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第一章 虚構世界の中で1


 高校二年生の夏のことだ。

「・・・・・・さて」

 目の前から聞こえた声にあわせて、橘樹たちばないつきは苦々しげな表情で前を見やる。

 そんな樹の様子などお構いなしに、目の前の彼女は高校の中庭に置かれた若干古ぼけたベンチの中央に優雅ささえ感じられる動作で腰をかけた。制服から伸びる透き通るような白い肌に、そこだけを際だたせるような真っ黒な長い髪がさらりと揺れる。毛先にだけゆるい曲線がかった髪と、やや童顔でありながらも美しい顔立ちで意味ありげに微笑むその様は、なんだか小悪魔のようだ。

 その動きをしっかりと目線で追いながら、樹は手を動かした。

 かちゃり、と背後で軽い音がした。

 だめだ、取れない。

 一体どこから手錠なんてものを持ってきたのか。もちろんこの安っぽい音からするに、玩具の類ではあるのだろうが、今ここで樹の動きを封じるには十分なものだ。

 おかしい、おかしいぞ。なんでこんなことになるんだ。

 樹は彼女の向かいのベンチに座りながら、その背もたれを巻き添えにする形で後ろ手に手錠をかけられていた。

「そんな目で見ないでよ。本当はこんなことはしたくないのよ?」

 対してこの状況の犯人である彼女は、どこか余裕を携えた薄い笑みを浮かべてる。夏の始まりを彩る緑に囲まれる美しい少女は、どこか非現実的で、まるで絵画のようだ。

「私だってしたくて何度も同じ話をしているわけじゃない」

 何度も同じ話を? 何のことだ。

「まぁいいわ。ようやく分かってきたから。こんなことももうすぐ終わる。次の段階へ進みましょう?」

 怪訝な表情で見つめる樹のことなどお構いなしに彼女は話を続ける。しかし何のことを言っているのかはさっぱりわからない。

「橘樹」

 まるで独り言のように、目の前の樹を無視して話を進めていた彼女からふいに名前を呼ばれた。眉間に皺が寄ったのが自分でも分かった。

 手のひらを上にした形で拳銃の形のように伸ばした人差し指と親指は、間違いなく樹に向けられていた。

「あなたは私に協力してもらう」

 彼女は勝ち気で猫のような目をまっすぐに向けてそう言った。

 ええと。

 どうしてこうなった?


     *


 その日、いつも通り朝のホームルームが始まる少し前に登校した樹は、教室の窓側から二列目、後ろから二番目というなかなかのポジションに位置する自分の席の横まで来て固まっていた。

 その席のまわりで、いつも通りクラスメイトが集まって話をしていた。樹自身の席にもその一人が陣取り着席を邪魔している。樹はこの席になってから一度も朝にこの席が空いているのを見たことがない。

 だが、そんなことはどうでもいい。

「それでねー、実はその転校生が幼なじみでねー?」

「千春ちゃん、そういうのネタバレって言うのよ。別に良いけど」

「あ、そっか、ひーちゃんごめんなさい!」

「そんなに謝ることないわ、私は読まなくても良いから」

「えーひーちゃんも読んでよ? おもしろいよ? あーあ、今日にでも実は昔隣に住んでたんだ、とかいう転校生でもこないかなー」

「来るといいわね」

 樹の席に陣取る友人、千春ちはるが力説するたわいもない話に、樹の隣の席の少女はいつも通り穏やかに微笑みつつもあまり興味の無さそうな味気ない返事をしている。それでもいつも通り千春は気にせずほぼ一方通行の会話を楽しそうに続けていた。

「ちーちゃん、すごく気に入ってくれたみたいで良かったよ。明日続き持ってくるね!」

「うんっ! りっちゃんありがとー!」

 さらにそのすぐそばで、彼女の代わりに樹の幼なじみの理奈りなが冷え切りそうな会話を打ち切るべくベストなタイミングで相づちを打っていた。どうやら話題は理奈が貸した少女漫画の話だったらしい。

 何の変哲もない、いつもの光景。

 それはそうだ。だって今日は特別なことなんて何もない。いつもの通りクラスメイトが会話をしているだけだ。

 転校生がくるわけでもない。急に幼なじみだったんだ、なんて告白されるわけでもない。春休み明けでもない、体育祭も文化祭もない、ただのいつも通りの登校日。

 ふいに、彼女が顔を上げた。

 目があった。

「おはよう、樹君」

 樹の席の隣に座っている彼女が、透き通るような声で挨拶をした。

 樹の心臓が跳ねた。

 涼やかに微笑んだ小柄な少女の纏う雰囲気は、確かに少し幼さを残す高校二年生のものだったが、そのどこか現実離れした儚げな美しさはまるで自分たちとは違う世界の人間のように感じられた。全体的に色素の薄い容貌が、その感覚に拍車をかける。だが、色素の薄さとは対照的に、その存在感は他のクラスメイトとはまるで比べものにならないものだった。

