第三章 4
凛とした声が静寂を切り裂いていく。
「私の一番の間違いは、記憶が空に近い人物を探していたこと。そしてもうひとつの間違いは、異変の起きた今年度の記憶を中心に調べていたこと。一体いつどこであなたが樹君たちの生活に侵入したのかは分からない。けれど少なくともそれは今年度からではなかった」
胸に締め付けられるような痛みを感じる。樹はまた少し強く拳を握った。
「だから私はあなたの記憶量の多さを見逃してしまった。記憶の欠損があるにも関わらず、記憶量はかなり多い。そしてそれを、私はあなたの交友関係が広いからだと思ってしまっていた。でもそれはおかしいの。あなたにこんなにたくさんの楽しい記憶が残っているわけがない・・・・・・一年生の時のあなたは、孤独な人だったのだから」
葉月はなめらかな動作で手元に置いていた一冊の本を開く。
「あなたは千春ちゃんと入れ替わろうとした。だけど橘樹には世界の改変が適用されない。そしてそれを知らなかったことがあなたの一番の誤算」
理奈はただ黙ってそこにいた。何も言わなかった。その沈黙が何よりもの肯定だった。それは樹の心を鈍く抉っていく。
高校二年生。新学年初日。
千春は誰も近寄ろうとしない理奈に声を掛けた。
思い返せば、歪みはそのときから生じていたのかもしれない。
そしてそのひとつの歪みは世界を捻れさせ、全てを変えていった。
進級からほどなくして樹は上原理奈がクラスで孤立していた事実が綺麗さっぱり消えていたことに気がついた。
そしてそれとほぼ同時に、一年生時に隣のクラスの中心的存在だったはずの結城千春が昨年クラスになじめていなかったという発言をしたのを聞いた。
理奈は長かった髪をばっさりと切り、対照的に千春の短かった髪はいつの間にか長く伸びていた。まるでお互いの役割を交換するかのように。
理奈はまるで最初からそうであったかのように積極的で明るい少女になった。
「千春ちゃんの記憶を抜き取り、自分のものにした。その結果、誰も一年生のときの千春ちゃんのことを覚えていなかった。彼女自身でさえ、クラスの輪から外れていたと錯覚した。だから積極的に仲間に入れてくれるあなたを頼った。そしてあなたは優越感とクラスメイトの信頼を手に入れる」
するするとページがめくられる。紙が擦れ、乾いた音が響いた。
「あなたの持っている記憶は全て、他人から抜き取ったものの蓄積。だからイブツであるにも関わらず、空に近い状態ではなくかなり多くの記憶を保持していたーーよく考えてみれば、そんなことは当たり前だったのよ。あんなに多くの人が消え、多くの人が記憶を失っているんだもの。あなたはその記憶を自分の中だけに蓄積するために、空の人間をつくらずに消去したままにしていた」
葉月はページをめくる手を止め、本から顔を上げるともう一度理奈だった何かを見た。
少しだけ言い淀むように間が空いた。しかし再び口を開いたときには、その迷いの影はもうどこにもなかった。
「そして、二十人もの人の存在を消し去った」
樹は小さく息をのんだ。
こうしてここに、理奈だった何かがイブツとして現れている以上、クラスメイトをこの世界からはじき出したのは彼女だということだ。
分かっていたはずなのに、それでもまだ、これもまた何かの嘘なんじゃないかと思えてくる。そう期待してしまう。けれどその期待はあっさりと打ち砕かれる。
「そうよ」
端的な答えだった。理奈だった何かはさも当然のように答えた。
そこにある感情は、もう樹には見えない。声色以外にそれを判断する材料はなかった。
「あなたにあった記憶の欠損箇所は自分でやったんでしょう?」
彼女はもう口がない。けれどどこからか声を出していた。姿形は何一つ面影がないのに、声は何一つ変わっていない。確かに理奈のものだ。
「うん。『いらないもの』は全て消した。私自身の記憶も。だから私にももう何を消して、何を残していたのかも分からない」
