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二章『始まりの敵意』

 樽の影で隠れるようにしゃがみながら、しばらく通りを観察していた凌介はその結果に頭を抱える。

 何しろ、凌介と同じ純粋な人間が一人も見当たらないのだ。

 凌介は『人間に似た何か』を一先ずの所、『亜人』と呼称することにした。コスプレという可能性は異様なまでの再現度と生物的動きによって否定された。

 馬鹿らしいと思っていた妄想は、徐々に確証を得ていく。


 異世界への転移? 転生?


 以前の世界__凌介の住む“現実世界”とは別の世界に飛ばされた、と考えればありえない現状も呑み込め……る……

 しかし、どういったキッカケが元で飛ばされたのか。最後の記憶を辿ろうとしても、靄に覆われるようにぼーっとして何も思い出せない。


「思い出せないものを悩んでも仕方ないか……うっし!」


 気合を入れるように己の膝を叩き、腰を上げる。

 凌介の足も裸足で雪を踏み続けることに耐えかねている。ここで彼は一つ、覚悟を決めた。

 __通りかかった亜人に声をかけてみよう!

 出来るだけ貧しい人アピールをして、相手の良心に訴えかける、という卑賤な考えを実行すべく、大通りへと一歩踏み出す。

 この際、暖を取れるなら手段は選ばない。

 幸いなことに、通りは亜人で溢れていたために声をかける相手には困らなかった。


「あ、あの、すいません! ……って、そもそも日本語通じるのか?」


 訊ねる最中にも拘わらず、凌介の口から重要な疑問が零れ落ちる。

 しかし、凌介の言葉に横目で反応を見せた亜人はその場に足を止める。

 羽織った外套の隙間から覗くその肌は艶のある緑色の鱗に覆われ、黄金色の瞳から縦へと伸びた瞳孔が凌介を見詰める。丸まった背中から下へと視線を移せば、長く伸びた尾を引きずっているのが目に入る。

 顔が巨大なトカゲであるこの亜人が、ファンタジー世界で蜥蜴人(リザードマン)と呼ばれる存在だとすぐに分かった。


「あぁー、ハロー? プリーズ、ヘルプミー?」


 外国人と話したことのない凌介にとって、初の実践英語__とは言え、これも通じるかは不明。

 元より亜人達に対して言葉が通じるか分からない時点で、勇気を振り絞ったファーストコンタクトが失敗していたのだ、と遅からず気付いてしまった。

 相変わらずリザードマンは凌介を横目に、唖然と口を開いてその場に固まっている。

 徐々にその瞳孔が大きく広がり……


「クッ、ク、黒ノ人族ゥゥゥ……ゥ__」

「えっ……あれ、日本語? って、おい、大丈夫かよ!」


 耳に響くような甲高い叫び声を残し、リザードマンはその場に崩れ落ちる。倒れた拍子に頭でも打ったのか、口端から涎を垂らしたまま動く様子がない。

 本格的に心配になってきたところで、凌介は周囲の変化に気付く。

 数十もの亜人が倒れたリザードマンと『何かをしたかもしれない』凌介へと視線を向ける。

 最初は興味本位で向けられた視線が、一瞬の後に恐怖へと移り変わり、


「違っ、俺は何も__」


 凌介の否定の言葉は亜人達の悲鳴によって塗り潰される。

 手に持っていた買い物籠を投げ出し、店先の商品棚を倒す。混乱した亜人達は四方八方へと散らばって行く。

 気付いた時には、凌介を中心に亜人達が半円を模っていた。

 手に鋭器や鈍器を持ったまま身構え、その切っ先を凌介へと向ける。どれも店先に並んでいた商品を急拵えの凶器だ。

 亜人達の視線に含まれるのは凌介が今までに味わったことのない恐怖や敵意、嫌悪の感情だった。


「待ってくれよ。本当にお、俺は何もして__」

「どけ! 邪魔だ、退がれ!」


 弁明の最中、群衆の中から怒鳴り声が響き渡る。

 それは流暢な日本語だった。

 群衆を掻き分けるようにして、奥から現れたのは白銀の甲冑を纏った二人の人物だった。

 厳つい兜に隠されたその顔は見えないが、彼らも亜人であることは顕著な身体特徴で見て取れる。


 片方は細身で背丈も相当に高いが、何よりその腕の関節__肘に当たる部分がそれぞれ両腕に二つずつある。そのせいもあってか、降ろされた左手は地面を掠める程に低い位置にあった。反対の右手は先端に大量の鈴を取り付けた、風変わりな槍を握っている。長腕の亜人とでも呼ぶべきか。

 対して、長腕と同様の鎧を纏うもう一人の亜人は、その肩口から四本の巨腕が生えている。全身フルプレートの鎧の上からでも洗練され、隆起した筋肉が備わっているのだと分かるがたいの良さだ。凌介の生物的本能が逆らってはいけないと警告を発している。


