十話
目が覚めると、クレハはまだ小さく寝息を立てながら眠っていた。額は薄っすらと汗ばんでいて、前髪が額に張りついている。寝顔だけ見ていると、かわいいのではないかと思う。もちろん、俺の好みではないけれど。
左手の指先がぴりぴりしている。どうやら腕枕のせいでしびれているようだ。腕を抜いたらクレハが起きてしまうだろう。どのタイミングで腕を動かそうかと思案していると、「うん」と小さくつぶやいて、クレハが目を覚ました。
「……おはよう」
「ん、おはよ……よく眠れた?」
寝ぼけて殴られたり罵られたりすることを覚悟したが、そんなことはなく、クレハは目をごしごしとこすりながら微笑む。寝起きは非常によいようだ。
「あんまり眠れたという感じがしないな」
「私も。キースの中に入るのはちょっと疲れるわね」
同感だ。夢の中でも活動をしていたという感覚が残っており、疲れが取れていないと感じる。
「でも、男の人の腕の中で眠るのってすごく気持ちがいいものなのね。知らなかった。初めてだったからちょっと感動しちゃった」
クレハが無邪気にそんなことを言うものだから、俺は反応に困ってしまって、「起きようか」と曖昧な笑みを浮かべるだけだった。
二人分の朝食の準備はしていなかったので、昨日作ってあった魚介類のスープにミルクとチーズ、米を足して、リゾットにする。レッドサーモンのフレークとタマゴでスクランブルエッグを作る。バターを落とすとコクが出る。クレハは「朝はそんなに食べない」と言っていたので、その言葉に甘えて簡単な朝食にしよう。
「すごい。キースってごはん作れるんだ」
着替えたクレハが食卓につく。この間までミラが座っていたところにクレハが座るのは何だか違和感があるけれど、誰かと食事をするのは久しぶりだ。
「ミラから教わっていたから。一人でも生きていけるように」
「まぁ、そうね。いい教育者だわ。さすがミラ」
クレハとミラは、ミラが教師になる前からの知り合いだ。クレハは、ミラの夫であるレオ・ヴァレンタインの兄弟と友達で、ヴァレンタイン家によく出入りしていた。その頃はまだヴァレンタイン家のメイドであったミラと面識があったのだ。サンドリュート魔法学校の教師となったミラのことを、「ミラ先生」と呼ばず「ミラ」と呼ぶのはその名残だ。
「ああ、いい母親で、いい教師だったよ」
「いい女だった、とは言わないのね」
思わず、リゾットを噴出しそうになる。何食わぬ顔でクレハは微笑む。
「キースがミラのことを好きだったのはみんな知っているわよ」
"有名な話ですからね"
……この展開にも、もう慣れてしまった自分がいる。慣れとは恐ろしいものだ。
「まぁ、告白もできずに、人のものになってしまったからね」
「人生なんてそんなに甘くないものよ。自分が好きになった人が、自分を好きになってくれるなんて、奇跡なの。奇跡なんて、めったに起こらないんだから」
クレハの言葉には、何だろう、見えない寂しさが詰まっている気がする。クレハの言葉からは奇跡を諦めているかのような印象を受ける。
「それにしても、美味しいわね、リゾット。歯も痛まないわ」
「ありがとう。歯が痛むのか?」
「ええ。奥のほうの歯が痛くて」
虫歯でもできたのだろうか。右の頬を押さえ、クレハは微笑む。
「スクランブルエッグも美味しいよ」
「ありがとう。ミラは料理も教え方も上手だったんだ」
「私の母は宮廷の料理長だけど、忙しすぎて、料理なんて教わったことなかったからなぁ。やっぱり環境が人を育てるのね。キースは素直に育つし、料理上手だし、ギアは楽しいし、おもしろいし……きっと、環境がよかったのね。だとすると、キースはアストリアに来て正解だったのね」
俺はきっと、目を丸くしてクレハを見つめていただろう。
ネルド国からアストリア国にやってきて、俺自身はすごく助かったし、救われたと思っていた。けれど、ミラの苦労や国の負担のことを思うと、俺はここにいていいのか、俺はここに来てよかったのか、常に疑問に思っていた。思わぬところで、自分の存在を認められるとは想像だにしていなかった。まさか、クレハだったとは。
「なに、きょとんとしているの」
「あ、いや……ちょっと、いや、だいぶ驚いて」
「なんで?」
「俺、そういうふうに言われたことなかったから。アストリアに来てよかった、なんて」
「なに、言っているの」
俺はきっと、この、クレハの言葉を一生忘れないだろう。クレハは微笑みながら、俺がずっと抱えてきた疑念を払拭してくれたのだった。
「よかったの。すごくよかったのよ。だって、キースはひどい虐待を受けていたのだから。殴られて蹴られることが普通だったのよ。そんな日常、おかしいわ。絶対におかしい。肉体的にも精神的にもボロボロだったはずよ。死にたくなるほどしんどかったはずよ。けれど、キースはザッカス先生に見つけてもらえた。そして、アストリアに来て自由を手に入れたのよ、キースは。それだけでも十分アストリアに来た価値はあるわ」
クレハの言葉はすとんと心に響く。なぜだろう。ミラに「ここにいてもいいのだ」と諭されたときよりもずっと心に響く。
「だから、騎士になったんでしょう? 恩返しがしたいんでしょう? なら、魔人であることを恥じる必要も隠す必要もないし、アストリアにいることに引け目に感じることなんてないの。魔法騎士を必要としている人はたくさんいるわ。その人たちを助けるためにも、キースはアストリアにいてもいいの。ううん、いなくちゃダメなの。アストリアに、キースは必要なのよ。ここがキースの居場所なのよ」
あぁ。その瞬間に、俺は悟った。クレハはアストリア国に必要な人間だ、と。そして同時に、強く思う。この人を守らなければならない、死なせてはならない、と。
"ずっと前から言っているでしょう? クレハはいい女ですよ、と。私の目に狂いはありません"
そうだな、ギア。こればかりは、本当に、同感だ。
「……ありがとう」
俺の感謝の言葉がスクランブルエッグを頬張るクレハに届いたかはわからない。美味しそうに食べているクレハを見つめて、俺は本当に安堵していた。俺は、ここにいてもいいのだ、と。