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第三章 2


     *


「なぁ樹、今日の英語の宿題なんだけどさー?」

 椅子の背もたれを抱き抱えるように反対向きに座ったトクが毎日のように言うセリフを吐いている。

「やってないのか」

 樹もいつものように返す。

「うん。見せてくれ!」

「ごめん、昨日体調悪くてやってない」

「嘘だろ?」

「嘘だよ」

 意味のないやりとりは、意味がないから意味がある。

 何の変哲もない、いつもの光景。

 今日は特別なことなんて何もない。いつもの通りクラスメイトが会話をしているだけだ。もし、普段と何か違うことがあるとするのなら。


 夏休みまで残り一日。


 ほとんどのクラスメイトはいつもより若干浮き足立っていて、それがいよいよ今日が終われば明日からは夏休みなのだということを体現していた。

 けれどそれをのぞけばわりといつもと何も変わらない朝だ。ぽつぽつと登校してきた生徒が廊下で騒ぐ音量が徐々に上がってきて、教室の中ではあちこちに小集団がつくられ話をしている。

 夏休みにどこかへ行こうと千春が言い出したとき、ほんのわずかに場の空気に何か重いものがのしかかったり、そんなことがあったくらいだ。

 その話題自体は前から出ていて、でも何の進展もないうちに状況は変わり、葉月はこの小集団からやんわりと距離を置くようになっていた。

 朝のホームルームの始まりを告げる予鈴が鳴り、クラスメイトがまだざわざわとしながら席につき始めたときだった。

 その葉月が誰に言われるでもなく教室の前まで歩いていき、教壇に立った。

 クラスメイトの注目を一心に集める様はまるで転校してきたときのようだった。

 ブレもなくすっと立つその姿は、彼女の小柄な身長以上の存在感を与えていた。

「みなさんにお知らせがあります」

 それほど大きな声を出していないにも関わらず、高く澄んだ声はよく通り、教室中に響いていた。それまでの浮ついた空気が自然としんと静まりかえる。

「今日をもちまして、また転校することになりました。短い間でしたがありがとうございました」

 空気が一気にざわめきを取り戻す。

「ひーちゃん・・・・・・」

 千春のつぶやきがその合間に聞こえる。

「なので最後にこの中の一人に言っておきたいことがあります」

 また静まりかえる。静寂と、喧噪が忙しなくいったりきたりしている。それだけですでに異常な空気感だった。

 だが、葉月はその空気感をさらに異常なざわめきへと導いていく。

「私は世界を歪めることを絶対に許さない。だから必ずあなたを見つけ出す。よく覚えておきなさい。必ず、よ」

 強い意志を感じさせる力強い瞳は、まっすぐに前だけを見ていた。

 何を言っているのかほとんどの生徒は理解なんてできていなかっただろう。そもそも葉月も伝えようなどとは思っていなかったのだろう。そしておそらくは先日の嫌がらせについて言っていると思ったのではないだろうか。ほとんど全員が戸惑っている中で、彼女の瞳だけは真剣そのものだった。

 葉月はそれ以上何も説明しなかった。説明する必要はなかった。それだけ言えば、十分当事者には通じると分かっていた。



 そんなわけで、夏休み前最終日は最悪の空気でスタートを切った。

「日和ちゃん、転校って本当?」

「どうしてちーちゃんたちに言ってくれなかったの? 言ってくれてたらもう少し良い形でお別れしたかったよ・・・・・・」

「ごめん葉月、俺が樹に余計なこと言ってこじらせたんだ・・・・・・・ごめん」

 葉月の机のまわりに久しぶりのメンバーが集まる。彼女の突然の発表の後半部分については半ば強引に無視する形で、全員がとりあえず理解できた「転校」という内容を話題にしていた。それもそうだ。自分たちにまず間違いなく関係するのは彼女の「転校」という部分だったからだ。

