一章『Hello 異世界?』
目覚めは唐突で、それでいてとても静かだった。
何か長い夢を見ていた気がするものの、覚醒に次ぐ倦怠感で思考は中断される。
瞼は重く、喉がヒリヒリと痛む。まったく最悪な寝起きだった。
背中から伝わる柔らかな感触に、少年__ 鷹浜 凌介は自分が仰向けに寝転がっているのだと気付く。
まるで羽毛が目一杯詰められた寝台へと身を委ねるかのように、背中の支えは体の重みでゆっくりと沈み込む感覚が伝わってくる。
泥濘へと落ちるように睡魔が誘う。このまま二度寝をしたい欲望に駆られるも、意思とは反して徐々に全身の感覚が冴え渡って行く。
身に纏った服が地へと引かれ、薄めの生地が肌に密着する感触。髪を撫で、くすぐるように鼻へと流れ込む微香。そして、骨まで凍り付いてしまいそうな……
「__って、さブぅぅぅッ!?」
冗談では済まない程に暴力的な寒さは骨の髄まで貪ろうとしていた。
堪らず飛び起きた凌介は重たく閉じていた瞼を開き、その瞳に眼前の光景を映し取る。
辺り一面を覆い尽くすのは、白__たった一つの汚点も見当たらない、正しく純白と呼ばれるものだった。
その光景に凌介が驚くのも束の間、鼠色の空から白い玉が降り注いでいることに気が付く。
掌を差し出し、白い玉を指先に捉える。目を凝らし、落ちた白い玉を見れば、それが規則的に象られた結晶だと分かる。
「雪?」
結晶は指先の体温に溶かされ、その形を失う。
白いものの正体に見当が付いてから、先程まで自分が何の上に寝転がっていたのかを理解するまで時間はかからなかった。
それに従い、四肢まで駆け巡る寒気に全身が震え上がる。
肌で寒い程に感じているが、気温は高くない__寧ろかなり低いと言える。そんな中、夏用の半袖半ズボンで雪の中に寝転がっていた自分の神経が信じられなかった。
とは言え、今は八月。凌介の住む東京も近年では珍しくもない猛暑に見舞われている最中のはずだ。
そのはずが、一体どうして極寒の雪中にいるのか?
いくら雪が降ったとしても、高二になった凌介が半袖半ズボンなどと言う馬鹿げた格好で外に出る訳がない。小学生ではあるまいし……
自然に考えて、半袖半ズボンで凌介が出かけた後に雪が降り始めたと考えるべきだろう。おかげで青みがかった半袖のTシャツとグレーの半ズボンは共にびしょ濡れだ。
だが、雪や服装の疑問は強引な説明で呑み込むとして、どうして雪の上に大の字で寝ていたのか? それだけはどうしても分からない。
記憶が、ない。
自分の名前や出身が分からない、と言う類ではない。今日一日、凌介自身が何をしていたのか、どうしてこの状況にあるのか、が全く思い出せないのだ。
「まさか、この歳でボケたなんてことないよな?」
記憶喪失、と考えるべきか。アニメやドラマの中だけの話と考えていたが、まさか自分に降りかかるとは思っていなかった。
――と、とにかく状況の整理が先だ!
心の中で自分に言い聞かせ、改めて周囲を見渡す。一見、雪に埋もれて白く染まった世界だが、よく観察すれば多くの情報が読み取れる。
まずは場所。凌介が立つのは人が二人横に並べば道を塞げる程に狭い細道だった。
そんな通りを両側から挟むように黒い鉄柵が並び、その奥には煉瓦や石材の使われた建物が軒を連ねている。
三階建て程度の高さに統一された建物の形状は西洋風のものばかりだ。
東京ではとても見られない光景に凌介は一種の感慨を抱く。
だが……それは同時に、ここが凌介の暮らす東京ではないことを示していた。
それならば、ここはどこなのか?
誰かが眠る凌介を東京からこの場所まで運んで来たのなら納得出来ないこともないものの、そんなことをする理由は……?
結局、何かのサプライズ企画、と浮かんだ考えが最有力となった。
未だ疑問は尽きない。
誘拐や拉致といった嫌な懸念も胸に渦巻くものの、こんな道端に放置する理由はない。
今にも終了の看板を持った芸人でも現れるはず……
しかし、先程から人っ子の一人も見当たらないのは気がかりだった。時々、遠くから喧騒のようなものが耳に届くため、近くに人はいるのだろうが……
それにしても、随分と大それたサプライズだ。誕生日とかではないのだが……
「ぁあ……暖かい風呂に入りてぇ」
ほんの数分、雪を踏んでいるだけで足の感覚はほとんど失われてしまった。今まで他のことで頭が一杯だったため彼自身も気付いていなかったが、雪を踏む足は裸足だった。
冷たさと言うより、針に突かれるような痛みが足裏を駆け巡る。
本当にこのまま待っていればいいのか?
