第三章 心象世界の彼方に 1
第三章 心象世界の彼方に
次の日。樹が珍しく朝早くに教室に行くと、理奈の机がなかった。
存在が消えたわけではない。当の本人はその机があったはずの場所に立っていた。物理的に机がないのだ。
理奈はただ呆然と、何をするでもなくそれがあったはずの場所にうつむいて立っていた。千春は傍らでずっと理奈の手を握っていた。女子がどこからか運んできた机を理奈の席に置いた。ああ、あれは佐山さんが座っていた机だ。
誰も大きな声を出していないにも関わらず、教室全体がざわついている。嫌な空気だ。誰も声に出さないけれど、今にもでも犯人探しが始まりそうな雰囲気さえ漂っている。
「樹君」
ふと後ろを振り返ると、険しい表情の葉月が立っていた。その様子から見るに、どうやら樹の少し後に登校してきた彼女も状況をすでに理解したようだった。
葉月はただまっすぐに教室を見つめたまま静かに言った。
「あなたがそんな顔してたらだめよ」
そう言われて樹は自分の表情が歪んでいることに気がついた。
「葉月、これって・・・・・・」
「まあよくあるいじめってやつかしら」
葉月は淡々と答える。
「私たちも気を引き締めていかないとね」
葉月は離れていても分かるほど空気の悪いその現場から目を離すことなく、自分の席へと向かっていった。
結局樹が席に着いたのは予鈴ぎりぎりになってからだった。
朝早い時間に発覚したからか、今朝の事件を知っている人はごく限られている。
だから樹にできることはいつも通りにすることだった。理奈がそう望んでいたからだ。
普通に授業を受けて、味のしない昼食を食べ、午後にまた授業を受けて。その後はクラスメイトは散り散りに部活に向かった。理奈もそうした。
千春とトクは放課後になってもまだ樹の席の近くで話をしていた。ふと横を見ると葉月はすでに教室からいなくなっていた。
昨日の深夜には確かに理奈の机はあった。それは葉月も見ている。だからそれは今朝行われたか、もしくはーー。
とにかく葉月と話をしないといけない。
「どこ行くんだよ」
席を立ち教室から出ていこうとした樹の後ろから声がかかった。トクの声だ。
「まさか葉月のところに行くんじゃないだろうな」
振り返ると、トクはいつになく真剣な表情をしていた。
「お前本当に気づいてなかったのか?」
「・・・・・・え?」
「確かにお前はいつも朝が遅い。でも朝だけじゃない。これまでも理奈に嫌がらせがあったこと、知らなかったわけじゃないだろ!」
これまでも、だって?
トクが声を荒げて樹に詰めより、制服のシャツにつかみかかった。身長の高いトクを前に樹は為す術なくただされるがまま呆然としていた。
「ちょうど葉月が転校してきた頃からだ。お前はそれから葉月のことしか見ていなかった。別にそれ自体を責めたいわけじゃない。お前が葉月を好きなら応援したいと思ってた。けれど今は違うだろ! 俺たちはお前の友達じゃなかったのか?」
樹ははっとして顔を上げた。
確かに葉月が転校してきてからは、前ほど理奈たちと過ごす時間は少なくなっていた。理奈がもし、こういった事態を自分には隠そうとしていたのなら。もしかして、昨日の帰りに呼び止めたのは相談があったからだったのか?
