第3章「ハンマーが振り下ろされる。どこに?」
私が覚えている限り、鼻に水鉄砲を押し込まれたことはない。それに多分、今までの人生のなかでこれほどまでに鼻から水を吐き出したこともない。
吐き戻して、息を吸うタイミングで水を鼻から入れられる事が、これほど苦しいとは思わなかった。でも、そうやって苦しむ私の姿がおかしいらしく、さっちゃんはまるで赤ちゃんでもあやす様に笑いながら引き金を何度も引いた。
何にでも、終わりは来る。
「あら、水がなくなったわね。残念。」
そう言ってさっちゃんは鷲掴みにしていた髪の毛を外して、つまらなさそうに私から離れて部屋を出て行った。
鼻の痛みと耳鳴りが頭痛に拍車を掛ける。
咳き込みが落ち着いても、抵抗する気力もわかないし、頭を上げる気力も目を開ける勇気も出てこない。ただただ、泣いた。
自分がどこにいるかも分からない。手も足も縛られている。自分を拉致したのは同級生で無二の親友。その親友は私に自分を殺せと言ってきている。
こんな状況で出来ることなんてない。
何かの間違いかもしれないと思ったけれども、間違える要素が見当たらない。
じゃぁ、何があってさっちゃんは、こんな事をしたのだろうか…。
がちゃん。
不意に目の前のドアが開く。
鼻歌が聞こえる。
少ししてさっちゃんが入ってきた。手にはバケツを持っている。
頭の中に恐怖が全身を支配する音がした。
さっちゃんはおびえる私の顔を見下げた。
「まったく、ひどい顔よ。」
さっちゃんは重そうに持っていたバケツを床に置いて、中に入っていたタオルを絞る。バケツの一杯の水を使って水鉄砲で鼻から水を飲まさせられると思っていたのでホッとして力が抜ける。
少しして顔にひんやりとした感覚がして、私の全身は再びこわばる。
「そうそう。そうやっておとなしくしていて頂戴。私だってひどい事したわけじゃないのよ?」
優しい声で私をたしなめて、濡れタオルで優しく顔を吹き上げる。
「さぁ、鼻をかんで…。いい子ね。綺麗になったわよ。」
私の鼻水で汚れたタオルを一度バケツで洗う。そしてもう一度鼻をゆっくりと優しく吹き上げてくれた。バケツの水については私の誤解だったことが理解できて、少し落ち着いたけど、こわばった身体はまだ戻らない。
「怖がらないで?うーん。そうね。さっき鼻歌を歌ってたでしょ?覚えてる?中学生の頃、好きだって言ってたの?ブルーハーツのハンマー。ここに来る前のカーステのFMでリクエストされててね。思わず鼻歌歌っちゃった。」
私にはさっちゃんの変化がまるでハンマーで頭を殴られた様な衝撃だ。
「良い曲よね?ハンマーが振り下ろされ…。ほら。歌って。ハンマーが…。」
知らない曲だ。歌い方が分からない。
「歌え。」
感情のない声。逆らえない。とにかく歌い出さないと…。
「ハンマー…、が、振り…下ろされ…る?」
先が分からない。こんな曲知らない!でも歌わなきゃ。ハンマーが振り下ろされる。どこに?なんで振り下ろされてるの!わからない。歌わなきゃ!
「ハンマーが…、ハンマーがぁ…。」
分からなくて歌えなくて、意味も分からず叫ぶ。
「へたくそ。もう沢山よ。」
ぬれタオルを顔に力一杯投げつけられた。だって、こんな曲知らないもの。
「さて、それじゃぁ本題に戻りましょうか?」
心臓が凍り付く。私は、おそるおそる顔を見る。目が笑ってない。
「ねぇ。考え直してくれた?」
「あの…。」
声が震える。さっちゃんは本気だ。本当に殺されたいと思っているかはともかく、目的のために私を多少痛めつけるくらい平気でする事を疑う余地はない。
「さっちゃん。冗談よね…。」
それでも私は真意を確かめようとする。何故だろう?
「本気よ?そうね…」
どこからかさっちゃんは鉄パイプを持ち出して、これ見よがしに手のひらを叩いてパンパンと音を出した。
殴り殺される!
私は半狂乱になって身体を揺さぶって逃げようとしたが、ほとんど動けなかった。泣き叫ぶ。
平手で殴られた。
恐怖が恐怖を呼び、過呼吸になったように呼吸が安定しない。何かを叫んでいるのだけど、自分が何を叫んでいるのか理解できない。こんな状態なのに自分に違和感を覚える。
また平手で殴られた後、ぬれタオルで鼻と口を押さえられた。
息が出来なくなって、もがき苦しむ。窒息寸前で解放される。何回も何回も続けられて、とうとう私は気絶した。