八話
石鹸のいい匂いがする。柔らかな髪が顔の前で動く。まだ濡れている。腕枕をするのは久しぶりだ。ミラと最後に一緒のベッドで眠ったのはいつだっただろうか。ソファで寝たほうがよかっただろうか。クレハはいいポジションを見つけたのか、あまり動かなくなる。俺が仰向けになり左腕を伸ばして腕枕をして、クレハが俺に背を向けている状態だ。こんなに近くにうなじが見えていると緊張する。首にかかっている紐は魔術師証。寝るときにもつけているのは、国からそれが推奨されているからだ。
「ごめん、ちょっと狭いだろ」
「ちょっとどころじゃなくて、だいぶ狭いわよ。キースが大きいのにベッドが狭すぎるんだわ。新しいベッドを買ったほうがいいんじゃない?」
このベッドは俺がここに住む前から設置されていた。この家の前の持ち主、ミラの後見人であったマヤのものだ。それを譲り受けたが、古い木の匂いが俺のお気に入りだ。新しいものを買ってもいいが、まだ使えるのだからいいじゃないか。
「一人なら十分な広さなんだ」
「ごめんなさいね。私なんかが邪魔をして」
言いながら、クレハは何やら楽しそうだ。ギアと会話ができるのが嬉しいのだろう。だが、ギアと話す前にシャワーを浴びたいと言い始めるとは思わなかった。おかげで、朝風呂派の俺も入浴するはめになってしまった。汗くさいままクレハと眠るわけにはいかないからだ。
俺と一緒に眠るということ自体を、クレハは嫌がるものだと思っていた。しかし、そんなことは一切なく、ソファよりも寝慣れたベッドがよいだろうと進言してきたのもクレハのほうだった。俺を男と思っていないというよりは、ギアと話したい気持ちのほうが強いのだろうと納得した。研究職の宮廷魔術師はみなこんなものなのだろう。
「腕は痛くない?」
ぐるりと振り向かれると、柔らかい髪の毛が二の腕をくすぐっていく。顔が近すぎる。クレハは俺のことを気にしていない。それは十分わかっている。だからこそ、俺は気をつかってなるべく密着しないようにしているのに、それを崩そうとしないでくれ。勝手にドキドキしてしまう。
「だ、だいじょうぶ」
「眠れそう? 私、ちょっと興奮しすぎちゃって、眠るのにもう少しかかりそうよ。ふふ。変なの」
"早く眠ってください、キース!"
クレハが準備してきた寝巻きは思いのほか薄い。体温や柔らかさが結構直接的に感じられる。すべすべの足が、俺の足にぺったりと引っつく。俺にその気はないのに、ギアが興奮しているのがわかる。ミラのときにはなかった傾向だ。俺とギアは、女の子の好みが違うようだ。
俺とギアがそんな不純なことを考えているのに気づかないで、クレハは少し声のトーンを落とした。
「……ごめんね、マールのこと」
「え?」
「助けられなくて、ごめん」
助けられなかったと、自分を責めているのか。クレハの声は暗い。
「クレハが謝ることじゃないだろ、それは。むしろ、すぐに駆けつけてくれて、どれだけ俺が心強かったか」
涙が浮かんでいるのか、見上げてくる瞳がキラキラと光っている。そうか。彼女は彼女で気にしているのだ。マールを助けられなかったことを悔やんでいる。
「クレハのせいじゃない。魔族がやってきたのも、マールが死んでしまったのも、クレハのせいじゃないんだ」
「うん……ありがとう、キース」
ぽんぽんと右手で頭を軽くたたくと、クレハがぎゅうと胸に抱きついてきた。一気に体が熱くなる。これは、緊張のせいだ。きっと。そうでなければ困る。
「ちょっとだけ、胸、借りるね」
ぐすぐすと小さく嗚咽が漏れる。確かに俺は緊張しているが、それだけだ。役得だなぁと感じているだけだ。平常心を装って、クレハの髪をなでる。
「あのさ、クレハ」
「……」
「囮、怖くないか? やっぱり考え直したほうがよくないか? ご両親が心配するだろ?」
「……」
「クレハ?」
見下ろすと、クレハは微動だにしていない。反応もない。すぅすぅと規則正しい呼気が聞こえる。あぁ、もう寝てしまったのか。
「緊張しているのは俺だけか……」
それにしても、クレハの睫毛は長い。肌のきめも細かい。こんなに近くで彼女の顔を見たことはなかった。クレハの体が思いのほか華奢で柔らかいということも知らなかった。新鮮な気分ではあるけれども、同時になんだかおかしな気分でもある。キスできそうな近さではあるけれど、二人の心の距離ははるかに遠い。とても不思議だ。
「おやすみ、クレハ」
目の前にある額にキスをして、クレハの髪をなでていた右腕をそっと彼女の腰のあたりにおいた。恋人ができたらこんなふうに一緒に寝てみたいと思いながら、俺は静かに目を閉じた。