十四話
左手のしびれで目が覚める。今日も俺の左腕は枕代わりとなっている。
それにしても、研究室に仮眠室があるとは知らなかった。眠る前にクレハに聞いたところ、室長室には必ず仮眠室があるのだという。普通の研究室には備えつけられていないようだ。ザッカス研究室は室長室と兼ねているので、研究室ではあるが仮眠室があるのだそうだ。
仮眠室のベッドは俺の家のベッドと同じくらい狭い。ベッドは二つあるにもかかわらず、なぜかクレハは一緒のベッドで眠ることを懇願した。ギアと話したいからなのだろうと承諾したが、昨晩はギアがクレハを呼んだ気配がない。いや、もしかしたら、俺の知らないところで呼んだのかもしれない。俺には気づかれない話がしたかったのかもしれない。まったく、こいつらは、俺の体を何だと思っているのだか。
「……あぁ、おはよう、キース」
俺が左腕を動かしたからか、クレハも目を覚ます。日の光に当たって、癖のある茶色の髪が金色に見える。伸びをして一息ついてからクレハは俺を見下ろす。不思議そうな表情を浮かべている。
「キースは今日も私より先に目が覚めていたのに、何で先に起きないの?」
「クレハが俺の腕を枕にしているからだろ。そうじゃなかったら、先に起きているよ」
左手の具合を確かめながら、起き上がる。やはりしびれが少し残っている。
「あぁ、そうか。私を起こしてしまわないようにという配慮なのね。ありがとう」
礼を言われるようなことではないけれど、そう言われると少し嬉しい。
ザッカス室長はまだ出勤なさっていない。交代で仮眠室で着替えをして、備えつけの洗面台で顔を洗うと、クレハがポツリと「おなかすいた」とこぼした。そういえば、昨日はロング室長や騎士から事情を聞かれたりして、結局夕飯を食べ損ねたのだった。揚げポテトも最後までは食べていない。
「食堂が開いていればいいんだけどなぁ……」
「あ、食堂か!」
何かを思い出したクレハは、いきなり部屋の外へと向かう。警護騎士の俺も慌ててついていく。四階の騎士に挨拶をして、階下へ降りる。おそらくは、公務棟の二階にある食堂へ向かっているのだろう。宮廷公務員なら誰でも利用できる大きな食堂だ。俺もよく利用しているが、王族の食事を作っているだけあって、とても美味しい。レイン・ミストールという太った女の人が料理長を務めている。朝、利用できるのかどうかわからないのだが、クレハはそれを気にせずに食堂へと向かう。
あぁ、そうか。そういうことか。
準備中と書かれた札も魔法灯が落ちて暗い室内も気にせずに、クレハは食堂の中へと入っていく。俺たちの姿に気づいた料理人が、厨房の奥のほうにいる誰かに声をかけている。そして、クレハがカウンターにたどりついたときに奥からひょっこりと顔をのぞかせたのは。
「あら、誰かと思ったら、クレハ。帰っていたのね。どうしたの?」
「母さん、おなかすいた。昨日の昼から何も食べていないの。何でもいいから、食べたいんだけど」
そうか。料理長のレイン・ミストール殿はクレハの母親だ。レイン殿は一瞬だけ考え込んだが、すぐに笑みを浮かべた。そういう裁量は彼女に一任されているらしい。
「いいわよ。あり合わせのものでよければ作ってあげるわ。二人分でいい?」
「ありがとう! 二人分でお願い!」
魔法灯を点け、ニコニコしながら、クレハはカウンター近くの席に座る。
「レイン殿がクレハのお母さんなんだね。帰ったことくらい、知らせておけばいいのに」
「忘れていたんじゃないのよ。知らせなくてもいいような関係なの。みんな好きなことを好きなようにしているだけだから。父は外交官だし、私はこんな仕事だし、家族とは言っても三人が集まることはあんまりないの。もう慣れちゃったけど」
そういえば、敏腕外交官のリドル・ルーセント殿が父親だった。彼はかなり有能なので、女王陛下の命令で世界中を飛び回っていると聞く。国王陛下の配下だという噂もあるくらいに、王族とは親密な関係を持っている。