 もちろん容姿が優れているということもあるが、そんなことだけが理由ではない。はっきりとは分からないが、彼女は何か圧倒的な存在感を放っていた。

 当たり前のように彼女は樹の隣の席に座り、当たり前のようにクラスメイトと会話をしていた。

「よぉ樹、今日も遅刻ギリギリセーフだな!」

 前の席に座る白田徳しろためぐむがにやりとした笑いを樹に向ける。

「あっ! いっくんまたギリギリなんだ! さっさと諦めてりっちゃんと一緒に登校すればいいのにー?」

 そう言いつつも樹の席に陣取ったまま、席を退こうとしない結城千春ゆうきちはる

「ち、ちーちゃんそれは小学生の時の話だってばっ!」

「いいなーりっちゃんは幼なじみがいて。あ、でもやっぱりいっくんなら幼なじみじゃなくていいや!」

 失礼な。

「あ、そうか。でもりっちゃんにはいっくんがかっこよく見えてるのかもしれないもんね! ごめんね!」

「はぇっ? な、何言ってるの!?」

「いいのいいのー分かってるよ、りっちゃん! ふぁいとっ」


「ちょっと、誤解を生む発言はやめてよ! 否定したら否定したで本人がかわいそうでしょ!」

 にこにこと両手を顔の横で握る千春に焦ったように話しかける幼なじみの上原理奈うえはらりな

 しかしかわいそうとか言うんじゃない。

 髪の一部を左右の高い位置で結んでいる見るからに末っ子気質な千春と、肩までのボブカットで千春と比べると明らかにしっかりしていそうな理奈。クラスメイトでなければ同い年に見えないだろう。どちらかというと千春が幼すぎるだけかもしれないが。

 そしてその様子を黙って穏やかに微笑みながら見つめている隣の席の彼女。

 そうだ。いつものやりとりだ。

 何もおかしくなど無い。


 だけど一体、・・・・・・いつからだ?・・・・・・


 一体いつから、彼女はこのクラスにいた?

 これはあれか、どっきりというやつか。

 転校生をさも前からクラスメイトだったかのように見せるための、こいつらの企みか。それで転校生の話を?

「どしたの、いっくん。固まってる? 朝一からのハーレム状態にクラクラしちゃってる?」

 千春が言葉を発しない樹に気がつき、心配そうな声をあげる。千春はこういうことを冗談ではなく割と本気で言ってくるから困る。

「え、その場合俺もまさかの女子枠?」

「トクちゃんはトクちゃん枠!」

「なんだそれ?」

「トクちゃんはアホ枠!」

「なんだそれ!」

 心配そうにのぞき込みつつも、千春とトクは楽しそうにはやし立てる。なんでもいいからお前は俺の席からどけろ。

「・・・・・・おいおい樹、なんか本当に顔色悪いぞ? なんなら理奈に保健室に連れて行ってもらったらどうだ?」

「いや、大丈夫。なんでもないよ」

 心配そうな言葉とは裏腹ににやにやした顔をしている。おそらく本当は心配していないであろう親友の申し出を断り、片手で追い払うジェスチャーをして千春を席からどかす。

「むー?」

 俺の席なんだってば。

 不思議そうな顔をしながら席をどいた千春を無視して自分の席に座る。

 黙って座った樹を全員がのぞき込み、結局言葉が返ってこないことを悟り、何事もなかったかのように元の会話に戻っていった。

 ーーけれど、おかしい。

 自分の内側に入り込んでくる確かな違和感。

 そのまま視線だけで教室を見渡す。特に誰も変わった様子はなかった。みんな普通に会話をしたり、朝食を食べていたり、宿題を慌てて写してもらっていたりするだけだ。

 もしも、今隣に座っている彼女が転校生だというのならば、この四人はまだしも他のクラスメイトまでグルということになる。それはさすがに考えにくい。

 そもそも、この仮説にはひとつとてつもなく大きな欠陥がある。それが一番始めに違和感を覚えた点だ。


 彼女の名前は、・・・・・・・葉月日和・・・・(はづきひより)。


 俺は、彼女の名前をはっきりと思い出すことができる。

 葉月日和というクラスメイトがいるという記憶はあるのに、それはまったく実感を伴っていない。実感のない記憶が自分の中に存在しているのだ。その上、自分以外のクラスメイトはさも当たり前の用にそれを受け入れてしまっているように見える。

 記憶の上では、彼女は確かにクラスメイトだ。この間の席替えで、隣の席に座ることになったクラスメイトだ。

 けれど彼女は確かにこの間までこの教室にはいなかった。

 いなかったはずなのに、いつの間にかいることになっている。

 いつの間にかクラスメイトが増えている。そんな馬鹿な話があるか。

 勘違いか、錯覚か、妄想か。

 でも何故か、この馬鹿げた話はどこか確信めいていて。

 奇妙な感覚がじりじりと喉を締め上げていく。

 これと同じ感覚を樹は知っている。だって何度も経験しているはずだ。けれど何かが違う。少しだけ、だけど確かに違う。ほんの僅かな違和感。気をつけて感じていないと見逃してしまいそうな、見失ってしまいそうな。

 それでもひとつだけ分かっていることがある。

 また、来た。あの感覚が。

 ーー世界が嘘で再構成されていく。

 すぐ近くから聞こえてきている騒がしい会話は、遠くの世界のようだった。

 けれどその奇妙な感覚は、いつも通りの時刻に鳴ったチャイムの音にかき消されていった。

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