寒さに消耗した気力も体力も、それ程長くは保たない。凌介自身もそのことは理解し始めていた。
早く迎えに来てもらいたいのだが……もしかして動かないのは番組的に映えない?
ならば移動すべきか。そうすれば早く終わるだろうか。今すぐにでも終わらせて欲しい。
渋々、痛む足を動かし遠くから響く音を頼りに移動を開始する。
地元住民もグルでの企画なら分かるが、
何度目だろうか。
時々、通り過ぎる窓から『視線』を感じる。一つや二つではない。
ふと、凌介が視線の一つに目を向けると、即座にその視線が消えた。代わりに閉め切られたカーテンが揺れる。
一度目は何だろう程度にしか考えていなかったのだが、三度目を超えればさすがにおかしいと気付く。
これが幽霊か何かの仕業でないとすれば――そこにいるのは人、のはずだが。
試しに柵を越え、近くの家の戸を叩く。
しかし、いつまで経っても返答はない。
「このまま凍死したりして……はは、笑えねぇ……」
何とか軽口を叩いて自分を励ますつもりが、冗談では終わらない可能性に顔は引きつっていた。
全く知らない土地で一人彷徨う凌介を天が哀れんだのか、空から降り注ぐ雪はその勢いを徐々に弱める。
とは言え、体の芯まで凍えさせる寒気は未だ健在のままだった。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
歩く度、地面に浅い層を成した雪が足の重みに圧され、サクサクと小さな音を立てる。
後ろを振り返れば凌介の足跡が道形に刻まれているのだが、今の彼にそんなことをしている余裕は微塵もなかった。
頭を占めるのは身体中から伝わる疲労感と途方もない虚脱感。
彼が想定していたサプライズという可能性は、ネタバラシのタイミングを鑑みても限りなくゼロとなった。
足の感覚は薄れ、いくら啜っても鼻水はいくらでも垂れてくる。
人の声や物音などの喧騒が確実に近くなっていることだけを頼りに歩く。
時折感じる視線が恨めしい。
__何見てんだよ……見てるくらいなら、助けてくれよ。
腕に浮かび上がる鳥肌を摩りながら、心の中で恨み言を呟く。
誰も手を差し伸べてくれない現状に、理不尽さち苛立ちを抑え切れない。
気付けばどこともしれない極寒の中で、自分の記憶も曖昧なまま歩き続けている。
「ふざけんなよ……」
着々と近付いて来る限界。
震える奥歯を噛み締め、弱気になりかけた心を叩く。とにかく歩くしかない。
気を抜けば止まってしまう脚を前へ__
「イデっ!」
不意に頭を打ち付け、後ろへと蹌踉めく。
どうやら前へと進むことを考え過ぎたばかりに前傾姿勢となり、前方に置いてあった物の存在に気付かなかったようだ。
顔を上げ、打つかった物の正体を見る。
「……樽?」
目の前にあったのは、アニメや映画でしか見たことのない“本物の樽”だった。硬質な木材で作られた樽は、凌介が打つかったにも拘らずビクともしない。
中に何か重たい物でも入っているのだろうか?
打つけた額を摩っていた凌介だが、ふと手が止まる。その視線は樽__ではなく、その向こう。
棒になりかけていた脚が無意識に前へと動く。
狭い路地を挟むように聳え立っていた建物が消え、道が開く。
広がった世界……そこから先は大きな通りだった。
今まで歩いて来た路地と雰囲気が異なり、軒先には木の骨組みとそこに張られた天井代わりの布、大小様々な棚や木箱が並ぶ。
どうやらこの通りは商店街か何かのようだ。露店には見たことのない食べ物や衣類、雑貨などの商品が数多く並べられている。
しかし、凌介が注目したのはそこではない。
ポカンと開いた口は言葉を失う。
彼の常識、経験は今この瞬間、粉々に砕かれた。
眼前の商店街__そこに、『人間』はいなかった。
正確に言い直すならば、凌介と同じ『人間』という生き物ではなく、『人間に似た何か』が悠然と闊歩していた。
その容姿は多種多様。
人と同じ顔を持ちながら、鳥のような翼と脚を携える者。首から先が犬という者。背が異様に低く、腰程の背丈しかない者……
最初はコスプレのイベントか何か……として理解しようとした凌介だったが、串焼き露店の店主と思しき『人間に似た何か』が肩口から伸びる六本の腕を器用に使い、串肉をひっくり返している光景を見ては認めざるを得ない。
「は……ははっ__」
認識は出来ても、理解が追い付かない。
惚けた面構えで立ち尽くした凌介は、試しに自分の頬を引っ張る……
痛い。夢じゃない。
過去に読んだ漫画やアニメ、小説などの知識をフル動員することで、妄想のような一つの結論へと辿り着く。
「……本物の異世界、ってヤツ?」




