第一章 6
「ーー嫌だ」
「なっ・・・・・・普通引き受けるでしょ!? そういう展開でしょ!?」
何を言っているんだこいつは。そもそも両手が拘束されている時点で握手の返しようがない。そうだ、昨日と同じく俺は手錠で拘束されているのである。しかしおかげさまで誰も周囲に近づいてこようとはしなかった。そりゃ近づきたくもないだろう。中庭で拘束プレイしてる奴になんて。
樹が後ろ手に拘束された両手を動かし、かちゃかちゃと音を立ててみせると、葉月は肩をすくめて「あ、そうだったわね」とだけ言った。
こんなことをしておいて信用も何もないだろう。
「葉月の能力は確かに本物かもしれない。でもだからと言ってお前のことを全部まるっきり信用できるわけじゃない。もしそんなのが紛れ込んでいるとして、今のところ何も起きてないんだ。杞憂かもしれない。そもそも葉月だって記憶の操作とやらをしていたんだろ? だったら、他の奴が同じ事をしていて何が問題なんだ」
「私がこの二週間していた記憶操作は、私ーーつまり、いないはずの人間についてだけ。だから大した影響はないわ」
葉月はしれっと答える。
「私だってできることなら一人でやっているわ。誰も巻き込む必要なんてない。誰も巻き込まない。けれど、私には・・・・・・私には分からないのよ。世界の改変が」
「え?」
「世界の改変が起こったら、それは私にも適用される。私の記憶も書き換えられてしまう。適用されないのは、書き換えた本人と、樹君だけ。私の知っている限りでは、ね」
そんな。あんな能力を持っている葉月でも忘れてしまうことを、俺だけが覚えているだって?
「私は外部から来た人間だから、このコミュニティ外での目的であるイブツを探しているということについては世界の改変では書き換えられない。直接私自身の記憶が書き換えられない限り」
「ちょ、ちょっと待てよ、俺はただちょっと覚えているってだけだ。なんの能力もない。俺を巻き込まないでくれ」
葉月の視線から逃れるように樹は視線を下げた。
「もうこりごりなんだ。俺はこれ以上変な目で見られるのは、嫌なんだよ」
確かにちょっと人と違うところがあるのかもしれない。けれどそれはそんな大それたものじゃない。イブツとか記憶とか世界とか、実際そういうものがあったとして、俺にどうにかできるようなことじゃない。
樹は明らかに狼狽していた。そしてそれは葉月にも伝わっていた。
「分かった、今後は極力あなたを目立たせるようなことはしない。ただ少しでも違和感を感じることがあったら教えてほしい。それでいいわ」
葉月の言葉に樹がはっとして顔を上げる。彼女は意外なほどにあっさりとしていた。
それから葉月はベンチの後ろに回り、樹の手錠に手をかけ、ほどなくして樹の両手は自由を取り戻した。
「けれど覚えておいて、樹君。たった一人の嘘が、たった一つの嘘が、世界を変えてしまうこともある」
外された手錠が、葉月の手の中でかちゃりと軽い音を立てた。
「それに、本当に今のところ何も起きていないのかしら」
*
昼休みはほとんどあってないようなものだった。教室に戻る途中に予鈴が鳴り、あっという間に午後の授業が始まる。
トクたちが何か聞きたそうにうずうずしているのが分かっていたので、強化担当の教師が来るまでもなるべく忙しいフリをしていた。
しかし授業の内容など全く頭に入ってこない。昨日今日の葉月との会話がぐるぐると頭の中をまわっている。
無駄に眺めの良い教室をぼんやりと視界に入れていると、ポケットの中でスマートフォンが震えた。
机の下で確認すると、前の席のトクからのメッセージだった。
『葉月ちゃんとはどういう関係なんだよ?』
きた。きてしまった。どうせくるとは思っていたが。だから用意していた無難な回答を送る。
『なんの関係もない。俺は覚えていない』
すぐに返信が来る。確信した。トクは絶対に授業なんか聞いていない。
『昼休みどこ行ってたんだよ? 葉月ちゃんもいなかった。一緒だったんだろ?』
『そんなことない。弁当忘れたから購買に買いに行ってた』
『嘘だな。一緒にいるの見たって言ってた奴がいたぞ』
よし、無視しよう。
しかししばらくするとまたポケットの中のスマートフォンが震えた。
『好きなのか?』
『しつこいぞー』
