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第三章 6


 目を開けたとき、そこに広がるのはただ空虚な空間にぽっかりと白く浮かんだ簡素な椅子で、その上には誰も座ってなんかいなかった。

 腕の中の僅かな温度はいつの間にか消え、本当に何も、何ひとつ残らなかった。抱きしめるものを失った腕を静かに下ろすと、わずかに冷たくて固い椅子の感触がした。

「ーー証明、終了」

 椅子を挟んで向こう側に立っている葉月が誰もいない椅子に視線を落としたまま静かに告げた。

 そうだ、終わったんだ。全てが終わった。

 不思議と少しだけほっとしていた。体の力が抜けていくのを感じる。張りつめていた糸がほどけていこうとするのを必死に食い止める。そうしないと泣いてしまいそうな気がした。

 理奈は苦しまずに逝けたのだろうか。それを知る術はもうないけれど。

「お疲れさま。よく頑張ったわね」

「・・・・・・そっちこそ、お疲れさま」

 葉月が椅子をまわってゆっくりと近づき、そっと手を差し伸べてきた。

 樹はその手を握り、立ち上がりーー

「え?」

 その体を太い鎖で拘束された。

「な、なんだよこれ? 葉月!?」

「あなたはこれからこの約一ヶ月にあった出来事を忘れる」

「ちょ、ちょっと待てよ! 忘れるって? 確かにこのことで世界は書き換わるかもしれない。でも俺の記憶は残ってるはずだ」

「そうね。けれど、」

 葉月は樹から視線を外してまっすぐに前を向いた。

「私が樹君の記憶を消す」

「なっ・・・・・・」

「世界は元に戻った。イブツの存在によって脱線していた道が元に戻った。だから樹君もこれから元の世界で生きて行かなくちゃいけない。他のみんなと同じように、全てを忘れて」

 葉月は少しだけ悲しそうに微笑んでいた。

「なんだよそれ! 意味わかんねぇよ!」

「ずっと黙っていてごめんなさい。でも最初から決めていたの。私がここを去るとき、本来存在するべきじゃなかったイブツに関する全ての記憶を消すって。あなたたちの世界をきちんと元に戻すって」

「ふざけるな! 俺はそんなことに同意した覚えはない!」

「大丈夫、イブツに関する記憶を消してもきっと樹君の中でだけは理奈ちゃんの記憶は残る。きっと転校か何かしたことになるだろうけれど。消えるのはイブツに関することだけ」

「・・・・・・葉月、お前のことは・・・・・・?」

「私は、イブツがいなければここにいなかった」

 葉月はそれしか言わなかった。けれどそれが全てを物語っていた。

 自分の心臓の鼓動が拡大されて聞こえる。そんなのあんまりだ。

「そんな、冗談だろ・・・・・・? さっきお前自身が人生なんてリセットするものじゃないって言ってたじゃないか!」

「そうね。私はーー嘘つきだから」

 そう言って優しく笑ってみせる。

「やめろよ、どうして、そんな・・・・・・」

「いなかったはずのものが、いなくなるだけ。全部元に戻るだけ。何も怖くないわ」

 彼女の動きにあわせて揺れた髪からふわりとほのかに漂う甘い香りがもの悲しく胸に突き刺さる。

「嫌だ、葉月、俺ーーーー」

「そうだ、良いことを教えてあげるわ!」

 樹の言葉を遮るように、葉月が唐突に明るい声で言った。樹はうつむいていた顔を少しだけ上げ、葉月に視線を合わせる。

「じ、実はね? 樹君には本当に幼なじみがいて、イブツにその記憶を消されちゃっただけなのよ」

「・・・・・・葉月?」

 一体何を言っているんだ。さっきの理奈との話の続きか?

「その幼なじみって言うのは実は私でね? だからイブツに関する記憶を消されたって大丈夫なのよ! だから、その、ええっと、落ち込む必要なんて何もないのよ!」

「もしかして、慰めてくれてるのか?」

「・・・・・・そ、そうだ! 明日からは私が迎えに行ってあげる! なんなら、朝起こしてあげてもいいわ!」

 なんだその典型的な幼なじみ像は。

 葉月は笑顔で、明るい声で、必死に説明してくる。葉月は嘘がとても下手だった。

 それでも俺が落ち込まないように、少しでも笑うように。不器用すぎる嘘を塗り固めていく。

 せっかくだから少しだけ付き合ってやることにした。

「お弁当は?」

「そ、それは・・・・・・その・・・・・・ちょっと練習が必要ね!」

「やっぱり」

 思わず少しだけ吹き出してしまった。

 嘘だとバレバレなのに、彼女は必死に考える。必死に話す。

「でも、俺も明日には葉月のことを忘れてるんだろ?」

「・・・・・・きっと、そうね」

「そっか」

「・・・・・・ごめんなさい」

 葉月が顔をうつむかせ、絞り出すように言った。

「お前が泣くなよ。俺、今日何人も泣かせてるみたいじゃん」

「泣いてなんかないわよ」

「嘘つけ」

「うるさい、樹君に言われたくない!」

「失礼な」

「もう! もっときつく縛り上げるわよ!」

「ちょっ、やめろ! そんな趣味はないぞ!」

 小さく笑う声が聞こえた。

「樹君」

 そのまま葉月はそっと樹の胸に頭を預けた。温かい。けれどもう、その体に自分から触れることさえ許されない。小さく震える体がすぐ目の前にあるのに樹は何も出来ない。縛られた体は自由を完全に奪われている。

「・・・・・・なんだよ」

 だからいつも通りに軽口で返した。なんとなく、そうするべきだと思った。

「どうか」

 小さく息を吸って吐き出した葉月の言葉は、それでもしっかりして、凛とした空気を纏っていた。だからこそ不安だった。

「私のことは」

 葉月は強いから。

「忘れて」

 放っておいたら一人で生きていってしまいそうだったから。

「さよなら」

 ぎゅっと抱きついて、それから上げてみせた葉月の表情は紛れもない笑顔だった。

 けれど、それも嘘だと分かっていたから。

「葉月、俺はっーーーー」


 意識は深く、深く落ちていく。

 何か懐かしい感覚に襲われて、静かに、ゆっくりと、それでも確実に何かが書き換わっていく。

 そうして世界は元に戻った。

 非存在イブツのいない、元の世界に。

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