第一章 8
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「あーいたいた!」
教室へ戻ると、樹の席に座っている千春が声をかけてきた。
「てっきりひーちゃんと一緒にどこか行ったのかと思ってたのにいっくんだけいつまで経っても帰ってこないんだもん! おそーい!」
「あーごめん、ちょっと吐血して保健室に」
「えっ嘘!?」
嘘だよ。
「それで、何か用だった?」
なるべく平静を装って答える。葉月は自分の席に座って、まるでそれまで何も無かったかのように輪に入っている。彼女を囲むように理奈、千春、トクが話をしていたようだった。
理奈がまだ少しぶーたれている千春をなだめつつ話を続ける。
「今度の土曜日、今年最初の夏祭りがあるでしょ? それに日和ちゃんも一緒にみんなで行かないかって話をしてたの。いっくんも行くよね?」
そういえばもうそんな時期か。去年も理奈に誘われはしたが、二人きりで行くのもためらわれて断ってしまっていた。トクは去年も同じクラスだったが野球部の面々との先約が入っていたようなので特にそういう話もしなかった。千春と葉月に至っては知り合ってすらいなかったわけだし。
あれから一年か。
「そうだな。うん、俺も行くよ」
随分と変わったもんだ。
「なあ、ところで」
トクが突然声のトーンを抑えて言った。横では葉月たちが女子同士で浴衣を着ようかなどと盛り上がっている。
「お前、佐山と仲良かったのか?」
「はぁ?」
佐山さんとは確かに出席番号が近いので、最初の席が近かったこともあり話したことがないわけではない。だが特別仲が良いということはまったくもってない。
「いや、お前のことめっちゃガン見してたから」
「見てたなら葉月の方じゃない? 今朝のこともあるし」
「まさか三角関係・・・・・・」
「やめろ。とんでもない相関図に俺を投げ込むな」
「橘君」
噂をすれば影がさす、とはよく言ったものである。佐山さんの登場だ。一気に空気が凍り付くのが分かる。ある意味とても高校生とは思えない威圧感だ。
「あなた葉月さんと仲が良いようね」
眼鏡の奥が光ったような気さえする。
「いや、別にあれは仲が良いとかじゃなくてですね・・・・・・」
「仲良くしてあげなさい」
「へ?」
「あなたは彼女の幼なじみなのでしょう。だったら、あなたが仲良くして、彼女を守ってあげなさい。そのくらいできるでしょう」
「あ・・・・・・はい・・・・・・?」
「ただし、風紀を乱すような不純な交際は許さないから!」
それだけ言うと佐山さんは膝下のスカートを翻して去っていった。
「なんか、良い人なのかどうかよく分かんねぇな」
隣に隠れていたトクがこそこそと話しかける。樹は唖然として佐山さんの後ろ姿を見送っていた。
「いっくん」
放課後、珍しく俺の名前が呼ぶ声が聞こえた。振り返ると理奈が小走りで寄ってきていた。樹は先に教室を出た葉月を追おうとしていた足を止める。
「一緒に帰ろう? いいでしょ、たまには」
「部活は?」
「今日は休んだの、ちょっと体調良くなくて」
「おいおい、祭りなんて行ってて大丈夫なのか?」
「大したことないの、今日早く休めばすぐに良くなると思うんだ。でもみんなにうつしたら悪いから、一応ね」
葉月とは別に待ち合わせをしていたわけでもない。ただなんとなく流れで追いかけてしまおうとしていただけだった。樹は一瞬考えをめぐらせたが、「そっか」とつぶやいて理奈と並んで歩き始めた。
「夏祭り、楽しみだね」
「そうだな。葉月をのぞいてもあのメンバーで休みの日に集まるのって初めてだし」
「うんうん! いっくんがみんなで集まる時に来てくれるのも初めてだし! 去年クラスのみんなで集まって河原で花火したときも、いっくん来てくれなかったしね?」
「あれは・・・・・・来てなかった奴、もっといただろ」
「そうだけどさ。いっくんもみんなと仲良くなってくれたらって思ったんだけどな」
隣を歩く理奈が少しだけ寂しそうな笑顔をつくる。理奈はよく樹が一人にならないように気にかけてくれている。それは樹も十分理解していた。
「ごめん。でも俺はあんまりそういう集まり得意じゃないんだよ」
「まぁそうだよね。いっくん、あんまり大勢でわーわー騒ぐタイプじゃないもんね」
「そう。俺はそういうタイプじゃない」
嫌いなわけじゃない。でもあまり仲良くない人物が急に輪に入っていくことで場を白けさせるんじゃないかと思ってしまう。それにーーみんなと話しているときに、世界の矛盾が出るのが怖かった。
そんな樹の気持ちを見透かしたかのように理奈が穏やかに言う。
「でも、あのメンバーなら大丈夫でしょ?」
「ああ、まぁ」
理奈が嬉しそうに視線を向ける。なんだかしどろもどろになって曖昧な返事をしてしまった。
「良かった。今年は花火も、みんなでできるといいな。ちーちゃんもすごく喜んでたし」
本当に嬉しそうに話す彼女の横顔を樹はしばらく黙って見ていた。
「ん? 何?」
「いや、なんでも・・・・・・」
飲み込もうとした言葉を、絞り出す。
「あのさ、理奈」
「何ー?」
「去年のクラス、どうだった?」
「うーん。どうって言われても・・・・・・」
「楽しかった?」
「ん? うん、結構楽しかったんじゃない? みんなで花火したし」
「他に何かあったっけ」
「他に? うーん、そんなに特別大きななことはなかったんじゃないかな。でも普通の高校生活って感じで良かったんじゃない?」
「そっか」
「なにそれー? そういういっくんはどうだったの?」
「俺も・・・・・・よく、覚えてないかな」
絞り出した声と一緒に、制服の左ポケットに入れていた手は無意識にその中にある紙切れを握りつぶしていた。
ーーーー『上原理奈・白田徳・結城千春は、既に一部の記憶を操作されている』