九話
ギアが棲んでいるのは俺の左目だ。情報をエサとする現象体。なぜ俺の左目に宿っているのか、理由はわからない。ギアが何者なのかもよくわかっていない。強大な魔力を持っているということと、情報をエサにすることくらいしかわかっていない。結局ギアは魔族なのではないだろうかと思うのだけれど、定義がよくわからない。俺はギアとセットで魔人と呼ばれるようだ、と納得している部分がある。
"キースはキースで、私は私なのですけれど"と、ギアは言う。それは俺もよくわかっている。俺とギアは、好みも嫌いなものもまったく違うし、行動や言動も違う。俺は剣術のほうが好きだが、ギアは魔法のほうが好きだ。俺は感情的で、ギアは理論的だ。俺はミラが好きだったが、ギアはクレハが好きだ。俺の体に宿る魂だとしても、二つの個性は違いすぎる。
「ギアは私のことが好きなのね」
"当たり前ですよ。キースでさえ気づくのに時間がかかったのに、クレハはすぐに私に気づいてくれました。私のことをきれいだと言ってくれました。そのときから私はずっとクレハのことが好きなのですよ"
クレハとギアの声で目が覚める。目の前に広がっていたのは、平べったい野原だ。芝生ほどの緑の草花が茂っている野原だ。空は薄い青色。小川のせせらぎさえ聞こえそうなのどかな風景ではあるが、大きな石の上にクレハと黒い狼が仲良く腰かけているのを見つけて、ここが自分の中であることをようやく理解する。
「ギア」
黒い狼はギアだ。ギアはクレハの膝の上にあごを乗せて、だらんと寝そべっている。甘えているのだとすぐにわかる。そんなギアの頭を、愛しそうにクレハがなでている。不思議な光景だと思う。二人に近づくと、ギアのほうが先に顔を上げた。
"キース、眠るのが遅いですよ"
「ごめん、緊張して」
「何に緊張したの? 久しぶりにここに人を呼ぶから?」
クレハはきょとんとしている。俺がクレハの存在自体に緊張していたとは想像すらしていないようだ。
「確かに、この野原は一応俺の心の中なんだから、あんまり人を呼び入れたくはないよ」
「うん。ごめんね。ありがとう。でもここはすごく居心地がいいわよ」
"クレハにはいつまでもいてほしいのですけれど"
ギアがこんなにも軟派なやつだとは思わなかった。意外だ。
ギアの黒い毛並みは艶々としていて、とてもきれいだ。毛並みが自慢だと昔から言っていた。瞳は真っ赤だ。すべてを見通す、特別な目だ。真っ黒な狼が真っ赤な目でこちらを見ていると、何だかとても恐ろしいもののようにも思える。けれども、クレハは恐ろしいとは感じていない様子で、手触りのいい毛並みを確かめながら幾度もなでている。
「ねえ、キース。ギアは私のこと好きなんだって。知っていた?」
「……ああ。昔から」
さっきの声はやはり二人の会話だったのか。ギアは嬉しそうに尻尾を振っている。
「そっか、知っていたのかぁ」
「黙っていてごめん。でも、困るだろ、こういうの」
「ううん、全然。私、昔から変なものに好かれる性質だから、別に驚きもしなかったし、困りもしないよ。キースとは別の魂なんだから、キースが謝ることじゃないよ。うふふ。ありがとうね、ギア。私のことを好きになってくれて」
普通なら、こんなものに好かれても嫌がるものだろう。それなのに、この状況を受け入れて納得している。常人には到達できない境地だ。俺が思っていた以上に、クレハは、おかしな人間なのだろう。
"毎日のようにこうして私に会いに来てくださるとありがたいのですけれど"
「ダメよ、ギア。毎日キースと一緒に眠ることはできないわ。私には仕事があるんだもの」
国内外を飛び回っているからこそ、俺と一緒に眠ることはできない、と彼女は言う。それはおかしくないか? もし仕事がなければ、ギアに会いに来てもいいというような口ぶりではないか。隣で眠らなければならない俺の都合は無視するというわけか?
「ギア、それはやめてくれ。俺は一人で静かに眠りたいんだ」
ギアは大きく口を開けてあくびをした。それが返事だと俺は理解する。
それにしても不思議な光景だ。俺の頭の中に、ギアと俺とクレハがいる。ミラが呼ばれたときも思ったが、やはり不思議な光景だ。
「話は終わったのか?」
「ええ、一通りは」
「何の話をしていたんだ?」
「そうね……すべてを見通す目と魔力を知覚できる力がありながら、どうして魔族に気づかなかったのか、という点の確認。今後、魔族の気配を感じたら、すぐにキースに知らせてほしい、ということ。つまりは、ギアに協力を依頼したの」
嘘だ。クレハの笑顔の裏に隠されているものは、そういうものではない。俺にはわかる。クレハとギアは何かを隠している。だが、今それを問いただしても、ギアも彼女ものらりくらりと質問をかわすだろう。
「協力を依頼……ギアが引き受けたのか? ギアは交換条件がないと動かないんだぞ」
最近、ギアから情報を引き出そうとすると、それに見合うものを要求される。交換条件を突きつけられることが多いのだ。その取引がギアの遊びだとは理解しているが、まさかそれをクレハにも突きつけたのではないだろうな? とたんに不安になる。
"人聞きが悪いことを言わないでくださいよ、キース"
「そうよ、キース。こちらがお願いしているんだもの。どんな条件でも飲む覚悟くらいしているわよ」
つまりは、クレハはその取引に応じたということか。
「……ギア、何を頼んだんだ? とんでもない条件じゃないだろうな?」
"だから、そんな大それたことなんてお願いしていませんよ"
「そうそう。キスくらい、どうってことないよ」
……ギア。お前っていうやつは。今、本当に、見損なったぞ。
「何度でもしてあげるよ、ギア」
"本当ですか?"
