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三章『猫耳の天使』

 響く鈴の音。

 一つならば優しい音色の鈴も、十数__いや、数十と重なれば耳の中を掻き混ぜるノイズになる。更に狭い路地で木霊となることで、その効果は数倍増しだ。


 開いた口から漏れる息は切れ切れ。

 カラカラに乾いた喉を通る寒気は、酸素を求める肺を締め付ける。

 雪で見え隠れする足元は石畳の道だった。整備されているとは言え、石は石。裸足で走れば肌は裂かれる。

 商店街で四つ腕の亜人に切られた左肩は衣服が破れ、血が流れ出る傷口が覗く。

 傷が浅いのは幸いだったが、傷口を押さえる右手が触れた血は不気味な程に冷たい。


『この通りの先だ』

『敵は一人だ』

『黒の人族だ。油断はするな』


 背後から聞こえて来る鈴の音に、追っ手の怒号が混じる。

 向かう先にT字路が見え、ふと後ろを振り返る。

 追っ手の数は六人。白銀の甲冑を纏い、武器を握った四つ腕と高く翳した槍で鈴を鳴らす長腕。加えて、軽装の槍持ちが四人。


「クソっ、あの、長腕ェ!」


 どうやら長腕の亜人が鳴らす鈴の音で、近辺にいる増援を集めているようだ。

 ガシャガシャと擦れる鎧のおかげか、今のところ足の速さでは凌介が勝っている。

 元より足の速さにはそれなりの自信があった。とは言え、疲弊した体力面を考えれば長丁場は避けたい。

 追っ手の体力が切れるより先に、凌介の方が先にバテるだろう。

 再び前を向きT字路を左へと曲がる。

 確かに進んでいるはずだが、変わらぬ周囲の景色に凌介は円を描いて回っているのでは? と錯覚を覚えた。

 ジグザグに進んでいるはずだが、あまりにも変わらない風景に、いつの間にか同じ場所をぐるぐる回っているのでは? と不安が渦巻く。


 __どこかに隠れてやり過ごすべきか? いや、流れる血をどうにかしないと、垂れた血痕を辿られる……止血するにも立ち止まれないし、ペースを落としたら追い付かれる……


「結局、走り続ける、他ないって、ことかよ!」


 再び現れたT字路を、今度は右折しようと、


「あっ!?」

「えっ?」「ぬぅ!?」


 曲がる寸前に、角から姿を見せた軽装の兵士と出会す。

 顔を見合わせ、一瞬の思考停止後、先に我へと返った凌介が方向転換する。


「なっ! 待てぇ!」


 遅れて状況を理解した兵士達も、四つ腕達の追っ手組へと加わる。

 このままでは状況が悪化するばかり。

 __走りながら考えろ。足を止めず、起死回生の一手を考えろ!

 心の中で自分へと言い聞かせた凌介だが、不意に走り続けて来た細道が途絶え、開けた大通りへと抜け出た。先程の商店街同様、大通りは亜人で一杯だ。

 急ぎ次なる逃走経路を求めて辺りを見回すが、どこを見ても目に入るのは亜人ばかり。

 すぐさま凌介の存在に気付いた亜人達が悲鳴を上げる。