 状況を精査するように凌介と倒れたリザードマンを見た四つ腕と長腕の亜人は、何か小声で呟いている。

 二人の亜人が何を相談しているかは分からなかったものの、緊迫した空気に凌介は耐えられなかった。

 そもそも勝手に倒れたリザードマンに事情を聞くべきだ、と恨みがましく目の前で寝そべっている蜥蜴野郎を睨む。幸いなことに息はしており、気を失っているだけのようだ。

 それよりまずは、


「いい加減、俺の話を聞けよ!」


 喚くように漏らした声に、亜人達はビクリと体を強張らせる。あまりに過剰反応し過ぎだ。

 何事かを話し合っていた長腕もその槍を構え、四つ腕は腰から得物を抜く。四つの手にそれぞれ、メイス、曲刀、片手斧、そして繊細な彫刻を施された騎士剣が握られていた。


「黒の人族よ。そのリザードマンから離れろ」

「は?」

「離れろと言っている!」

「わ、分かったよ。そ、そんなに興奮するなって」


 下手に刺激してこれ以上状況を面倒なことにすべきではない。そう判断した凌介は素直に彼らの指示へと従い、倒れたリザードマンから離れ、隣の店先まで両手を上げたまま移動する。

 『黒の人族』と言う呼び方に違和感を感じるも、口にはしない。

 リザードマンから離れたのを確認した四つ腕は、隣に立つ長腕へと目配せをする。

 一定の距離を保ったままリザードマンの傍まで慎重に歩み寄った長腕は、空いた手で外套を掴み、意識を失ったリザードマンを引き摺って後退する。

 この間も槍の切っ先は凌介へと向けられたままだった。


「レイヴス」


 低くくぐもった声が長腕の亜人から発せられたものだと気付くには時間がかかった。

 その声に反応して頷いた四つ腕の亜人は騎士剣を真っ直ぐと凌介に向け、告げる。


「これより黒の人族を討伐する」

「……討伐? 何を__」


 疑問を口にする直前、兜から覗く冷酷な碧眼と視線が交わる。

 恐ろしく澄んでいて、それでいて乾き切った瞳。そこに込められた感情が本物の殺意だと、日本で平和に過ごして来た凌介には知りようもない。

 とはいえ、それを本能的に感じ取った凌介は思わず後退りする。

 不意に足が何かに引っかかり、目線は天を向く。

 臀部の痛みで自分が転んだことに気付くも、何に足を取られたかを確認しなかった__ではなく、出来なかった。


「__ぅえ?」


 凌介は自身の股、その先数センチの所で抉るように地面へと突き刺さったメイスを目にする。

 その柄を握るのは四つ腕の亜人。

 もし凌介が転ばなければ、地面に刺さる程の怪力で振るわれたメイスは__何に当たっていたか?

 四つ腕はメイスを引き抜くと同時に反対の腕で握った曲刀を振り被る。

 言うまでもなく、その冷たい眼光が狙う標的は凌介だ。

 この時になってようやく凌介は状況を呑み込んだ。


 自分が今この瞬間に殺されようとしていることを。


「あああーー!」


 絶叫を発しながら、咄嗟に右手が触れていた革の袋を投げ付ける。

 凌介からの思わぬ反撃が功を奏し、四つ腕は咄嗟に身を引き、振り被った凶刃は革袋へと向けられた。

 鋭い刃が何製かも分からない革袋を両断した直後__

 バフン、と袋の切断部から赤い粉末が盛大に飛び散る。


「がっぅ!」


 投げた勢いもあり、飛散した粉末は慣性に従って四つ腕を襲った。

 広がったのは煙幕と化した粉末だけではない。鼻水の詰まった凌介の鼻でも嗅ぎ取れる程、強烈な匂いが撒き散らされる。

 どうやら革袋の中身は何かの香辛料だったらしい。

 突如、何かが左肩を掠める。

 ひんやりとした冷たさの後、疼くような熱。

 四つ腕の振るった凶器が肩を掠めたのだと知る。

 しかし、先程のメイスが外れたのは凌介の幸運であり、あの一撃には明確な殺意が込もっていた。四つ腕の亜人が今の攻撃を外す必要はないし、考えられない。

 赤い煙に覆われ、噎せ返ったように咳き込む声を聞いて、香辛料がその猛威を振るったのだと気が付く。


 好機(チャンス)


 震えてちびりそうな体に鞭を打つ。


 選択肢は一つ。


 地面に転がる幾つかの革袋を鷲掴みにすると、元来た細道を目掛け全速力で走り出した。

 相手はこちらの弁明に耳を貸すことなく、問答無用で殺しにかかって来る。足を止めれば殺される。

 それならば、振り返ることなく走って走ってただ走る__逃げるしかない。


「ふっ、ざけんなぁ!」


 こうして、凌介の異世界物語、その序幕は逃亡劇から始まった。

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