第二章 6
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あたりはしんと静まりかえっている。足音はきっちり二人分。時折風で窓ガラスが揺れ、かたかたと音を立てるが、他には何も聞こえない。
時刻は深夜十二時。昼間はすっかり暑くなったが、夜は少しだけ冷えている。
記憶を整理するのにはそれに関係する場所でするのが効果が高いらしい。だが昼間にクラスメイトの前でそんなことをするわけにもいかないし、放課後であっても危険は残る。一番危険性が少ないのはおそらく誰も来ないであろう深夜だった。
そういうわけで、普段なら誰もいない夜の教室に樹と葉月はいた。二人はひとしきり会話したあと、千春とともにファーストフード店を出ると一度家に帰り、また深夜にこっそりと合流していた。
誰もいない教室は思っていたよりも少し広かった。
樹は自分の席に座り、その後ろに葉月が立っている。後ろから場違いなほどよく澄んだ涼やかな声が聞こえた。
「いい? もし辛くなったりしたら言うのよ」
「・・・・・・ああ、分かった」
自分でも忘れている記憶を掘り起こすということは、忘れたかったような辛い出来事を思い出すということだと葉月は言う。
幼い頃から色々なことを意図的に忘れてきた。忘れないと世界に適応できなかった。だから忘れた。
けれどそれを思い出さなければいけない。
「それじゃあ、行くわよ」
葉月に言われていた通りにじっとして目を閉じる。樹が一度深呼吸をすると、ふわりとほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。背中にそっと葉月の手が添えられる。
そのぬくもりを感じると同時に、樹の意識は深く深く、どこか見えない暗闇の奥底へと落ちていった。
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暗い。
けれど、明るい。
地に足が着いていないような不思議な感覚が体を支配していた。
ふと気がつくと視界に一面の本棚が広がっていた。視線を落とすと、足下にも大量の本が転がっている。一冊拾い上げて中を見たが、それはほとんどの文字が真っ黒く塗りつぶされている。写真があったと思われるページなんかは墨をこぼしたかのようにほとんど何があったのかも判別できない。
いや、そもそも確かに目は閉じていたはずだ。開けた感覚もない。
「ここが樹君の心象世界」
後ろから、少しくぐもった葉月の声が聞こえた。慌てて周りを見渡すが葉月の姿は見えない。
「慌てないで、大丈夫だから。私はそこにはいないわ。私は樹君の中に入っていない。樹君をここまで連れてきただけ」
「連れてきたって・・・・・・これは一体なんなんだ?」
「そこにある本は全て樹君の記憶。樹君が体験した本当の記憶と、書き換えられた記憶、全てがある」
思ったよりも膨大な量だ。目の前、左右に延々問続いているようにも見える本棚。図書館のような大型の本棚に、かなり乱雑に本が詰まっている。すかすかに置いてあるかと思えば、ぎゅうぎゅう詰めにされている箇所もあるし、それよりも本棚から落ちた本は圧倒的な量がある。
「それにしても相変わらず汚いわね。少し片づけなさい?」
「片づけろって言われても・・・・・・」
「今の樹君なら、本当のことを知ろうとしている樹君にならできるはずよ」
「できるって、何を? どうやって?」
「その本、見たでしょう? ほとんどがそうやって黒塗りされていたり、ページが破かれていたりしているのよ。だから私には樹君の記憶がよく読めなかった」
「俺も読めないんだけど」
「大丈夫。樹君が思い出そうとすれば必要な本は見つかる。必要なページは復元される。ゆっくりでいいわ。このクラスについて、ゆっくり思い出せることから思い出してみて」
樹は進級した初日について覚えていることを思い浮かべながらほんの山の中を歩いていく。少し早く登校したこと、クラス替えの表、席順ーー。
足下の本を避けながら本棚に沿って向かって左側に向かうと、棚に置かれている本がまばらになっていき、そのうちに端に到達した。本棚はまだ奥まで続いているが本はそこまでしか置かれていない。足下の本もそこで終わっている。
一番端に落ちている本を拾い、何気なくページを開く。そこにあるのはやはり黒塗りの行ばかりだ。
ぱらぱらと大雑把にページをめくっていく。
「ーーーーあ」
そして樹はそこにある文字を見つけた。
『佐山さん』