 葉月はここ最近、一人だった。

 他のクラスメイトとぽつりぽつりと会話をすることはあっても、基本的には一人だった。彼女自身がそれを望んでいたようにも見えたし、先日の嫌がらせとそれにまつわる件で自然と樹たちとは距離をとるようになっていた。

 グループの輪は少しだけぎくしゃくした雰囲気を纏わせながら、それでも全員がなるべく平常運転になるよう努めていた。

「黙っていてごめんなさい。急に父の転勤が決まったの。色々あったから言いそびれてしまって」

 葉月はどこか吹っ切れたかのような穏やかな笑顔だった。

「もっとひーちゃんと仲良くなりたかったな・・・・・・」

「ごめんね、日和ちゃん。私のことで色々と迷惑かけちゃったよね」

「そんなことないわ。迷惑だなんて。私こそきちんと話せれば良かったのだけど」

 そして顔を横に向ける。

 もう一人この輪の中にいるべきで、なかなか入ってこようとしない隣の席の人物へ。

「樹君」

 葉月は真剣な眼差しで見つめていた。

「なんだよ」

「最後に話したいことがあるの。放課後、少しだけ時間をもらえない? 中庭で待ってるわ」

「・・・・・・分かった」

 樹はちらりと理奈の方を見てから、それだけ答えた。

 それだけしか答えなかった。



 休み時間になる度に、葉月の席のまわりには代わる代わる色んな生徒が挨拶にやってきていた。それだけで彼女の人気がうかがえる。ここ数日間彼女のまわりを取り巻いていた威圧感はすっかりと鳴りを潜め、穏やかでにこやかで、めずらしく話しやすい雰囲気を纏っていた。

「理奈」

 いつもより少々騒がしい昼休みが始まった頃、廊下で樹が理奈に声を掛けた。ここ数日、葉月と距離を置くようになってから樹は理奈と行動をともにしていた。登校も下校も、まるで小学生の時に戻ったかのように一緒だった。

 この数日、クラス内の嫌がらせはなかった。

「なに?」

「えーっと・・・・・・今朝の葉月の話なんだけど、ちょっと帰るの遅くなるかもしれない」

 樹は少し視線をずらして話し始めた。理奈は少し口を開きかけ、一度閉じて呼吸をし直してから笑顔をつくる。少しだけ寂しそうにしながら、けれど笑ってみせる。

「うん、大丈夫だよ」

「・・・・・・ありがとう」

 樹の顔は少しだけ強ばっていた。



 授業は終わった。

 帰りのホームルームで、ささやかながら葉月への別れの会が催され、いつもより少し遅めの放課後がやってきた。

 葉月は少しの間クラスメイトに囲まれていたが、「最後にやらなければいけないことがある」と言って教室を出ていった。

 少しして樹もそっと教室を抜け出した。



 中庭に向かうための渡り廊下を歩いていた樹は理奈に後ろから声をかけられ振り返った。樹の表情は相変わらず固かった。

「いっくん」

 樹は何も言わなかった。なんて言っていいのか分からないようにも見えた。

 この渡り廊下からは中庭が見える。中庭からも見えるはずだ。ちらりと中庭の様子を見たが、葉月の姿はまだ無かった。

「ごめんなさい、やっぱり・・・・・・行かないで」

 みるみるうちに理奈の目に涙が溜まっていく。樹はまだ固い表情のままその場に立ちつくしていた。

「理奈、あのさ」

「聞きたくない、お願い・・・・・・どこにも行かないで」

 涙をぽろぽろとこぼしながら理奈は樹に抱きついた。

 樹は理奈を抱きしめ返して、そして思いの外低く冷静な声で言った。


「もう、全部終わりにしない?」


「・・・・・・え?」

「ーーごめん。嘘は、つき慣れてるんだ」

 はっとして顔を上げると、彼の後ろに微かに長い髪が見えた。

 そしての世界は暗転した。

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