ギアは心底嬉しそうだ。ギアの鼻の頭にキスをして、クレハは微笑む。ギアの尻尾がぶんぶんと振られる。よほど嬉しいようだ。
「ギア……お前ってやつは。クレハもクレハだ。どうしてそんなに簡単に条件を飲むんだよ。そんなことして、ギアが図に乗って、それ以上の要求をし始めたらどうするつもりなんだ。俺は責任が取れないぞ」
「キス以上のこと?」
クレハはきょとんとしている。ギアと俺とを見比べ、微笑む。
「ギアは私のことが大好きで、本当は私を手に入れたくてしょうがないの。そばにおいておきたくて仕方がないの。それくらい知っているわ。だから、その気持ちを少しでも埋めてあげようと思っているの。需要と供給が一致しているのだから、構わないんじゃない?」
"そう。私はクレハを手に入れたくて仕方がないのです。ですから、お互いが要求を満たすためにお互いを利用しているのですよ。それで構わないのです"
笑いながら、なんてことを言うのだ、この二人は。
「キース、ギアはね、私をここに捕らえておくことなんて簡単にできるの」
「え」
「私がここにいる間に、キースが目覚めるか、私の体を壊してしまえばいいんだから。でも、ギアはそれをしない。キースに恨まれたくないのよ。あなたを殺人犯にしたくないの」
"キースのため、というと少し違いますよ、クレハ。私は、今のあなたも、キースの目から見るあなたも好きなのです。両方とも堪能したいのです。我儘なのですよ、私は"
微笑みながら、なんて恐ろしいことを考えているのだ、この二人は。そもそも、俺の中に呼んだ人間を閉じ込めてしまえることを、今初めて知った。そんなこと、ギアは一言も言っていなかった。ミラのときもそうだったのか?
「クレハ、もうここには来るな。自分がどんなに恐ろしいことをしているのか、理解しているのか? ここにいることによって、死ぬかもしれないんだろ? そんな危険な目には遭わせられないよ」
「それを言ったら、キースだってそうでしょう? 私が今ギアをここで殺せば、あなたも死ぬのよ? 安易に他人を中に入れようなんて考えないことね」
クレハに冷たく言われて、はっとする。そうか。ギアが死ねば俺も死ぬ。危険なのは、俺も同じことか。
"だから、私は、信頼できる人間しかここに呼びませんよ。その人がどんなにキースのそばにいると言っても、私が信頼できない人間は招き入れません"
そういえば、この空間にやってきたことがあるのはミラとクレハだけだ。よく考えれば、条件が整うことは二人以外でも多くあったのに。ギアは俺をちゃんと守っているのか。
"当たり前でしょう。キースを守らなければ、私が死んでしまうのですから"
まぁ、そうだよなぁ。そのあたりの危機管理はギアのほうがしっかりしていそうだ。
「なぁ、クレハ」
「なに?」
「その、本当に、囮になるのか?」
「ええ」
クレハはあっけらかんと応える。それが当然のような答えだ。
「あの魔族はそろそろ普通の魔術師では我慢ができなくなった頃よ。でも、室長階級の魔術師は強くて狙えない。なら、特殊な魔術師を狙うだけ。精霊使いの魔術師なんて、なかなかいないもの。ザッカス先生と私なら、若い私のほうが狙いやすいだろうし。エサとしては美味しいと思うけど」
「ちゃんと対処できるのか? いくら精霊使いの宮廷魔術師だと言っても、まだ二期目じゃないか。仕事中はともかく、通勤中に襲われたら……」
「だから、ここにいるんじゃないの」
ギアの頭をなでながら、クレハは事も無げに言い放つ。
「え?」
「鈍感ねぇ。ライカ女王陛下が通勤退勤中は騎士をつけろとおっしゃっていたでしょう? 私の担当はキース、あなたなのよ」
確かに、女王陛下は「通勤退勤中に騎士の警護をつけてやってほしい」と仰せになっていたが、まさか自分がクレハの担当だとは思わなかった。
「ちょ、ちょっと待ってくれ、クレハ。囮になるクレハを守るのが俺でいいのか? まだ一期目の俺に、そんな大役任せていいのか?」
"大丈夫ですよ。私がいますから"
「大丈夫でしょ。逆に狙われやすくなるでしょ。経験の浅い騎士に守られている、精霊使いの魔術師。狙うには最適だわ」
狙われる気満々のクレハを、俺はどこまで守ることができるだろう。今からそれを考えると、胃が痛くなりそうだ。