その文字を見た瞬間に、樹の中に教室での出来事が蘇っていく。
そうだ、佐山さんは進級してすぐの委員会を決める時、他の楽をしたい人たちを押し退けて風紀委員を勝ち取ってみんなの度肝を抜いたんだ。地味なのに目立つ。そういう不思議な人で、でも悪い人ではなくて。席替え前の五十音順で座っていたときは席が近くて、筆記用具を忘れたときには予備で置いているという筆箱を丸ごと貸してくれたんだった。
その瞬間、そのページの黒塗りは消え、確かに樹が見てきた記憶に書き換えられていく。
「そうだ・・・・・・」
忘れていた。
俺にだけは見えていたのに。ただ流れに身を任せて、自分自身に嘘をついてーー彼女の存在を、自分の中から消したんだ。そうやって俺が消していったのは、彼女だけじゃない。
持っていた本をそっと本棚に戻すと、足下からもう一冊本を拾い上げる。
伊藤、三上、武田、一宮・・・・・・そうだ、彼らは俺のクラスメイトだ。
膝をつき、むさぼるようにそこに散らばる本をめくっていく。黒塗りのページは次々に書き換えられていく。
見える。
読める。
思い出せる。
そうやって本をめくっていくうちに樹は気がついた。何故本棚にしまわれている本と、足下に乱雑に投げ出されている本があるのか。それはただ散らかっているだけではない。確かに分別されていた。
「これは・・・・・・俺が捨ててきた記憶だ」
顔を上げ、歩いてきた方向に目を向ける。膨大な量の本がそこに投げ出されている。それは全て樹が見ることをやめ、覚えておくことをやめた記憶だった。
そして、樹は一冊の本を開く。背表紙さえ黒く塗りつぶされた本を。
心臓がおかしな鼓動を打った。
その刹那、世界は暗転した。
急激に現実に引き戻される。地に足が着き、腰の下からは堅く冷たい椅子の感触。目を開けた先には見慣れた教室があった。
はっとして振り返ると、そこに立っていたはずの葉月が崩れ落ちようとしていた。
「葉月!?」
樹は咄嗟に腰を浮かせ手を差し出し彼女の体を支えようとした。
「触らないでッ!」
教室に葉月の叫び声が響き渡った。視線も定まらず意識が朦朧としているというのにも関わらず。
だがすぐに手を引っ込めることはできない。なにより、そんなことをしたら葉月の体は床にたたきつけられてしまう。考える猶予など樹には残されていなかった。
だから樹は何故葉月がそんなことを言ったのか、考える間もないうちにその理由を知った。
「なんだ、これ・・・・・・?」
体の内側に何かの感情が流れ込んでくる。濁流のように一気に樹の思考を浸食していく。
葉月の体を支える手に、少しだけ力が入った。
真っ黒に、真っ暗に覆われた感情。その中にある本当に微かな、見逃してしまいそうな一筋の光。
樹は一気に息を吐き出した。いつの間にか止まっていた呼吸を体が思い出す。
胸が苦しい。締め付けられる。
これは、葉月の記憶?
「見ないで・・・・・・」
小さな手で弱々しく樹の背中にしがみつき、葉月は意識を失った。
「気が付いたか?」
椅子に座らせていた葉月が身じろぎしたのに気が付き、樹が静かに声を掛けた。
「ごめん、俺が無理言ったせいで」
まだどこかぼんやりとした表情で葉月が見つめ返す。その表情がどこかいつもと違う雰囲気を纏っていて、樹はつい顔を逸らした。
教室の窓ガラスからはうっすらと月明かりが指していた。風の音はいつの間にか止み、あたりは深い夜に落ちていた。
葉月が体を動かす気配を感じる。
「記憶を読むのは体に負担がかかること。最近力を使い過ぎて無理をしてしまっていたのかもしれないわ。けれどそれをやると決めたのは私。樹君のせいじゃない」
葉月の声が徐々にはっきりとしてくる。どうやら大事には至っていないようで樹は少しだけほっとしていた。
「でもあんまり無茶するなよ。これからも調べなくちゃいけないことがあるんだろ?」
葉月が気を失っている少しの間、つい先ほどまでいた心象世界で見つけた記憶を樹は整理していた。
けれどまだ混乱していた。自分の心象世界の中で見た記憶。そして、葉月から流れ込んできた記憶に。
葉月に伝えるべきか。樹は迷っていた。
迷って、考えて、結局答えが出るより先に葉月が目を覚ました。
「・・・・・・それより、見たんでしょう?」
それはきっと、葉月自身の記憶について言っていた。
「・・・・・・ああ」
「そう」
彼女は小さくつぶやいた。視線を戻すと、葉月は窓の外に浮かぶ月をまだどこかぼんやりと見つめていた。
「ーーもしかしたら、イブツなのは私の方なのかもしれない」




