第一章 5
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「葉月日和です。よろしくお願いします」
転校生はそう名乗った。
本当に陽に当たっているのかと思うほど白い肌、毛先に向かって緩やかな曲線を描く長く黒い髪、やや童顔でありながらも強い意志を感じさせる猫のような目。
樹の知っている葉月日和そのものだった。
本当に転校してきたのだ。昨日の彼女が言った通りのことが今現実に起こっている。
転校生が来るということで沸き立っていたクラス全体が静まりかえり、彼女の容貌に息を飲んだ。樹も別の意味で息を飲んでいた。
「みんな葉月さんのことよろしくね。じゃあ、席は窓側の後ろから二番目のところにお願いね」
にこやかに告げる若い担任教師に軽く会釈すると、葉月は真っ直ぐに自分の席へと向かって歩いていく。
そして、自分の席の少し手前、樹の席の前で立ち止まる。
樹はおそるおそる顔を上げて、葉月に視線を合わせた。
「樹君」
葉月ははっきりと樹の名前を呼んだ。
優雅に、どこかいたずらっぽい笑みを浮かべた彼女は、クラスメイト全員が聞き耳を立てようと静かになったことなどまるで気にせず、何にも臆することなく言った。
「私、昔隣に住んでいた幼なじみなんだけど、覚えているかしら?」
「幼なじみって! なんだよあれ!? あれだろ、あの漫画だろ!」
昼休み、昨日と同じ中庭に、昨日と同じように葉月と向かい合わせにベンチに座った樹が叫んでいた。
「いいじゃない、そのくらい?」
葉月は片方の肩を上げて笑った。
「よくねぇよ! なんて説明すりゃいいんだよ、余計な注目集めるだけだろ!?」
「そんなことは些細な問題のはずよ。それに一応、理由はあるの」
「なんだよ、理由って」
樹が憮然として言うと、葉月はふいに真面目な顔をして樹の真正面に向き直った。
「『余計な注目を集めること』、それ自体が私の意図よ。今はとにかく情報が必要なの。わざわざ『転校生』として入ってきたのも、あんなパフォーマンスをしたのも、全てはなるべく多くの情報を得る機会をつくるため」
先ほどまでの冗談めかした雰囲気は一切消えていた。ふとした瞬間に感じる、まるで別人のような空気。彼女のつくり出すそれに樹は完全に飲まれていた。
「すでにできあがっているコミュニティに組み込まれるよりもクラスメイト全体と話しやすくなるでしょう? それに幼なじみということにしておけば、転校早々から樹君と行動をともにしていても不審じゃないわ」
「・・・・・・まぁ、そうだけど」
確かに葉月の言うことも一理ある。だが、樹としてはあまり注目を集める行為には賛同しづらい。
ーー目立たなければ、嘘も違和感も目立たない。
樹はそうやって自分を守る術を得ていた。
だが、彼女にどうやってそれを説明すれば良い? 他人に説明できる感覚ではない。
樹の思考を断ち切るように、葉月がゆっくりと話を続けた。
「それはそうと、今朝ので分かったでしょう? 樹君は『世界の改変』に適用されない」
「世界の、改変・・・・・・?」
まるで樹の思考を見透かしたような言葉が、透き通るような声を通して紡がれていく。
「樹君は、他のクラスメイトのように私が『転校』してきたとは思わなかった。『まだ知らない人間である私』という人物が転校してくるという世界の改変に適用されなかった。きっと、これまでも同じようなことがあったかもしれないわね」
ぐらり。
樹は世界が揺らぐのを感じた。
見えなかった糸が、見えないようにしようとしていた糸が、はっきりとした輪郭をもって浮かび上がってくるような、感覚。いや、錯覚か。
「樹君、あなたは他の人とは少し違う。あなたは『変わって無くなってしまったはずの世界』を覚えておくことができる」
ありえない。
ありえないはずの話を、葉月日和は大真面目に語っていた。そこにはどんな些細な冗談さえ、挟んではいけないように感じた。そんな軽い気持ちで、彼女に接してはいけないとでも言われているような、とても静かな迫力があった。
ありえない。
ありえないんだ。
けれど、もしこれが事実だとしたのなら。これが事実だとするのなら、少しだけーー救われる。
俺は、嘘つきではなかった。
「だけど、樹君自身への記憶の改変は有効だった。それ以外の世界の改変による記憶は保持される。この二週間で私が試していたのはそういうこと」
「・・・・・・えっ?」
葉月はさらりと恐ろしいことを言った。
「それじゃあ、非存在と呼ばれるモノの話をしましょう。イブツというのは、人の記憶を奪うものよ。・・・・・・そうね、怪物とでも言っておこうかしら。人の記憶の改変が行われると、世界はそれに合わせて『作り替えられる』。最悪、人ひとりの存在が消えたとしても、それを誰も気づかないーー本来なら」
葉月がベンチから立ち上がり、樹の前までゆっくりと歩を進める。
葉月は一度目を閉じて、少しだけ深めに呼吸をした。柔らかな長い髪が一瞬だけ風を含んで、弾けた。凛と立つその姿は、自信に満ちていて、けれどどこか、少しだけ不安げなようにも見えた。
静かに目を開けた彼女は、そっと樹へと手を差し出していた。
「もう一度言うわ。樹君、あなたは私に協力してもらう」
そう宣言した葉月には、もう不安げな様子など見えなかった。