第二章 2
*
「おっそいねぇ?」
「おっそいわね」
「おっそいな」
メインの花火鑑賞地点から少し離れた場所に三人は座っていた。祭り会場からは遠くなるが、人もまばらでのんびり見るには丁度良い。
「しかし千春、お前準備いいなぁ」
ラムネを待つ三人が座っているのは草むらに敷かれた大きなビニールシートの上だった。千春が巾着とは別に持ってきていたトートバッグの中には他にも遠足さながら、お菓子が大量に入っていた。
この鑑賞場所も千春が案内してくれた場所だった。買い出し中の二人にもすでに場所を伝えるメッセージを送信済みだと言う。
「へへー! ちゃんと調べておいたんだっ!」
「気合い入ってるわね」
「そりゃぁ気合い入るよー! お祭りだもん!」
ビニールシートの上に千春がせっせとお菓子を並べていく。
「お前、よくこんなに持ってきたなぁ」
「屋台で買って食べる方が雰囲気あるけど、結構高いからね! みんなバイトしてないからあんまりお金ないし! それに、」
「それに?」
千春の準備をする手がふいに止まった。
「みんなでお祭りに来られるなんて、思ってもみなかったから」
「・・・・・・千春ちゃん?」
「楽しいんだ、今の生活」
ぽつりと、小さな声でつぶやいた。
千春が下を向いていた顔をぱっと上げる。そこにあったのはいつもの笑顔だった。
「えへへー! ちーちゃんね、去年あんまりクラスになじめなくて。仲良い子とかいなくてさ! だから今年、みんなに仲良くしてもらえて毎日すっごく楽しいの! クラス替えの初日にりっちゃんに声かけてもらって、いっくんとも仲良くなって。今はひーちゃんも一緒にいてくれて・・・・・・トクちゃんもいじわるだけどたまにお菓子くれるしね!」
「俺はお前の飼育係か! その割には身長伸びねぇな!」
「うっさい! ひーちゃんだってあんまり身長変わらないもん!」
「他の要素でお前は圧倒的な差をつけられてるんだよ!」
「なにそれーっ! どういう意味っ」
「そこにくっついてるまな板にでも聞いてみろ!」
「しめてやるっ!」
「おー楽しみだ! やってみろ!」
「むきぃぃっ!」
ーー楽しいんだ、今の生活。
葉月はその言葉をひとり脳内で反芻している。
目の前では千春とトクが無邪気にじゃれ合い、仲の良い友達である樹と理奈を待っている。そうやって、ずっとこんな日が続くことをきっと誰も疑ってなんかいない。彼らは、気がついてなんかいない。そしてそんな生活が、楽しいと言う。
醜く、ぐちゃぐちゃで、もう絶対に取り返しのつかない犠牲のもとに成り立っている生活を。
けれどそれは彼らのせいではない。彼らのクラスのたったひとりをのぞいて、彼らのせいではない。それは、分かっている。
だから自分がこれからしようとしていることを正当化するつもりもない。きっとそれは、彼らの知らないところで、けれど確実に彼らにとっても取り返しのつかないぐちゃぐちゃで醜いものにしかならない。もしかしたらそれは彼らの生活を、彼らの気づかないところで一変させて、もしかしたら楽しくないものにしてしまうのかもしれない。何がどう変わるか、自分にも予測はつかない。
できるのなら、彼らに幸せな未来を。
葉月は一度きゅっと両の拳を握り、それから小さく息を吐いた。
「良かったわね、千春ちゃん」
「ほぇ?」
「私も、みんながこれからも楽しく暮らせることを祈ってる」
葉月は千春にふっと微笑み、そっと千春の背中に手のひらを当てた。
「うんっ! ひーちゃんありがとう!」
千春がにこりと笑いかける。
その笑顔が、どうか壊れないように。どうか、続くように。どうかーー。
*
「ごめん、混んでたー」
「りっちゃん達おそいよぅ!」
人混みをかき分け、理奈が三人の座ったビニールシートに駆け寄っていく。少し遅れてやってきた樹もようやくシートにラムネを置き、理奈とともに腰を下ろした。
もうすぐ花火が始まる。まわりも徐々にざわめきたち、祭りのメインでありフィナーレである花火が打ち上がるのを今か今かと待ちわびていた。各々がラムネに手をかけ、栓を押す。
「そういえば、さっき佐山さんに会ったよ」
ラムネを一口含んでから、樹が小声で葉月に話しかけた。