 引き返そうにも、追っ手は細道からこちらに迫っている。


「ああぁー、もう、どけ! どけぇえ!」


 声を荒げて叫び、亜人達を掻き分けながらこの大通りを進む。

 時には道端の樽や商品を転がし、時には亜人を押し倒し、少しでも時間を稼ぐ。

 __考えろ、考えろ、考えろ! 思い浮かぶ打開策は? とにかく考えろ!

 思考を止めれば、おそらく心も折れる。すでに追っ手の数は細道を抜けてから倍近くに増えている。

 脚は鉛のように重く、視界が白く明滅し始めた。


 限界(ムリ)だ。


 氷の張った川に架かる石橋。渡る半ばで凌介は足を止めた。

 向かう橋の先では白銀の甲冑を纏った亜人を中心に、数名の衛兵が待ち構えていた。

 引き返そうと後ろを振り向くも、既に追っ手が退路を塞いでいる。

 追い詰められた。

 両手を挙げ、降伏の意志を見せても、商店街の時のように命の保証はないだろう。

 凌介を睨み、橋を囲う亜人達は何を警戒してか、すぐに襲いかかっては来ない。四つ腕と長腕の亜人は再びこそこそと何かを話し合っている。


 しばらく膠着状態が続いた後、話し終えた四つ腕の亜人が石橋を踏む。

 慎重な足取りで凌介へと近付いた四つ腕の亜人は、武器を腰へと納める。


「貴様はどこから現れた? 仲間はいるのか?」


 意外なことに、その鎧の下から発せられた声は随分と若々しいものだった。

 更に四つ腕の話す言葉が凌介の知る日本語であることには驚いたが、意思疎通できるならまだ交渉の余地はある。


「質問には答える。だから、こっちからも幾つか訊ねさせて……」

「黙れ! 質問しているのはこちらだ!」


 返ってきたのは怒声だった。

 答える権利はあっても、質問する権利はないらしい。

 もう一度だけ訊ねようと思ったが、今にも襲い掛かりそうな亜人達の機嫌を損ねないためにも、無駄口は慎んだ方が良さそうだ。


「どこから現れたと言われても、気づいた時には路地に立っていた訳で……どこなんでしょう……?」

「貴様ァッ、ふざけているのか!」


 __至って真面目なんですがぁー……

 真面目に答えたつもりが、逆に相手を怒らせただけだった。

 しかし、別の世界からやって来た上、記憶喪失だなど信じてくれる訳がない。どう説明すべきか……

 すると、橋の反対で構えていた白銀の甲冑が叫ぶ。


「アルトス、ここでは市民が危険だ。奴がいつ邪法を使うか、分かったものではない。殺すべきだ!」

「しかし、この者が街中に現れた以上、他に黒の人族が潜伏しているかもしれないのだぞ。それに、我々騎士と言えど、この者の処遇を決するのは重過ぎる。団長に判断を仰ぐべきだ」

「拘束すると言うのならば、そいつの手足を斬り落とすべきだ!」


 アルトスと呼ばれた四つ腕の亜人は、しばらく動きを止めていたが、再びその腰から武器を引き抜く。

 凌介を拘束することに決めたらしい。

 対する凌介にとっては、たまったものではない。

 手足を切り落とす? 冗談ではない!

