初の仕事は、訪問診断の荷物持ちだった。

 薬品の詰め込まれた木籠を背負い、訪問先を回る。簡単な仕事だ。

 今まではこの木籠をアイラ一人で背負って回っていたようだが、凌介が代わりとなったために彼女は手ぶらだ。そのせいか、ちらちらと後ろを向いては凌介に大丈夫かと声をかける。


「大丈夫、大丈夫! これでも力には自信あるしさ!」


 アイラの心配を払い退けるために笑みを浮かべる凌介だが、本当はかなり重い……

 疲労も溜まっているために足が異様な程に重いものの、彼女の前では見栄を張る。こんなに重いものは少女に持たせるべきではない。


「それにしても、今日の寝床はどうしようか?」

「診療所ら辺に宿はないのか?」

「うーん。あるにはあるけど、あんまり治安が良くないから」


 リゲルの出したもう一つの条件。それは『食事や衣服は与えるが、寝床は自分でどうにかすること』だ。

 どうしてもリゲルは凌介と同じ屋根の下で寝たくないらしい。


「まあ、外で寝るよりはマシだよ」

「じゃあ、仕事終わったら宿に案内してあげる」

「何か色々とありがとうな」


 彼女の厚意には感謝してもし切れない。

 しかし、凌介には疑問でならない。


「どうして……どうして、見ず知らずの俺を助けてくれるんだ?」

「? どうしてって、困っている人がいたら助けるでしょ?」


 首を傾げ、当然のように答える少女に、凌介は思わず声を上げて笑う。


「えっ!? 何で笑うの! 私、何か変なこと言ったかな?」

「いやいや……何でもないよ」


 そうだった。彼女はそう言う人だった。

 『困っている人がいたら助ける』__それを当たり前に出来るからこそ、凌介がこうして命を救われ、生きているのだ。

 訊ねたのが馬鹿みたいに思える。


「着いたよ」


 川沿いの街道から階段を降り、川横の水路を下流へと向かって歩いていたアイラが足を止める。

 しかし、凌介は目を疑った。

 何故なら、彼らが足を止めたのは__


「アイラ……ここ、排水路だぞ」

「そうだよ」


 大きな通りから離れた小さな橋の下。川へと合流する水路が無数に存在する中の一つだった。

 どの水路も濁った水の色と、鼻が曲がりそうな程の凄まじい異臭に思わず指で鼻を抓み、口で呼吸する。

 しかし、鼻を刺すような匂いは指で抓んだ程度でどうにかなるものではなかった。

 喉を逆流しようとする胃酸が胸を焼く。今にも吐きそうだった。


「この上は住宅が密集する巨大な居住区画だから、生活排水が絶えずここを流れるの」

「にしてふぉ、こうぇはひゔぉいゔぁろ」

「あっ、凌介にはこの匂い辛いよね。これを鼻に詰めて」


 そう言って、凌介の背負う木籠のサイドポケットから葉の束を取り出し、その内の二枚を凌介に手渡す。

 言われた通り、丸めて鼻に詰め込んだ凌介は目を見開く。


「匂いが軽くなった!」

「本当はすり潰して、鼻腔に塗るのが良いんだけど、時間ないから」


 完全に消えはしないが、匂いは随分と軽減された。

 相変わらずアイラの薬材知識に驚かされる。

 しかし、当のアイラは鼻に葉を詰めていないにも拘らず、平然としている。

 何だか申し訳ない気持ちになるも、アイラが排水路の横に設けられた横道を歩き出したことで気持ちを切り替える。


「灯りとかないのか? 真っ暗だけど」

「もうすぐ点くから」

「点く?」


 アイラの言葉に首を傾げる凌介だが、


「動くな!」


 突然の怒声に凌介は肩を震わす。

 目前の暗闇から飛来した声には敵意が込められている。

 何時間か前に経験したあの殺意には劣るも、十分に危険な感情だ。


「大丈夫、私です。アイラです」

「ああ、先生でしたか。失礼しました」


 直後、明かりが灯る。

 光に浮かび上がった姿は凌介と同じ人間だった。

 アイラの言葉に警戒を解いた相手はこちらへと歩み寄る。二十歳程度の痩せた男だった。灯されたランタンを片手に、男はアイラへと一礼する。


「見張りお疲れ様です。それと、先生は止めてください。まだ正式に薬草医になった訳じゃないですから」

「それでも俺達にとっては先生ですよ。今回も来て頂きありがとうございます」

「その様子だと眠れてないでしょ。睡眠薬も持って来たから」

「本当に助かります、先生」


 アイラに何度も頭を下げる男は隈のある目元を細め、安心したように表情を緩める。


「ボル・アヴェグ」


 男が呟き人差し指を振るった途端。水路の壁に取り付けられたランタンが一斉にその灯火を燃え上がらせる。

 火系統の魔法だろう。

 __便利だなぁ……

 道を譲られ、奥へと進んだ凌介の元へ歓声が届く。


「先生だ!」

「来てくれたんだ、良かった!」

「ちょうど薬が切れてしまった所だよ!」


 アイラの元へと人々が集う。

 すぐさま大歓迎のムードとなった水路の脇道は集まった人達で混み合う。しばらく歩けば、水路横に小さな空間が開けた。

 薄汚れたその場所は人と物で溢れかえっていた。


「人が住む場所じゃないだろ、これ……」


 ガラクタで作られた居住空間は酷いものだった。これなら野宿の方がマシだ、と思える程に。

 元の世界では考えられない凄惨な光景。

 そして、気付く。


 アイラを囲う者達__その全員が『人間』であることに……


「リョースケ」


 アイラに呼ばれた意味を理解し、背負った木籠を下ろす。

 その場で調合した薬を配られた人達は嬉しそうな表情でアイラに感謝の言葉を述べる。

 それに応えるアイラも同じ笑みを浮かべていた。

 凌介には出来ない表情。

 囲まれるアイラから距離を取り、立ち尽くす凌介の元へ老人が近寄って来た。


「あんたさん、先生の所の新入りさんかい? わざわざ足を運んでもらって、感謝しとるよ」

「いや、俺はただの荷物持ちで、感謝されるようなことは__」

「ほれ、これでも食べんか?」


 老人が差し出したのは乾燥させた芋のような食べ物だった。

 周りの人がそれを見るや、『こら、爺。少ない食べ物を』『まあ、先生の助手さんなら良いか』『美味しいよ、それ』と声が上がる。

 遠慮しようにも、老人はグイグイと押し付けてくるため、止むを得ず貰うことにした。

 ありがとう、と礼を言って頂く。

 干し芋にも似た味だが、スルメのように噛み切れない。

 美味しいか? とフードの下の顔を覗こうとする老人に、


「リョースケ!」

「ア、アイラ? どうした?」

「もう行くよ。皆ごめんね、次の届け先に行かなきゃいけないから。また来るね」


 そう告げたアイラは急いで凌介の手を取り、来た道へと引っ張る。

 見張りの男に短く別れを告げ、排水路を出たアイラは後ろを歩く凌介へと振り返る。


「さっき、顔見られそうになったでしょ……」

「いや、確かに見られそうになったけど__」

「駄目!」


 アイラの真剣な言葉に凌介は言葉を断たれる。


「絶対に見せちゃ駄目……じゃないと、リョースケ__」



「__殺されるから……」


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