第一章 3
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うららかな日差しに包まれた高校の中庭には、始業のチャイムが鳴り響いていた。
さて、困った。特に後ろ手に縛られている理由には思い当たらなかった。
葉月日和は真っ直ぐに樹を見ている。
「樹君に協力してもらいたいのは、非存在を探し出すこと」
「イブツ・・・・・・?」
何を言っているんだこいつは。
「そう。非存在。人の形と記憶を模した、人でないもの。それがこの学校に紛れ込んでいる。そして私はそれを探している」
「えーと・・・・・・」
葉月日和は真っ直ぐに樹を見ている。
「・・・・・・授業、始まるんだけど?」
「別に良いでしょ。どうせ明日にでもなれば頭に入っているわ。樹君に覚える気があるのなら、だけど」
意味が分からない。
「意味が分からないって顔ね」
「当然だよ」
樹は即答する。
「私は説明し疲れたわ」
葉月はあからさまに疲れたという顔をしてため息をついた。だが、樹にとってはだからといって引き下がれることではない。
「いや、説明してくれよ。その頭に入っているとかいうのも、協力っていうのも、この状況も。っていうかなんで俺、拘束されてるの?」
「お互いを守るためよ。その方が安心して話ができるでしょう?」
さっきから葉月が言わんとしていることがいっこうに見えてこない。手錠をされていて一体何が安心できるというのだろうか。
うろんげな視線を向ける樹に気がつき、葉月はもう一度ため息をついて空を見上げた。
「ああ、そうだった。これも説明がまだだったわね」
しばらく空を見上げていた葉月は、説明が面倒だとか、嫌だとか、そういったこともあるのだろうけれど、何故だかどこか本当に言葉通り少し疲れたているようにも見えた。
樹もつられて空を見上げる。見事に快晴の空が広がっていた。一時間目はとっくに始まっているだろう。自分たちが戻ってこないことを、クラスメイトはどう思っているだろうか。今はその様子は自分たちから見えないから良いが、教室へ戻った時のクラスメイトの反応が思いやられる。あることないこと、様々な噂がたっているのだろう。
「心配しなくて良いわ」
ふと、葉月の声が聞こえた。
「え?」
「クラスのことは心配しなくて良い。あなたはいつもそこを気にするけれど、これは無かったことになるから。忘れるとかじゃなくて、『無かったこと』になるのよ」
「・・・・・・えーと?」
「とりあえず今は気にしなくて良いっていうことよ。意味はいずれ分かるから」
少しは説明してもらえるのだろうか。向かい側のベンチに座る葉月へと視線を戻すと、彼女は幾分やわらいだ表情を見せた。
それから唇の下に人差し指を当て、思案するように視線を逃してからこう言った。
「実のところ、あなたと会うのはこれが初めてではないわ。だけど、あえて言わせてもらう」
視線をまっすぐに樹に向け、蠱惑的な笑みを浮かべる。
「はじめまして、橘樹君。私は葉月日和です。よろしくお願いします」
はじめまして。
葉月ははっきりとそう言った。
「気がついていると思うけれど、私は以前からこの学校にいたわけじゃないわ。この学校にきたのは二週間ほど前だったかしら」
「二週間前?」
おかしい。樹はそう感じていた。だってクラスに違和感を感じたのは今朝の話だ。昨日まではほんの僅かの疑問さえも抱かずに平穏に暮らしていた。
そもそも樹の記憶によれば、「葉月日和は進級と同時にクラスメイトになった」はずだ。
その疑問を口にしようとすると同時に、葉月が唇の前に人差し指を立てた。
「樹君が次に何を言おうとしているのか教えてあげる」
葉月は樹に発言する隙を与えずに続ける。
「『葉月自身が今、はじめましてと言ったばかりじゃないか』」
そりゃそうだ。樹の眉間にさらにしわが寄る。煙に巻かれている気分だ。
「それはアタリであると同時にハズレね。『樹君が私をはじめて認識した』と認識したのが今日であっただけ。それは真実ではないけれど、事実なの」
たまりかねて樹は口を挟んだ。
「何を言っているのかさっぱり分からない」
「『何を言っているのかさっぱり分からない』」
同時に、葉月も全く同じ発言をした。
樹は続けようとした言葉をとっさに飲み込んでしまった。けれど、葉月は顔色ひとつ変えなかった。まるでそれが当然とでも言うように。
「ひとつ言っておくけれど、私は今日という日においてタイムループをしているわけじゃないわ。私の『嘘』で世界を再構成させて、同じような条件の日をこの二週間経験しているだけ」
「なんだよそれ」
「つまり、ある一日が延々と続けるのがタイムループ。私の場合は一日目、二日目、三日目と日付や出来事は普通に進む。違うのは『私に関する記憶』についてだけ。そうやって私は同じような条件の日を繰り返して、このやりとりも何回か経験してきた」
そんなことを葉月は大まじめな顔で、淀みなく話している。
この場合は、どうしたらいいのだろう。
葉月の頭がおかしいのか、自分の頭がおかしいのか。
「そんなことできるわけないだろ?」
「できるのよ。『人の記憶』を操作することができれば、世界はそれに沿って再構成する」
「そんなもの、信じられるかよ」
信じられるわけがない。信じられるわけがないのに、樹は気がついている。
葉月日和が昨日までこの学校にいなかったことを『自分だけが』認識していることに気がついてしまっている。
「まぁ、私だってこんなこと言われたって信じないわ。だから、見せてあげる。詳しい話はその後にしましょう?」
そうして葉月はさらに意味の分からない言葉を続けた。
「明日、私はこの学校に転校してくる」