「友達とでも来てたの?」
「いや、少なくとも俺があったときは誰かと一緒っていう感じではなかったな」
「そう」
やけにそっけない。
「えーと、なんかあった?」
「別に」
「・・・・・・あっそ」
周囲からわっと歓声があがると同時に、もうすっかり陽の落ちた夜空に光の花が舞った。
「はーい、いっくんにもお菓子あげるよー! ラムネのお礼ねっ」
「おう、サンキュー」
「はいっひーちゃんも!」
「もういっぱいもらったわよ? いいの?」
「いいのいいのー!」
千春はいつになくテンションが高い。もはや花火をちゃんと見てるのかと問いたくなるほど、ずっとしゃべっていた。理奈が相づちを打って、トクが茶々を入れる。これでは教室での休み時間とあまり変わりない。でも、それはそれで安心する。
足がしびれてきて一度立ち上がると、葉月も続けて立ち上がり、二人して少しだけシートから離れたところから花火を見ていた。
「ねぇ、樹君」
「うん?」
ふいに、葉月が声をかけてきた。静かな、落ち着いた声だった。
「さっき千春ちゃんが言ってたの。今の生活が楽しいって」
「へぇーそりゃ結構なことだ」
最後の一口になったラムネを飲み干す。空には次々に色とりどりの花が咲いては散っていく。
「樹君は?」
「へ?」
「樹君は、楽しい?」
そう言った葉月は、真っ直ぐに花火を見上げていて。樹には言葉以上の感情は読めなかった。
「まぁ、楽しいかな」
「本当に?」
「・・・・・・何言ってんのか分からないんだけど」
「そうね」
風が吹き抜けるとほのかに甘い香りが鼻をくすぐった。
花火が上がる度、体に響くような音が鳴る。内側から何かを揺るがすような響き。それほど離れてはいないはずの他の三人のはしゃぐ声が、どこか別の世界のもののように感じられていた。
「私がしようとしていることは、樹君の望むものとは違うかもしれない。きっと樹君のやってきたやり方とは真逆のことだもの」
「なんだよそれ」
「それでも私は確かめる。何が起きているのかを。だから、私は佐山さんの記憶を読む」
葉月はただ、まっすぐに前を見ていた。
「尾行をしているのはおそらく彼女よ。これまでのような簡易的で短時間のものではなく、彼女の記憶にしっかりと入り込む。彼女自身がイブツかどうかは分からない。何よりまともに触らせてもらったことがないから断言はできないけれど、彼女の記憶は年齢の割にあまりに少なすぎる。イブツに関係している可能性はある」
「じゃあ、佐山さんの記憶が読めれば何か分かるのか!?」
「見てみないと分からない。でも、やる価値はあると思うの」
そこで葉月はふと表情を和らげ、ようやく隣の樹を見た。
「私は、樹君達の世界が本当に楽しいものになるって、そう信じたい」
「なにそれ」
心の奥底から、得体の知れない感情がのどを通ってせり上がろうとしてくるのを無理矢理に沈み込める。
「全部が終わって、私がいなくなったときーー樹君にはちゃんと、笑っていてほしい」
葉月は笑顔だった。
その言葉の意味を考えようとして、けれどその思考は葉月が続けた言葉にかき消された。きっと、彼女なりに気を使ったのだろう。
「でも佐山さん、ちゃんと触らせてくれるかしら」
「結構難しいかもな、警戒心の塊だから」
「それもそうね。彼女は何にも関係無かったとしても、性格上手強そうだわ」
葉月がくすりと笑う。樹もつられて笑った。
「葉月の知りたいこと、分かるといいな」
「うん。ありがとう」
騒がしくて楽しかった夜の宴は、静かに、けれど確実に終わりに近づいていく。
佐山さんの記憶を読めば何かが分かる。これで全部終わる。たったひとつ手に入れた手がかりに、根拠もなく、ただそう思っていた。
もうすぐくる夏休みを前に、葉月は俺たちの前からいなくなる。自分のやるべきことを終えて、初めからそこにいなかったかのようにいなくなる。みんなで祭りに来て、花火を見て、少し感傷的な気分に浸って。もしかしたらこれが葉月に会う最後になるのかもしれない。けれどそんな思い出も俺の中にしか残らず、それすらもいつか消えていくのだ。これまでのように。
そのときの俺は、そんなとんでもない勘違いをしていたんだ。




