第二章 3
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良く晴れた日だった。休み明け、いつもの通りに登校する。
いつものように、自分の席から千春をどかし、机に無造作に教科書を突っ込み、宿題をさぼったトクにノート見せる。
代わり映えのない、至ってふつうの登校日。何の変哲もない、いつもの光景。
隣の席には当たり前のように葉月日和がいる。
樹はそれとなく席を外し、葉月に目で合図を送る。樹が廊下に出てほどなくして、葉月もさりげなく後を追ってきた。
もしかしたらすでに葉月が佐山さんに対して何かしていたのではないかと気になって、樹は葉月に話を聞こうと思っていた。
「・・・・・・今日、佐山さん休みみたいだな。珍しい」
「え?」
朝のホームルーム開始まであと十分。佐山さんには遅刻などありえない。それどころか開始三十分以上前に教室にいなかったことすらないのだ。つまり、この時点で教室にいないということから佐山さんは休みだという結論に至る。よく遅刻ギリギリで現れる樹なんかは「橘君、風紀が乱れるからもう少し早く来られないものかしら」などというなんともありがた迷惑な助言をいただいたりしたことまである。
「いや、ほら、真ん中の列の一番前。佐山さんいつも朝早いからさ」
それを簡潔な言葉で説明する。葉月にはこれで伝わるだろう。
「・・・・・・樹君、一つ聞くわよ」
「何?」
だから樹は、のんきに、何の気なしに返事をする。
「あの席にこの間まで誰か座っていたのね?」
葉月の表情が変わったのを、樹はようやくそこで気がついた。
「何、言ってるんだよ。最近俺たちのことをつけていた・・・・・・ほら、風紀委員の」
自分の声がひどく場違いな空気を含んでいることは樹自身分かっていた。
「分かったわ、樹君。それ以上何も言わないで」
「どうしたんだ? 佐山さんがどうかし、」
「樹君、私がこれから言うことをよく聞いて」
葉月が何を言おうとしているのか思い当たらなかったわけじゃない。けれどそれを認めるわけにはいかなかった。
「その名前は絶対に私と二人でいるとき以外言わない方が良いわ」
「・・・・・・どうして」
何かを思い出しそうになって、それでもそれを思い出さないように。
そしてその結果、俺は分かりきったことを聞いてしまった。
「佐山さんという人の存在はーーこの世界から消されてしまった」
ああ、やっぱり、聞かなければ良かった。
思い出話というのは、時に残酷だ。
そこにあがる話題は、みんなの共通認識のもとにある興味深い出来事であり、その範囲からはずれてしまったものは二度と表舞台に戻ってくることはない。みんなが忘れてしまえば、たとえ事実としてそこにあったことでも思い出話というかたちで再度現れることはない。
それはとても自然なことで、忘れるということは、もしかしたら消えてしまうということと非常に良く似ているか、もしくはある意味で同義なのかもしれない。
だから今日、休み時間のたびにみんなで話す祭りの思い出話の中に佐山さんが一度も出てこないということは、まあ実際彼女に会ったのは自分と理奈だけで、もっと言うと自分たちは取り立てて彼女と仲が良かったわけではなくて、それはそれで自然なことなのだけれど。きっとそうでなくとも、彼女の存在は今現在自分以外の誰にも認識されていないのだろう。
ーー佐山さんという人の存在はこの世界から消されてしまった。
はっきりと断言した葉月の言葉は、現実をあまりに真っ直ぐに樹に突きつけていた。
けれど樹は普段通りの生活をしている。普通に授業を受けて、普通に友達と話し、普通に眠くなる。多少この件について思うところがあっても、特に深くは考えなかった。
だって彼女はいなかったのだ。
ここには、いなかった。
彼女の欠席について、クラスメイトも、担任も、他の教師も、誰も何も言わなかった。ぽっかりと、ただそうあるべきもののように誰も座っていない机が教室の真ん中の一番前に置かれていた。そしてそれはこのクラスに関係する全員にとって、あまりに自然なことだった。
ここに「佐山さん」という人はいない。それがこの世界の総意だった。
だから俺はそれに従うことにした。
「樹君、ちょっといい?」
昼休みに入った途端、難しい顔をした葉月が横から声を掛けてきた。
「俺、今日食堂で食べる予定なんだけど」
そうだ。今日の昼食はトクと食堂で食べることにしていた。きっと千春もついてくるだろう。だから理奈も必然的についてきて、うちの食堂はあまり広くないから早く行かないと席がーー。
「樹君」
葉月がもう一度名前を呼ぶ。
どうしたんだ。どうしてそんな悲しそうな顔をしているんだ。どうして、そんな泣きそうな顔をしているんだ。
葉月の様子に気がついたトクと理奈が心配そうにこっちを見ている。けれど迂闊に声を掛けられない雰囲気に、今しがたやってきた千春さえも黙っている。
「・・・・・・分かったよ」
樹はいたたまれない状況にようやく声を絞り出して立ち上がる。
「ごめん、俺今日は一緒に行けない」
不安そうに見ているみんなにそれだけ伝えて、葉月と連れだって教室を出ていった。
気まずさだけがあたりに充満していた。
遠くから、騒ぐ生徒の声が風に乗ってわずかに聞こえている。そこにはこの平穏な日常に対して何の疑問も含まれていない。
「ようやく分かったの。どうして樹君が『今のところ何も起きていない』なんて言っていたのか」
人気のない校舎裏、一歩だけ先にいる葉月は背中を向けたままぽつりと話し始めた。
長い髪が風をはらんで揺れ、その華奢な体の横では小さな拳をきつく握りしめている。
「あなたは嘘をついている」
葉月が振り返る。その声は決して大きくもなく、強くもなく。それでも確かに樹の心に何かを突き刺していく。
「自覚がないのね」
少しだけ視線を下げる。長いまつげの下で、伏し目がちなその瞳に何かが滲んでいる。
葉月は一体何を言っているんだろう。深刻な顔をして、辛さを噛み潰して、どうしてそんなことを?