会話を打ち切ろうと送ったメッセージに、それでもすさまじい早さで返信が来る。本当にこいつは授業を聞く気があって学校に来ているのだろうか。
『お前がいない間に理奈が告白されてた。あいつと同じテニス部の男子』
予想外の返信に、少しだけ言葉に迷いながら、自分もたいがい授業を聞いていないな、などと全く違う話題を頭の中で必死に考えようとしていた。
『どうしてそんなことを俺に言うの』
『いいのかよ、お前』
『いいも何も、そんなの理奈が決めればいいだろ』
『じゃあ俺が手出してもいいのか』
ああ、どうして今日はこんなにみんなして俺を混乱させにかかってくるんだ。
*
「日和ちゃんってなにで学校通ってるのー? どのあたりに住んでるの? 方向同じなら一緒に帰ろうよー」
「あー・・・・・・えっと・・・・・・」
まわりの勢いに圧倒されて狼狽した表情の葉月が自分の机を取り囲むクラスメイトを一通り見回してから、
「ねぇねぇ、それより部活の見学していかない? 前何部だったの?」
結局発言を遮られて言葉を失ってしまった。
「運動神経良さそうだよね! 私バレー部なんだけど興味ない?」
「えーバドミントン部なんてどう? うちの高校強くないから未経験でも大丈夫だよ!」
「ひーちゃんはちーちゃんと一緒に美術部だもんね?」
その様子を後目に、掃除を終えて教室へと戻ってきた樹は隣から異常な人口密度による圧迫感を受け止めながら黙々と帰宅準備を整えていた。帰宅部の樹にとってはあまり興味のない話題だった。
今日は今日で散々な日だった。トクや理奈、千春に日和との関係を執拗に問いただされたが、覚えてないと言うほかない。
さて、今日もさっさと帰宅部として活動を始めよう。
「いっ樹君っ!」
後ろからやや上擦った声が聞こえた。机から一歩歩いたところで立ち止まり、おそるおそる振り返る。
「・・・・・・何?」
葉月だ。
「帰るのなら私も一緒に帰るわ! ちょっと待って!」
嫌だ。
ーーとはさすがに言えなかった。
「なぁ、注目を集めるんじゃなかったのか」
「・・・・・・うるさいわね」
帰り道、ついてこようとした千春を無事に美術室まで送り届け、二人はバスに乗っていた。
「大勢に取り囲まれるのは得意じゃないのよ。それに、今日はもういいの」
「もういいって、何が?」
葉月があたりを見回す。つられてバスの中を見回す。放課後から少し経った微妙な時間、部活のない生徒はすでに帰っているし、部活のある生徒はまだまだ帰らない。バスの中には同じ高校の生徒はおらず、人もまばらだった。
「私たちがどうやって記憶にアクセスするか分かる?」
「分かるわけないだろ」
「対象に手のひらで触れるのよ。それは、私もイブツも同じ」
「もしかして、中庭で俺に手錠をかけたのも?」
「そうよ。最初は樹君がイブツなんじゃないかと思っていたの。あまりにも記憶に矛盾が多くて、混濁している。短時間のアクセスじゃとても整理しきれないくらいに。・・・・・・でもどうやらそれは違った。それにもしそうだとしたらこんなにあっさり何度も記憶にアクセスさせるわけがないもの」
「・・・・・・何度もアクセスするなよ」
「それについてはごめんなさい。でも確証が持てなかったのよ。あなたのような人、初めてだったから」
二人席の横で、葉月が伏し目がちに外を見やる。
なんだかそれ以上追求できなくなった樹は話を無理矢理元に戻した。
「で、囲まれるのが得意じゃないってのは触られるかもしれないからってことか?」
「そう。あそこにいたほとんどの子たちはこれまでの調べでほぼ白だと確定しているけれど、もしどさくさに紛れてイブツに触られて、私自身の記憶を書き換えられてしまえば、私がこの事件でこれまで調べていたことも忘れてしまう」
「ふーん・・・・・・?」
いまいち、分かったような、分からないような。
それがどの程度の一大事なのか、樹にはいまいちピンとこない。体のどこかで何か嫌な胸騒ぎが起こっていることは、半ば無意識に無視していた。
「ごめんなさい、だめね。少し・・・・・・隠し事をしたわ」
「葉月、あのさ、」
嫌な、胸騒ぎがーー。
「正確にはこうね。私自身の記憶を書き換えられてしまえばーー存在ごと消えていなくなってしまうかもしれない」