 勝手に結論を出されては交渉どころではない。

 逃げようにも橋の両端は亜人達によって封鎖されている。武器を振るう兵士達の間を抜けられる、などと自身を過大評価はしていないし、体力的にも不可能だ。

 四つ腕__アルトスもじりじりとその距離を詰める。それに伴い、包囲網も狭まって行く。

 __それなら、

 凌介の取った行動はシンプルだった。覚悟を決め、ある方向目掛けて駆け出す。

 向かうは亜人達の構える橋の袂……ではなく、


 凌介は石橋の低い手摺りを蹴り付け、氷の張った川へと飛び降りる。


 橋の高さは四メートル程。氷の厚さに一か八か賭ける。

 薄氷であれば冷水の待つ川底へ、厚氷であれば__

 迫る氷を瞳に映し、頭だけは、と頭部を庇った凌介へと衝撃が襲い掛かる。

 着地は左肩からだった。

 ビシリ、と言う不穏な音と骨の砕ける音は同時だった。灼熱に炙られるような熱を帯びた左肩に、凌介は息を詰まらせる。

 しかし、衝撃を受けた氷は__割れなかった。

 激痛を堪え、亀裂の広がる氷の上から離れた凌介は、感覚のほとんど残っていない両足を引き摺るように水路ならぬ氷路を辿る。

 後ろを確認しても、予測していなかった凌介の行動に、亜人達は呆然と橋の上からこちらを見詰めている。


「ざまぁ、みろ」


 そっと呟いた青年の顔は激痛に歪みながらも、一矢報いてやったと笑みを浮かべていた。

 目論見通り、奴らが飛び込んで来ることはなかった。

 鎧の重さは分からないが、明らかに凌介の体重を上回る重量の彼らが飛び降りれば結果は明白だ。

 追走の始まる前に少しでも距離を稼ぐため、棒となった足を動かす。

 痛みを堪えようとする息は荒らく、目元には涙が溢れる。


 ヒュンと、不意に耳元を何かが通り過ぎ、氷へと突き刺さる。

 風邪で流れる雲の隙間より陽光に照らされ、銀に染まったそれは眩く輝く。

 メイスだった。

 あの四つ腕のアルトスが振るっていたメイス。

 凄まじい勢いで氷に刺さったメイスからは小さな亀裂が広がる__しかし、割れない。

 恐ろしい投擲力に身を震わせながらも、命中しなかったことに安堵……することは出来なかった。

 持ち武器の一つを投げた理由に疑問を持ったのか、それとも単なる勘か。

 とにかく“何かが起こる”と言う予感に、慌ててメイスから距離を取ろうとする。


 突如として紅蓮に輝いたメイスから炎が広がった。


 炎は氷の上を這い、半径数メートルに渡る円内に広がる。当然、円の中にいた凌介も炎に包まれる。

 熱い、と言う言葉では足りない。足が、腕が、喉が、鼻が、目が。

 一瞬で全身へと燃え広がった炎に、凌介はその場でのたうち回った。

 熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い熱い……


 不意にのたうち回っていた地面ならぬ氷が消え、体は冷水に包まれる。

 体に広がった熱は消えた。

 川に落ちたのだと気付くには時間がかかった。

 肺が酸素を求め、危険信号を脳へと送るが、熱に包まれていた体が冷やされる心地良さに思考は停止していた。

 激しい水流に揉まれ、体は勢いよく回転する。

 もがく気力は残っていなかった。

 冷たく静かに這い寄る死に、微かな意識の断片も吸い取られていく。

 __怖い……

 そう感じた時には、既に遅かった。



 鷹浜凌介の意識は完全に途絶える。



※※ ※ ※ ※ ※ ※



 __死後の世界って、本当にあったんだな……

 開いた瞼の先で薄ぼんやりとオレンジに照らされる石造りの天井を眺めながら、そんなことを思った。

 パチパチと弾ける薪の音が耳へと届く。

 __暖炉か? なんかいいなぁ……

 ふと、首を傾け横に向く。

 誰か立っている。

 その横顔は可憐な少女だ。

 肩まで伸びたストレートの髪は蝋燭の明かりに照らされ、夕日のように綺麗な橙色で輝く。スラリとした細身の体躯や、女性として豊かな起伏が、体に巻かれた生地の上からでもはっきりと分かる。

 唯一気がかりなのが、頭頂部辺りの髪から伸びる二つの猫耳と、短めのスカートから垂れる柔らかそうな尻尾。

 凌介は確かに猫が好きであるものの、天使まで猫系の亜人に、とまでは飢えていない……

 __……ん? 猫系の亜人?


「うぉぉおお!?」

「きゃっ!?」


 思わず叫んだ凌介は飛び起きる。途端、全身を襲う痛みが未だ生きているのだと教えてくれた。

 対する猫少女は小さく悲鳴を上げ、手に持っていた陶器を床へと落とす。

 落ちた陶器は粉々に砕け散る。


「すいません、ごめんなさい! すぐにどこかへ行くので見逃して下さい!」

「お、落ち着いて。大丈夫だから。ね?」


 その場で土下座をして命乞いする凌介の肩を、猫少女がポンポンと優しく叩く。

 恐る恐る顔を上げると、少女はその可憐な小顔に笑みを浮かべ、頭の耳を両手で捏ねる。すると、どういった仕組みなのか、猫耳は髪の間へと潜り込み、顔の横から肌色をした人間の耳が生える。

 同様にスカートの中へと消えた尻尾を見届け、凌介は再び少女と目を合わせる。

 トパーズのように輝く黄金色の瞳は唖然とする凌介を捉えると、クスッと笑って細まる。

 まぎれもない人間の姿で、少女は駄目押しの一言を告げる。


「大丈夫、私も人族だよ」


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