「・・・・・・自覚って、何の」
ーーーーー嘘だ。俺はもう分かっている。
「おかしいと思ったことはない?」
葉月は顔を上げ、真っ直ぐに樹を見ていた。そこにはもう、ついさっきまであった泣きそうなか弱さはない。
彼女が何を言おうとしているのか分かっていて、けれどそれでも俺の脳はどうしてもそれを理解しようとしないで。
意識を、記憶を、深く深く、自分でもどこだか分からない場所にまで沈めて。
それでも葉月は容赦なくただまっすぐに現実を突きつける。
「どうしてあの教室の半分は空席なのか」
その短い言葉とともに醜い嘘が露呈する。
嘘で塗り固めた世界が終わりを告げる。
そして、どこかに消失していったはずの世界が再びその姿を浮かび上がらせる。
「私が転校してきたとき、みんなは歓迎してくれた。転入生なんてなかなか来ないものね。でも、樹君。あなたにっとは転入生は珍しくても、『転校生』は珍しくなかったんじゃない?」
自分の中で無理矢理に納得させていた嘘がえぐり取られていく。嘘と嘘が体のどこかで嫌な音を立てて軋む。
「葉月、ちょっと、待って、」
言葉がうまく見つからない。
「私は外部から来た人間で、かつ、こういう状況が何を意味するのかを知っていた。だからすぐに分かったわ。あの教室にいたはずの生徒がどうなったのか。何も知らない人ならば、この嘘に取り込まれているところなのだろうけど」
葉月は話を止めない。
「あのクラスはーー平和だよ」
それでも無駄な抵抗を試みるんだ。もうとっくに理解しているはずなのに。けれどあまりに理解しすぎているからこそ。
「そう思い込むしか方法がなかった。どうしようもなかった。きっとその通りよ。けれど、」
ああ、そうだ。俺は忘れていた。見ないようにしていた。そんなものを直視するのは俺には重すぎる。だって他の誰も、気づいていないのだから。
「樹君が忘れてしまったら、その人達は本当にいなくなってしまう」
「・・・・・・やめてくれ」
ずっとずっと、俺にだけは見えていたんだ。
「イブツに消された人間は真っ当に死ぬことさえ許されなかった。それはあって良いことじゃない。本当は、初めから何もなかったように普通に過ごしていいことなんかじゃない」
「もういい! やめろよ!」
「良くない! 誰にも認識されないならそれはもう無いものと一緒よ。誰も悲しまない。誰も寂しくない。だってみんな覚えていないんだもの。でもそんなの、絶対に間違ってる!」
けれど、俺は分かろうとしてこなかった。
「お願い。だからせめて、その人たちがいたことを忘れないで」
「・・・・・・たった一人でこの世界の嘘を抱えて生きていくなんて、あんまりだ」
「だったらその嘘を私も背負う」
葉月の視線は真っ直なままだった。真っ直ぐで、実直で、誠実で。
そうして、俺の腕を掴んだ。
「私は忘れる。世界が書き換わる度、何度も何度も忘れてしまう。だったら、何度でも思い出す! 何度でも背負う!」
「葉月・・・・・・」
その手は思ったよりも小さくて、微かに震えていた。
そうやって嫌と言うほど現実を突きつけられて初めてーー俺はその現実を自覚した。
「俺はどうしたらいい・・・・・・?」
たったの三ヶ月とちょっとで約半分にまでクラスメイトが減ってしまっていることを自覚した。
「これ以上、誰もいなくならないために、俺はどうしたらいい!?」
その現実を認めるために、はっきりと声にする。絞り出した声は確かな言葉となって鼓膜を揺らす。
しっかりと葉月に目線を合わせる。この世界を、今起きていることを見るために。
葉月はその大きな瞳を揺るがすこともなく、樹を見据えている。
「この事態を収束させるには、イブツを消去するしかない。けれどイブツは人間の記憶を元に再構成されている。見た目は人間と全く同じ。本来そこにイブツがいたとしても確かめる方法はない」
「そんなっ・・・・・・!」
「けれど、私ならそれができる」
彼女はどこか余裕を携えた笑みを浮かべ、勝ち気で猫のような目をまっすぐに向けてそう言った。
「大丈夫、私は負けないわ。だって私は、橘樹という武器を手に入れたのだから」