「あ、そうだ。昨日、渡すの忘れていたんだけど、はい、これ」
クレハがポケットから取り出したのは、銀色に鈍く光るブレスレット。細工は簡素なものだが、赤い宝玉がついている。俺はこれが何なのか知っている。似たようなものを昔使っていた。
「リオン殿から?」
「よくわかったわね。魔法道具。効果は……何だったかな。防御能力を高める、だったか、攻撃力を高める、だったか」
「俺がつけるのか?」
「私はもうつけているもの。二つもいらないわ」
昔、ギアを抑えるために似たようなものをつけていた。魔法学校の高学年になったときに外してもいいと言われたのが懐かしい。あれはもっと派手な感じのブレスレットであった。これはシンプルなのでつけやすい。左手につけようとして、やめる。右手にブレスレットをはめた俺を見つめて、クレハがきょとんとしている。どうして右手なのか知りたそうだ。
「左腕は、誰かさんが勝手に枕にするから」
クレハは一瞬の間のあと、頬を赤らめて微笑んだ。
「ありがとう」
「なに、あんたたち、付き合っているの?」
ニヤニヤしながらプレートをテーブルの上においたのは、レイン殿。俺とクレハは慌てて否定する。
「違うわよ!」
「違います!」
「あら、仲がいいことね」
うふふ、とレイン殿は笑う。母親というものは、誰でも同じなのだなと、ミラのことを考える。ミラも、俺が女の子の話をしていたら目をキラキラさせて「好きなの?」と聞いてきたものだ。異性との関係が気になるのだろう。
「今、大変なの? 対なんちゃらって非常事態宣言が出ているくらいだもの。帰ってきてから、あんまり休めていないんじゃない?」
「大丈夫よ。今はバタバタしているけど、すぐ落ち着くと思うわ」
囮のことはまったく伝えない。親を心配させたくないというクレハの気持ちなのだろう。それを知っているから俺も口出しをしない。それよりも、プレートからただよういい匂いが食欲を刺激する。彩のいい料理が並んでいる。
「クレハは無理をしすぎるんだから、倒れないように気をつけなさいよ」
「わかっているよ。ほどほどにしておくから」
「じゃあ、ゆっくり食べなさい」
ひらひらと手を振って、レイン殿は厨房へと戻っていく。その背中を、寂しそうにクレハは見送る。俺がいなければ、もっと長く話せただろうに、とんだ邪魔をしてしまったものだ。
プレートに目を落とす。自然とよだれが出てくる。魚介類とオレンジトマトのスープに、香ばしい匂いの焼きサーモンフィレル。チーズサラダも美味しそうだ。クレハのプレートは少なめだ。さすが母親。クレハが朝はあまり食べられないことを知っているようだ。パンは温かく、塗られたオリーブオイルが食欲をそそる匂いをさせている。思わず、先にパンから口に運んでしまう。予想通り、じわりと口の中に温かいオイルが広がっていく。
「ごめんなさいね。母が余計なことを」
「いや、それは別に構わないよ。それより、俺がいないほうがよかったね。レイン殿ともっと話したかっただろ」
「大丈夫だよ。心配してくれてありがとう。母とはずっとこういう感じだから、構わないの」
時折歯を気にしている素振りで、クレハはサーモンフィレルを口に運んでいる。目を細め、笑みを浮かべる。美味しい。スパイスがぴりりと効いている。
「やっぱりレイン殿の作ったものは美味しいなぁ」
「ありがと。私も母が作った料理は好きよ」
クレハのことを褒めたわけではないのだけれど、身内だからだろうか、それでも礼を言うところがクレハらしい。
「母の煮込み料理はすごく美味しいんだから。野菜と肉を一日しっかり煮込むのよ。女王陛下もお気に入りなの」
チーズサラダを口に運びながら、クレハはニコニコしながら母親のことを褒めている。何だかんだ言いながら、彼女はレイン殿のことを慕っているし、家族のことが大好きなのだろう。とても微笑ましいと思うのだ。