俺はずっと気がつかなかったというのか。それともーー。
「トクちゃんやめてよ!」
千春が珍しく声を大きくして間に割って入った。
「こんなの、こんなのおかしいよ! りっちゃんだってこんな風になってほしくて黙ってたわけじゃないんだよ!」
どんなときでも明るい千春の声が震えていた。顔をうつむかせ、すがるようにトクにしがみつく。
「どうしてこんなことになっちゃうの? せっかくみんな仲良くなれたのに、また遊びに行こうって約束したのに・・・・・・」
か細い声が微かに湿り気を帯び、聞いている樹の心をえぐった。千春は誰よりもこの日常が続くことを望んでいた。
「いっくん、お願い」
千春は力なくトクのシャツから手を離し、顔を上げる。目一杯に涙を溜めた顔を隠そうともせず、祈るように樹を見上げていた。
「今だけでも良いから・・・・・・ちゃんとりっちゃんのこと見てあげて」
外に出たときも、まだ空は青かった。もうすっかり季節は夏に移り変わっていた。
まだぼうっと歩いていていた樹は校門を出たところで壁により掛かって立っている葉月と出会った。
結構な時間を待たせていたはずだが、葉月は何も言わなかったし、何も聞かなかった。
さっきの話を聞いていたのかは分からなかった。
「葉月、話があるんだ」
樹は意を決して口を開いた。
葉月に話さなければいけないことがある。きっとそれは、そうではないと願いたいけれど、イブツに関係があることだ。
「ーー今朝はやられたわね」
葉月は樹の言葉を意図的に無視して静かにつぶやいた。
「世界は書き換えられていた。そうでしょ?」
「・・・・・・自信はない」
「今日は随分と弱気ね」
葉月が薄く笑って樹の顔を見る。
「樹君、このクラスから消えたのは何人?」
「・・・・・・丁度二十人」
「もしかしたら、私はとんでもない思い違いをしていたのかもしれないわ」
「葉月・・・・・・?」
葉月の表情は穏やかだった。どうしてこんな状況で平常心でいられるのか樹には不思議だった。
けれどもしかすると、それは葉月なりの強がりだったのかもしれない。
「状況が変わるというのは、イブツにとって好ましくない状況が起きていたということ。相手も追いつめられているのよ。みんなそれに踊らされて、ピリピリしている。この件が全部解決すればみんな元に戻るわ」
「葉月、俺は・・・・・・この件を解決するべきなんだよな?」
「それは私には分からない。けれど私は解決したいと思っている」
葉月は少し反動をつけるようにして壁から身を離し、樹の前に立った。
「言ったでしょ? 私は忘れる。けれど私は何度でも思い出す。何度でも樹君の『嘘』を背負う」 そう言ってそっと樹の前に手を差し出した。
「すべての記憶は武器になる。だから絶対にーー手放さないで」
少しの間逡巡したあと、樹はついにその手を握った。
「だから、よく聞いて」
だから葉月にはきっと伝わったはずだ。
「理奈ちゃんと一緒にいてあげて。頼むわよ」
一方的にそう告げて、葉月は一人で去っていった。
葉月は微かに、確かに、微笑んでいた。
夕暮れが大分遅くなってきた。
そんなことを思いながら樹は校門近くの壁に寄りかかっていた。どのくらい前だったか、葉月がもたれ掛かっていた場所だ。
通り過ぎる見知らぬ生徒たちは楽しそうに下校していく。何も変わらない。いつも通りの光景だった。
一体どこで間違えたのだろう。どこをどうすれば良かったのだろう。きっとそんなことを考えたところで答えなど出るわけがない。
だから今信じている道を進むしかない。どう足掻いても自分たちに残された時間はそう多くない。
「いっくん?」
部活が終わるにはまだ少し早い時間。理奈が千春とトクとともに下校しようとしていた。
「・・・・・・あのさ」
なんて声を掛けようか、待っている間に散々考えた言葉が浮かんでは消え、結局うまく言葉は出てこなかった。
「あー! いっくんも待っててくれたのー?」
千春が明るい声を出す。あまりに下手な演技だった。上手く言葉を出せない樹の代わりにとても上手いとは言えない笑顔を浮かべる。
だから樹も言葉を絞り出した。
「一緒に帰ってもいい?」
一瞬の間があった。
「えー、りっちゃんどうする?」
「断ってもいいんだぞ、なんならここで振ってやれ」
気まずそうにする理奈に、千春とトクが「いつも通り」に笑顔で軽口を叩く。トクが樹に目配せをしてきた。
「ちょっ・・・・・・いいだろ、一緒に帰るくらい?」
「いっくんに選択権はありません!」
「仕方ないな、理奈が嫌だというなら俺たちも嫌だと言うしかない!」
「そうだよね、仕方ない仕方ないっ!」
「お前らそんなに俺と帰りたくないのか!」
「いや、そういうわけじゃないんだけどなぁ、樹に選択権がないのが悪いんだよ。ごめんな?」
「それどうやったら取得できるんですかね」
「うーん、いっくんはちょっと来世まで待ってくれる?」
「遠すぎる!」
ふとすぐ横で小さな笑い声が聞こえた。
「いいよ。みんなで一緒に帰ろう?」
理奈が笑っていた。千春とトクも笑っていた。
「いっくん、ありがとう」
俺は、上手く笑えていただろうか。