「いらないものなんてないわ。記憶を奪うということは、その全てを背負って生きていくということよ。そんな覚悟もないのにこんなことを続けてもすぐに限界がくる。綻びが出る。それはあなた自身が一番分かっているはず。あなたはこのクラス二十人の記憶の消失を背負って生きていくことなどできなかった。だから、奪っておきながら自分の中からも記憶を消していった」
「日和ちゃんには分からないのかもね」
理奈だった何かが、理奈の声で飄々と答える。その光景を受け入れられず、樹はただ黙って二人のやりとりを聞いていた。
「分からないわ」
葉月はそれでも言葉を返し続ける。
「人生なんてリセットするものじゃないわ。そこにあった言葉も、想いも消えてしまう。誰も覚えてなんかいないのよ。それは、たった一人で生きることと何が違うのかしら」
「そんな強さは私にはなかった」
「強い人なんていないわ。みんな弱さを押し殺して生きているだけよ」
「それを強いって言うんじゃないかな」
どこか明るい声で、何かを楽しんでいるように答える。いつも通りに、まるで何事も無かったかのように。
「あーあ、日和ちゃんさえいなければこんなことにはならなかったのになぁ。どうしてくれるの?」
樹の知っている理奈の声で何かは笑ってみせた。
「ねぇねぇ、いっくん。今から私の味方につかない? 今言ったとおり、日和ちゃんさえいなくなればこれまで通りにみんな暮らせるよ! うん、それいいね! 私なら日和ちゃんを消せるんだよ!」
「・・・・・・理奈」
「あーでも本人を消しただけだといっくんの記憶は残っちゃうんだっけ? じゃあ、いっくんの記憶も直接書き換えさせてもらわなくちゃね! あっ、そうそう私、複数の記憶を合成してできたイブツだから、人間の『上原理奈』と入れ替わったわけじゃないからね。だから私が消されたらその役割はぽっかりと席が空いちゃうのよ。そんな人物最初からいなかったんだから。残念だね、いっくん。あなたのことを好きな幼なじみなんて、最初からどこを探したってこの世界には存在しなかったのよ」
「理奈」
「なあに? あっ逃がしてくれるの?」
いつもの明るい声だ。
逃げ出したくなる気持ちを無理矢理に押さえつけて、声を絞り出す。
「もう止めよう」
「なんで? 続けようよ、このままトク君とかちーちゃんと、そうだ! その二人は消さないよ。そう約束すれば大丈夫だよね!」
「そうじゃない」
「んー? どういうこと? ねぇねぇ、いっくんこっちに来てよ、早くこの邪魔な鎖をほどいてよ?」
ひとり静かに席を立つ。ちらりと葉月を見たが、彼女は止めもしなかったし、何も言わなかった。
樹が理奈だった何かに近寄り、そっと手を差し伸べる。
「ごめん、気づけなくて」
しかしその手は鎖に触れることなく、次から次へと記憶が映し出される何かの頭を撫でた。指先から伝わってくる感触は人間のそれではなく、それでも少しだけ柔らかく、温かかった。
喉の奥から絞り出した声は思ったよりも震えていた。
ここが葉月の管理下にある領域だと言っても、イブツである彼女に触ることはノーリスクではないだろう。それは樹にも分かっていた。
「い、いっくん?」
「もういいよ。もう、大丈夫だから」
「何・・・・・・言ってるの」
「嘘つきは嘘に敏感なんだよ」
だからなるべくいつも通りに笑ってみせる。それがうまくできていたかどうかは、樹には分からなかった。
「ヒール役はもう気が済んだか?」
「・・・・・・いっくん・・・・・・」
理奈だった何かの声もわずかに震えていた。
そのまま彼女の声は、泣き声に変わった。声を上げて、もう出ない涙をどこかで流して。
樹はこみ上げるものを必死でこらえた。彼女は何人もの人間を消した。その事実は消えない。それでも樹の中ではずっとそばにいた幼なじみだった。最後に強がって、嘘をついて、樹に出来る限り辛い想いをさせないように。
それは確かに樹の知っている『上原理奈』だった。




