幕間 境界世界の彼女
幕間 境界世界の彼女
ーー消された。
目が覚めたとき、私はほとんど何も覚えていなかった。
分かることはただ「消された」ということだけだった。
それまで何があったのか、どういう経緯でそうなったのかは私には何も分からない。それをしたのが誰なのかも分からない。今となってはその真実を覚えているのはただ一人、イブツだけだ。
どうして私は消えなかったのか。記憶だけが消えて、私という人格だけが生き残ったのか。
私にはそのすべての記憶が、ない。
そうだ。
消された。
全部全部真っ白に、まっさらに、暴力的に、無感情に。ただ最初から何も無かったかのように消された。
私という存在は消された。
そして私の存在をイブツが受け継いだ。
それが私、葉月日和の生まれた瞬間だった。
イブツは私だったものの記憶を根こそぎ奪い、そこから「私」を作った。そして「私」になった。
誰も悲しまない。誰も苦しまない。誰も寂しくない。だって私は今まで通りそこにいるのだろうから。中身がイブツだろうが私だろうが、そんなことは誰にも分からない。誰も知らない。誰も気にしない。
ただ、私一人をのぞいて。
その事実は私を絶望に突き落とした。私はいなくなってしまったことさえ、誰にも知られずに消された。
世界は私が入れ替わったことなど関係なく、ただ粛々と進んでいく。
だから私がイブツを探さなければいけない。それ以外に方法はなかった。
私は「私」を取り戻す。
*
「私の名前は葉月日和。覚えておきなさいーー覚えていられるものならね」
*
「葉月日和!」
名前を呼ばれた気がした。
私は慌てて振り返ると、その名前を呼んだ人物はまっすぐに、間違いなく私を見ていた。
「今、なんて・・・・・・?」
「お前だ、葉月日和。なんなんだ、お前は何をしているんだ? どっから急に現れた?」
呼んだ。もう一度、私の名前を呼んだ。
こんなことあり得るわけがない。
けれど、何度試してもこの男は私の名前を呼んだ。
少し間抜けでいつも軽々と私に手錠をかけさせてくれる。それでも、何度世界を書き換えても私の名前は覚えていた。
「あなたは一体・・・・・・?」
「いやいや、お前がいったい何なんだよ! この間の説明じゃ全然分からないんだけど! っていうかなんで俺毎回つながれてるんだよ」
騒ぎながら中庭のベンチの上でばたばたと暴れている。私はそれを呆然と見つめながら、頬に何か暖かいものが流れるのを感じていた。
「えっ・・・・・・ちょっ、ごめん、言い過ぎた・・・・・・? いや、なんで俺が謝らなきゃいけないんだよ?」
狼狽しながら視線をずらした。
「いや、なんで泣きながら笑ってんの?」
小さく呼吸をする。私はいつの間にか表情がゆるんでいた。
私はここでのクラスメイトとあまり関わらないようにしてきた。いつか私がいなくなったとき、関わりが大きければ大きいほど記憶の欠損も大きくなるからだ。そしてその辛さは、誰よりも私が知っている。
けれど今回は少しだけ、許してほしい。
「橘樹」
「・・・・・・なんだよ」
憮然とした表情で私を見ている。けれど本当に怒っているわけではないのはもう知っている。
「私はあなたに、もう一度会いに行く」
「なんだそれ?」
「そのときあなたはもう私のことを覚えていない。だから、改めて自己紹介するわ」




